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【小説】 透明の家 《第一話 後編》

 

見渡すかぎり青い空。連日続いていた雨は上がり、絶好の引越し日和となった。


時折葉っぱから滴り落ちてくる雨の名残りを避けながら、遊歩道を抜ける。まだ端が濡れている住宅街の道を軽やかな足取りで通り過ぎていくと、目の前に高々と聳え立つマンションが現れた。


 今日から、ここが我が家か。


 変わらない生活をするための、新しい生活。矛盾するこのスタートに心躍らせつつ、僅かながらの心のざわめきとともに足を進めた。

 ガラス越しにロビーの中に目をやると、深海さんともう一人のスタッフ、そして三船さんが談笑している姿が見えた。私は見慣れた顔に安堵し、マンションのエントランスに小走りで駆け寄った。気づいた深海さんが中からオートロックを開錠すると、自動ドアが開いた。

「おはようございます!」

「北条様、おはようございます」

「北条!いらっしゃい!」

 明るく出迎えられ、ますます心は晴れやかになった。

 深海さんから「こちらをどうぞ」と、小さな封筒を渡された。受け取り中を確認すると、そこにはカード型の鍵が入っていた。

「お部屋までご案内いたします」

 ロビーを奥まで進んだところにあるエレベーターに乗り込む。ここでもカードキーが必要らしく、その説明を受けた。五階まで上がり、廊下を歩く。いくつかドアを通り過ぎ、三番目のドアの前で深海さんが立ち止まる。

「こちらが共通玄関でございます」

 指し示された方向には、何の変哲もない一般的なマンションの扉があった。よく見ると、インターホンの上に表札が二枚設置してある。病室の入り口にあるネームプレートのようだ。そこには『北条』という苗字の他に、『南』という苗字が差し込まれていた。

「北条様のお部屋は左手でございます」

開け放たれた扉の正面には壁があり、そこには絵画が飾ってあった。その両側にある扉の左手側を開け先まで進むと、靴脱ぎ場が現れる。中は通常の部屋と何ら変わりはない。

「部外者を部屋の中に入れることは避けたいので、引越し業者にはこちらの玄関までの荷運びをお願いいたします。そこから先は私どもがお手伝いいたします」

 そう言うと、深海さんの背後から屈強な男性が三人ほど姿を現した。おそらくコンシェルジュなのだろうが、一体どこに隠れていたのか。ポカンっとその様子を見ていた私に向かって三人は頭を下げ、私も「よろしくお願いいたします!」と、慌てて頭を下げ返した。

 引越し業者はその後、すぐにやって来てた。下される荷物を部屋まで運び入れ、棚やベッドなどの大物の配置に関して指示を出す。現場監督ってこんな感じなのかなと、ふと思った。

 業者と私、そして屈強な三人の助っ人と、深海さんや三船さんにも手伝ってもらったおかげで、荷運びは予想以上に早く終わった。

「ありがとうございました。おかげで早く終わりました」

 終了後、休憩もせずに早々に立ち去ろうとする皆さんに素早くジュースを渡した。

 引越し業者へのお礼のために用意したジュースを、ついでだからと箱で買っていた数日前の自分にグッジョブと親指を立てる。深海さんたちには、落ち着いた頃にまたお礼を持っていこう。

 業者をマンションの入口まで見送った後、深海さんから声をかけられた。

「早々で誠に申し訳ございませんが、この後、パートナー様との顔合わせの場を設けようとっておりますが、いかがでしょうか?」

 心臓がびくんっと跳ねる。突然訪れた配偶者となる人との対面の機会に、私は口どもりながらソワソワと視線をあちらこちらに散らした。背中をつうっと伝う汗の動きにより、自分が汗だくであることに気づいた私は、

「あの、着替えてからでも、いいですか?」

と言って、一時の猶予を得る口実を得て部屋に戻った。

 いそいそと自室に戻り、共通玄関から中に入る。自室の反対側にある扉をジッと見据えながら、先ほどのネームプレートに書かれた『南』という文字を思い出した。

 五秒ほど立ち止まっていた私は、はっと我に返り、急いで部屋に入る。生活用品を詰めた段ボールからシャンプーや石鹸を取り出し、シャワールームへと向かった。

(……気難しい人じゃなければいいな)

 最低限のコミュニケーションが取れる人なら、どんな人でもいい。

 真新しいシャワーヘッドからは嗅ぎ慣れない匂いがした。私は降り注ぐ水の束を浴びながら深く息を吐き、両頬をピシャッと叩いて気合を入れた。


                 *


 一時間後、私は指示されたとおりにロビーへと降りて行った。汗だくのTシャツから、涼しげなブラウスに着替え、靴もスニーカーからパンプスに履き替えた。

 相手もまだ見ぬパートナーに対して不安を抱いているはずだ。そう思い、できるだけ清潔感のある、信頼を得られるようなスタイルを選んだ。

 エレベーターを降り、一歩ずつ踏み締めるように進んでいく。開けた部屋の奥に深海さんがいた。コンシェルジュカウンターの目の前に配置されたソファに、こちらを向いて座っている。そして、その手前には男性の後ろ姿と、もう一つ、鮮やかな髪色をした小柄な女性らしき後ろ姿が見えた。

「あれ?」

 思わず口から漏れてしまった声で、深海さんがこちらに気がついた。立ち上がって私に歩み寄ると、ソファに座っていた男性もこちらを振り向いた。
 メガネをかけ、黒いシンプルなジャケットを着ている。身長は私と同じくらいで、表情は少し強張っているように見えた。男性はこちらに向かって軽く会釈をし、私も同じように会釈を返した。隣に座っている女性はと言うと、振り向くこともせず、ピクリとも動かない。

 ここは部外者以外は入れないはずだし、子ども連れも入居できないはずだ。

 では、彼女は一体、どちら様なのだろうか。

 私は首を傾げながらも、深海さんに勧められるまま、彼の対面の席に座ろうとした。が、座る直前、中腰の姿勢のまま固まってしまった。

 彼の隣に腰掛けているのは『人形』だった。人間と見間違えるほどの大きさだ。マネキンとは違い、表面がツルツルしていない。関節も動かせるようで、きちんと足を揃えて座っていた。柔らかな緑色の髪は二つのお団子にまとめられ、きちんとレディースの服や靴を身につけている。キラキラ輝く大きな目と小さな口、ほんのり染まった頬に、美しく施されたマニキュア。子供の頃に見ていた魔法少女のアニメを思い出す。あまりの完成度の高さに人間味を感じた私は、無意識のうちに彼女に対して会釈をしてしまった。

 「北条様、どうぞお掛けください」

 深海さんに声をかけられ、慌てて腰を下ろす。

「本日はお時間を頂戴いたしまして、誠にありがとうございます。早速ですが、お互いのパートナーになる方を私どもの方で選ばせていただきました。本日はその顔合わせとなります。よろしくお願いいたします」

 三者とも互いに頭を下げる。

「こちら、基本情報をまとめた資料でございます」

 開始早々、深海さんは私たちの目の前に分厚い冊子を差し出した。表紙から何ページか開いてみると、お互いのプロフィールをまとめたものや、入籍日や馴れ初めの設定などを書き込むためのワークシートがあった。その内容は裏表紙に近づくにつれ、手術を受けることになった場合の同意や、死亡時の財産の取り扱いなど、現実的な問題を取り扱ったものになっていく。日本の法律を添えて事細かに書かれている文章に、結婚という行為の重みを改めて感じた。

「まずはご両名様のご紹介をさせていただきます。こちら、北条みのり様でございます。ご出身は埼玉県で、年齢は三十二歳。現在は都内の出版社でウェブマガジンのライターをされています」

「……え?あ、北条と申します。どうぞ、よろしくお願いいたします」

 紹介のあまりの簡素さに動揺しつつも、ペコリと頭を下げて挨拶をした。

「こちら、南圭吾様でございます。ご出身は宮城県で、年齢は三十五歳。現在は都内の会社でシステムエンジニアとして働いていらっしゃいます」

「よろしくお願いいたします」

 南さんは低く落ち着いた声で挨拶をすると、短く切りそろえた頭を下げた。やはり表情は強張ったままだ。

「そして、そのお隣にいらっしゃるのが、南様の奥様でいらっしゃる、カナデ様でございます」

「……え?」

 聞き間違えかと思い、もう一度尋ねてみる。

「南様の、奥様の、カナデ様でございます」

 直ぐに先ほどと同じ言葉が返ってきた。

「えっと、深海さん?」

「はい」

「ここって、未婚の方しか入居できないのではありませんでしたか?」

「左様でございます」

「でも、今、奥様でいらっしゃると……」

「左様でございます」

「重婚じゃないですか、それ!」

 突然、複雑極まりない関係性を突きつけられた私は、無意識にとんちんかんなセリフを発してしまった。

 この人間の女の子を模した人形が、私のパートナーの奥様であり、私はこのパートナーと入籍しなくてはならない。

 頭の中で何度も文章に起こして反芻してみるが、そう簡単に飲み込めるものではなかった。

「私の方から、ご説明させていただきます」

 取り乱している私とは逆に、澄み切った水面のようにゆったりとした微笑みを浮かべながら、深海さんが話し始めた。

「南様は、カナデ様のことを心より愛していらっしゃいます。そしてカナデ様もそれは同様です。しかし、今のこの国にはお二人を正式な夫婦として認める法律がございません」

 人形と人間の恋愛が当然のように話が進められていたが、私はその初期の段階で躓いている有様だった。どうにか理解しようとし、知識として頭の片隅にあったピグマリオンの神話や異種婚姻譚などを引っ張り出すと、「まあ、そんなこともあるだろう」と半ば思考を停止させながら話を聞き続けた。

 南さんはというと、膝の上でギュッと拳を握り俯いていた。悔しがるように唇を噛んでいる様子から、彼の本気さが見て取れる。

「周囲の目を気にせずに、お二人で生きて行きたい。そう考えて、南様ご夫妻はこちらへの入居を決めたのです」

『周囲の目』という言葉に、びくっと肩が揺れた。

 世の中には、いろいろな人がいる。

 そして、私もその『いろいろな人』の一人であることを、瞬時に思い出した。

「法律上の婚姻関係ではないため、重婚には当たりません。ご安心ください」

 深海さんは相変わらず涼しげに微笑んでいる。これが人間相手だったら内縁関係となり、入居時の禁止事項である『恋愛』に該当してしまうのだろう。

 人形だからこそ世間の目に追われ、人形だからここにいることを許されている。

 一見、人間と対等に扱われているように見えても、そこには明確な壁がある。

そう考えると、目の前に笑顔で座っている彼女が少し悲しげに見えた。

「……あの」

 南さんがこちらに向かって声をかけた。

「混乱させてしまい、すみません。でも、僕たちは本当に真剣に想い合っているんです」

 彼はともかく、どうしたら物言わぬ人形の気持ちがわかるのだろうか。頭に自然と浮き上がってきたそんな疑問が、目の前の人間を否定しているかのように感じ、後ろめたさに目を逸らす。私が視線を外したことに焦ったのか、南さんはこちらに身を乗り出して説明を続けた。

「突然こんな話をして、驚かれているとは思います。でも、彼女は本当に僕の大切な人なんです。彼女とずっと一緒にいたいんです。僕の一生を賭けてでも、大切にしたいんです」

 もう一度、彼の顔を見る。眉頭はギュッと中央に寄り、瞳はギラギラと光を反射している。まるで彼女との結婚を承諾してもらおうと相手の両親に説得しているかのような必死さだった。子どもを持つ予定がない自分が、まさかこんな経験をするとは思わなかった。

 私は恋愛をしている人に対して嫌悪感や嫉妬心をは感じたことはない。
むしろ、馴れ初めや惚気話など、本人が話したがっている場合は一緒に楽しみながら耳を傾けるタイプだ。恋愛をテーマにした小説やドラマ、映画や漫画、歌などの作品も好きだ。恋愛うんぬんというよりも、人と人との結びつきや心の機微の描き方に、美しさを感じる。

 しかし、自分がそれを経験するということに関しては、また別の話なのだ。

 さらに言ってしまえば、南さんへの印象は『普通』だった。言い換えれば、『無』だ。プラスもマイナスもない。特に何の感情も抱いていない相手を、わざわざ傷つけるようなことはしたくない。

 他の人に迷惑をかけているわけではなく、ただただ自分の人生を自分らしく過ごしたい。その点においては、私たちは同志なのだから。

「大筋はわかりました。法律上問題なければ、結構です。お話を進めてください」

 あまり深く触れる必要もないと判断し、深海さんへ進行を促した。

 そのあとは、基本的な決まり事の説明、馴れ初めの設定や結婚指輪の選定などを事細かに話し合って決定した。「オーソドックスな馴れ初め設定は、『知人からの紹介』です。」と、深海さんが言った時、三船さんが同僚にそう話していたことを思い出した。設定だったのか、あれ。

「今後二週間以内に入籍手続きをお願いいたします。その前にご両親へのご挨拶や、顔合わなどをされる方が多いのですが、いかがいたしますか?」


 来た。最初の難関である『両親への挨拶』。

 できればしたくない。しかし、勝手に入籍して後から何か言われたくもない。面倒なことを避けるためにも、挨拶だけはしておきたいというのが私の考えだった。南さんをチラリと窺う。渋い表情を浮かべていた。

「……その、僕はあまりそういった場が得意ではなくてですね……」

 先ほどの情熱的な態度とは打って変わって、ソワソワと指を動かし、視線を泳がしている。私もそういったことは苦手なので、気持ちはわかる。しかし、ここで頑張ってもらわなくては困るのも事実だ。

「南様、ご両親への挨拶は強制ではございません」

 深海さんの言葉に、背中にドッと汗が吹き出す。確かにパートナーへの強制はできない決まりだ。しかし、ここで食い下がらなければ、今後の生活は、私が想像していた穏やかさとは程遠いものになってしまうだろう。

「じゃ、じゃあ……」

「しかし、挨拶もなくお二人で勝手に入籍したところで、今度は別の不和が生じる可能性がございます」

「あ……」

 少々演技がかった仕草を織り交ぜつつ、彼女は続ける。

「南様は、周囲からの声を収めつつ、自分らしい人生を送ることを目的としてこちらにいらっしゃいました。違いますか?」

「いえ、違いません!」

 食い気味に南さんが答える。

「後々の安定した生活につなげるためにも、ここは踏ん張りどころなのではないかと思います。南様にとっても、カナデ様にとっても」

 彼は隣に座っている恋人の横顔をバッと振り向くと、「カナデ……」と消え入りそうな声で呟き、再び唇に歯を食い込ませた。彼女は前を向いたままだった。

「南様のように挨拶が苦手な方は大勢いらっしゃいます。そこで私たちは、演技指導、シナリオ作り、当日のサポートなどを行うオプションをご用意いたしました。今のところ、こちらのオプションを利用した場合の成功率は100%です。ぜひお気軽にご利用くださいませ」

 なるほど、今のは商品売り込みだったのか。渡りに船と言わんばかりのタイミング、うっすらと浮かべられた穏やかな表情。セールストークだとわかっていても、一瞬、仏様のようなありがたみを感じた。やっぱり深海さんは仕事のできる人らしい。

「南さん」

 答えを出しあぐねている彼に向かって、静かに語りかけた。

「一緒に、頑張ってみませんか?」

 お願いだからイエスと言ってくれ。そんな切な願いをすんでのところで飲み込み、できるだけ優しく囁く。それでもまだ迷ったままの彼に、私はどこか不自然さを感じた。

 私たちは本日、初対面だ。愛想はないが、見たところ自然にコミュニケーションを取れている。彼はおどおどしているわけでもなく、落ち着いて話せているのだ。確かに両親への挨拶は確かに特別な緊張感もあるし、拘束時間も長い。しかし、今日のように……そう、仕事で打ち合わせをするかのように淡々と対応する能力はあるはずだ。では、一体何に引っ掛かっているのか。

 もう一度、よく彼の動きを観察してみた。相変わらず、目線を忙しなく動かしている。


(……あ)


 私はそこで気づいた。そして、次の一手を思いついた。


「……カナデさん」


 私は人形に向かって話しかけた。
彼女の顔に描かれた大きな瞳を見て、真っ直ぐに。

「カナデさんからしたら、到底納得できない話だと思います。こんな、見ず知らずの女が突然、大切な旦那さんに向かって両親に会って欲しいだなんて」

 他の二人は一体どんな顔でこれを聞いているのだろうか。気になるところだが、ここで目を逸らす訳にはいかない。

「ただ、これだけはわかっていて欲しいんです。私はお二人を応援したいんです」

 窓ガラス越しに差し込んだ屋外の葉の影が、彼女の顔の上でゆらゆらと動いている。

「先ほどの南さんの言葉、『自分の人生をかけてでも守りたい』という言葉に、私は感動しました。そんな風に思える相手、そうそう出会えるものではないと思います。私は、その絆を大切にして欲しいんです」

 不意に席から立ち上がる。彼女の目は固定されているため、私の腰あたりに視線が向けられている形となった。

「南さんとカナデさんが幸せに暮らしていくためにも、どうか私に協力してくださいませんか。お願いします」

 おおよそ直角ともいえる角度で、勢いよく頭を下げた。新人時代に一度だけ同じようなお辞儀をしたことがある。あれは、結構大きめなミスをしたときだったはずだ。

 どのくらい、そうしていただろうか。自分では五分くらいの感覚だったが、実際には一分も経っていなかったかもしれない。その間、誰も言葉を発していない。もしかして、これは外してしまったのではないかと思われた、その時。


「……っ!カナデっ!」


 南さんの口から、切羽詰まったような声が溢れた。予想していなかった事態に、慌てて顔を上げる。しかし、目の前の彼女に何ら変化はない。事態が飲み込めないまま隣を見てみると、まるで何かに感動したかのように口に手を当てながら、潤んだ瞳でカナデさんを見つめている南さんがいた。何が起こっているのか、私にはわからなかった。

 彼は目元を指で拭い、呼吸を整えるかのように「ふうう……」と長めに息を吐くと、


「分かりました。協力します」


と、覚悟を決めたかのように低く答えた。

 どうやら、正解だったらしい。第一の関所を突破した私は、彼に頭を下げたり、深海さんと顔を見合わせたりして、しばらく喜びの余韻に浸っていた。忙しない犬のように喜んでいる私に気が緩んだのか、

「カナデの気持ちを汲んでくださるあなたとなら、上手くやれそうな気がします」

と、南さんも少しだけ口の端を緩めてくれた。

(続)




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