記事一覧
第17話 エッセイ『死なないように生きていた』
死なないように生きていた時期がありました。
だから、結局、死んだように生きることになりました。
おそらく、私は幸福だったのでしょう。気に入った仕事に巡り合い、家庭もそれなりに平穏。経験を積んでいい年になり、世の中にそうビクビクすることも減りました。自分が何者なのか分からず、怯えることも無くなりました。
そんな日常に感謝して、静かに眠りにつく日々でした。
しかし…、私は朽ちかけていました。
平和
第15話 エッセイ 『社会人1年目、いじめに遭う』
「出庫依頼書です」と、声をかけた。返事はなかった。
先輩達の目は、作業中の画面に集中するふりをしながら、はるか彼方の地平線に投げかけられていた。人が他者の存在を完全に否定するときの、独特の目だ。こうして、意識を遠くに飛ばしながら、地球を一周回って、私の頭を後ろから殴りつける。
いつもの衝撃を味わいながら、淡々とふるまった。今日も自分で商品の出庫手続きか、と心の中でため息をついた。
営業課に配属
第15話 エッセイ『ペトリコールの後悔』
ビキニの水着の上に、ワンピースのレインコートを着て、レインハットを被り、長靴で大雨の街を歩く。さぞや楽しいだろう。全身で雨音を楽しみながら、土砂降りの中を闊歩する。中は水着だから、コートの中に雨が入り込み、ずぶ濡れになっても平気だ。何ともいえぬ解放感を味わえる。私には、そんな密かな夢がある。
実はこれは、学生時代に読んだ、ある小説の主人公の若い女性の行動だ。若かった私は、自由でキュートな彼女に
第12話 エッセイ『沈丁花のファンファーレ』
「金木犀は高く香り、沈丁花は低く香る」
ある本に出てきた言葉である。小さなラッパのような形の花が、ブーケ状になって咲く沈丁花。好きな花の一つであるため、この一文が印象に残った。
確かに、金木犀は小高木樹であり、沈丁花は低木樹である。香りと出会う位置が違うということか、と、その視点にハッとした。秋に、青く高い空を見上げたとき、ふと金木犀の香りに気づく。また、春めいた日に、足元の小さな若葉が目に入
第10話 エッセイ 『葉山のそわそわ』
町にそわそわした空気が流れ始めた。
昼間よく晴れた日に、夕刻を知らせるチャイムが、町に鳴り響いたときだ。
窓から空を見ようとすると、通りを挟んだ家の住人が、ベランダに出てきた。
私と同じように、西の空を確認している。
空には、ごくごく薄く雲が張っているだけだ。住人は、すぐに部屋の中に戻った。
出かけるのだろう。
私も急いでスマホと鍵をポケットに突っ込み、マンションの玄関ドアを開けた。
同じタイミ
第9話 短編小説『蠱惑の森』
気がつくと、森の外にいた。
森の外に走る小道に立っていた。空気はカラリと軽く澄んでいた。
先ほどまでいた森で吸い込んだ息を、小道でふうっと吐き出した。
わたしの中に、森は無くなった。
目の前森は、相変わらず、湿り、揺れ、鳥がざわめき、実が熟れている。
その森から、外へ出てしまった。
出て、しまったのだ。
わたしは戸惑い、同時にほっとした。
爽やかな小道に立ち、森をじっと見つめた。
澄んだ小道
第8話 短編小説『かすみとくすぶりの中のまり子』
自分の人生、自分で責任を取りたいの」
まり子はまっすぐな視点を母に投げてそう伝えた。
老いた母親は、きょとんとした顔でまり子を見つめた。
まり子の母は、明るくて世話好きで気立てがよかった。
子どものころ、うちに友達が遊びに来るとなると、手作りのケーキやババロアなどをふるまったり、帰りには小さなお土産をもたせて、その子の自宅まで車で送ってあげたりと、実に親切に接する。
風吹ジュンに似た顔立ちも
第7話 短編小説『はじめは早く、徐々にゆっくり読む小説』
(まずは、内容に集中しながら思い切り速く読む)
飛び込みで取引先を獲得する完全歩合制の営業職と聞くとそのヘビーさが想像できるでしょう。 私はかつてそんな職業をあえて選び猛烈に仕事をこなしていたころがありました。あの頃は、厳しい仕事でチカラを付けて「何者か」になりようやく豊かな人生は手にできるものだと本気で思い込み朝から深夜まで頭の中は営業戦略と数字で溢れかえり大量に発生する書類とメールの処理や会
第6話 短編小説『気に食わないあの女上司』
ふーんだ。
新しく異動してきたあの女上司、嫌な感じっていうか…まあ、なんか好きじゃないのよね。
最初見たときから、私の中ではアウト。
ぜーったい、私とは合わないタイプの女。ふん。
なんか表情が硬いし、いっつも真顔なのよね。
なまじ目鼻立ちは悪くないから、能面みたい。
きっと、自分は何でもできます、
自分が一番正しいですって思って生きてきているようなタイプね。
確か…40代半ばとか言ってたっけ
第5話 短編小説 『新入社員の色男 ジゴロ君』
確かに彼は、研修会場にいる新入社員の男の子の中では整った顔立ちをしていた。
今どきの若い男の子らしく少し眉を整えており、ラグビーでもしていたかのような体格の良さを持ち、背も高かった。
高卒・大卒の男女が混じった30名ほどが参加する新入社員研修で、彼は高卒だったが、隣の席の大卒男子よりずっと落ち着いた大人びたムードを持っていた。
「では、本年度の新入社員研修を始めます」
少々尖った声で研修のスタ