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第19話 エッセイ 約束の千円

「約束の千円、払わんとあかんな。向こうに行くのが、遅なっとるから」と父は写真に向かって呟いた。

付き合いの多い父は、家業の店を母に任せてよく出かけた。一方、母は一人で店を切り盛りし、夜は義父母の世話をした。そして、遅く帰る父を笑顔で迎えた。

やがて、義父母が他界。さらに私や弟が独立して家を出ると、家の中は急に静かになった。そのうち、ついに店も閉じた。

「静かな家に住むのは、生まれて初めてやわ」と、私が帰省するたび母が言うようになった。「お父さんは、よう飲みに出かけるしなあ」と実に寂しげに微笑んだ。
実家は工場を営み、人の出入りが多かった家に育った母だ。夜などはさぞ心細かろうと、父を恨めしく思った。

「お父さんとグアムに行くの。お母さんの奢りで」電話口で母がイタズラっぽく笑った。聞けば父が「我慢しとる顔を見ると出かけにくいわい」と言い出すので、「じゃ、遅くなる日は私に千円ちょうだい」と約束したそうだ。つまり、グアムに行けるほどの金額が貯まったということだ。
束縛せずに寂しさを紛らわせるための、いじらしい約束とその金額に、私は切なくなった。
「全部、自分で遣っちゃえばいいのにさ!」と言うと、「うふふ。これでええの」と言って、母は電話を切った。
その翌年に母は肺がんと診断され、あっけなく他界した。

グアムで撮った写真に話しかける父に、「笑顔で待っとると思うよ、いつもみたいに」と私は言った。
「そやな。いつも、笑っとったな」と、遠い目をして、父は答えた。


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