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第8話 短編小説『かすみとくすぶりの中のまり子』

自分の人生、自分で責任を取りたいの」

まり子はまっすぐな視点を母に投げてそう伝えた。
老いた母親は、きょとんとした顔でまり子を見つめた。


まり子の母は、明るくて世話好きで気立てがよかった。

子どものころ、うちに友達が遊びに来るとなると、手作りのケーキやババロアなどをふるまったり、帰りには小さなお土産をもたせて、その子の自宅まで車で送ってあげたりと、実に親切に接する。
風吹ジュンに似た顔立ちも愛らしく、友人からの評判は高かった。

「まりちゃんのお母さんって、美人だし優しいし、いいなあ!」
と友達は羨ましがった。
そのたびに誇らしかった。まり子も母親が好きだった。

寝付けぬ夜は、母親は眠くなるまでずっと背中をとんとんとしてくれた。
のどが渇いて目を覚ますと、その気配を察して母親も目を覚まし、麦茶をコップに注いで寝室まで持ってきてくれた。
寒い日にベッドに入ると、事前に電気毛布のスイッチが入れてあり、温かい毛布の中にぬくぬくと身を沈めることができた。

まり子は、温かい母の陽だまりのような保護の中で育った。

しかし、少々世話好きが過ぎる点もあった。

まりこのランドセルの中身を揃えるのは小学校を卒業するまで続いた。
おかげで小学校時代に忘れ物をしたことは一度もなかった。

図書館で借りてくる本も、母親が選んだ。
たしかにそれらは面白かった。彼女の選ぶものに間違いはなかった。

毎日着る服も、母親が選んだ。
ときどき、自分で洋服をコーディネートしてはみたが、必ず母親がクローゼットの奥からひとつふたつ違うアイテムを持ち出してきて、着替えることになった。
母親が仕上げた組み合わせはよく褒められた。
自分が似合う服とは、母親が選ぶ服なのだと学んだ。


ある日、英語教室の先生が引っ越しするためにお別れ会が開かれることになった。受講生の中で一番年長だったまり子が先生にお別れのご挨拶の手紙を書いて、みんなの前でそれを読み上げる役割を任された。

しかし、
「あの先生はご挨拶に厳しいから、叱られちゃいけないわね」
と、まり子が手にしていたペンと紙を取り上げ、母親が代わりに手紙を書いた。
まり子は、大好きだった英語の先生のお別れの場で、母親が代筆した手紙を読み上げることになった。
「すてきなお別れのご挨拶のお手紙、本当にありがとう」と先生は言った。それを聴いて、まり子はほっとした。

と、同時に、まり子の胸に小さなくすぶりが生まれていた。
まり子はそれに気が付かなかった。


大切に育てられたまり子は、穏やかな娘に成長した。
優しい性格は人を安心させ、友人や恋人に恵まれた。

「そうね、そうね」と笑顔であいづちを打ってくれるまり子を前にすると、彼女の友人らはみな雄弁になった。
「ほかの人には内緒よ」と、校則をやぶってカフェで甘いカクテルを飲んでみた話や、同じ大学に通う恋人がいるのにほかの大学の男の子とドライブに行った話を打ち明けられたりした。

そんなとき、まり子は友人らの小さな野心の実行にあこがれた。

母親が入れてくれたハーブティを飲みながら、「恋人以外とお出かけするって、どんな気分かしら」と、友人の小さなアバンチュールを追体験してみた。
しかし、うまくリアルにイメージできない。想像してみようとするが、頭にかすみが掛かったような感じがする。
「うまく想像できないなあ。私がぼんやりしているからかしら」


まり子はお付き合いする恋人らによくこう言われた。
「まり子って、なんかふわふわしているよね」と。

「そう?でも、自分でも思うの。なんか、私ってぼんやりしているのよね」
「俺はそこがかわいいと思うけど、自分では嫌なの?」

「ううん、べつに嫌じゃないけど……なんかこう…手ごたえがないの。
私、生きてるかしら…って、、こう、生きている実感、みたいな感じ? そういうの、たまに見失うの」

「へっ?生きている実感? 何それ、どういう意味だい?」

「うーん……えーっと……私にもわかんない。……え? この後、何がしたいって? そうねえ…」

どこか行きたいところがあったような気がした。
しかし、なかったような気もした。
私は何をしたかったんだっけ? と自分に聞いてみたが思い出せない。
いや、もともとそんなものはなかったのかもしれない。

まり子は恋人の意向に任せた。



「お母さん、私たち、もうだめかもしれない」
実家に戻って1週間。まり子は母にそう切り出した。

私たちは結婚して3年が経っていた。子どもはまだいなかった。
商社に勤める夫の達彦は、毎晩帰りが遅かった。
その達彦が浮気をしていることに気が付いたのは3ヶ月ほど前だろうか。
携帯に保存された、知らない女性と旅行している写真を偶然見てしまったのだ。

しかし、その事実を目の前に、まり子はどうしたら良いかわからなかった。
いや、「どうしたら良いのか」ではない、「どうしたいのか」わからなかった。

「私はどうしたいのか」

昔からいつも、その問いを持つたび、まり子の頭にはかすみが掛かったような感じになった。そして、胸にくすぶりが残った。

考えがまとまらないまま、夫に何も言い出せず月日だけが去った。
悲しみはあった。重たい気持ちを抱え続けることは苦しかった。
しかし、抱えている以外にどうしようもない気がした。


ある晩、達彦が静かに切り出した。

「僕は浮気をしている。…君は気が付いているんだろう」
彼はなぜか、悪びれるというよりは、憐れむような、いや、寂しそうな声でそう告白した。

「なのに、どうしてずっと黙っているんだい」

まり子はなんと返せばよいかわからなかった。

言葉を探すが、何も頭に湧いてこなかった。

沈黙が続いた。

また、夫が口を開いた。

「君は、いつもそうだ。君の気持ちを聴きたいんだ。
ときどき、僕は君といても、君といる感じがしないんだ。
僕は君といたいのに」

声が悲しげにに揺れ、語気が強くなっていた。

そして、続けた。

「まり子は僕とどうしたいんだい?」

まり子は混乱した。

「しばらく考えさせて」と言って、まり子は家を出た。



小学生のころのことだった。
バレエのレッスンが何となく億劫で嫌になった。
やめたい、と思ったが、もう少し続けてもいいかもしれない、と気持ちが揺らいだ。相談したわけではないのに、母は私の様子を察していた。
そして、ある日レッスンの帰り道に母が言った。
「まりちゃん、大丈夫よ。今日、先生に辞めますって言っておいたからね」


社会人1年目のことだった。
まり子は就職祝いに買ってもらった軽自動車で、小さな追突事故を起こした。
それも、母がすべて始末をつけてくれた。相手の人はむち打ち症になったと聞いたが、どのように母が先方に謝罪をし、どのように示談となったのか、まり子はわからなかった。
すべてが終わってから、母は告げた。
「大丈夫、まりちゃんはもう、大丈夫だからね。」

まりちゃんは、大丈夫。大丈夫なのよ……

ーそこでまり子は目が覚めた。


達彦と住む家を出て1週間が経っていた。
まり子は何の気力もわかず、家を出たときのままになっている実家の自分の部屋ので本を読んだり、音楽を聞いたりして、毎日をやりすごしていた。

ベッドに寝転び、古い小説を読んでいたらそのまま眠ってしまったらしく、昔の思い出が夢になって出てきたのだ。

「そんなこともあったなあ」
とまり子は夢から覚めながら当時の記憶を思い出しつぶやいた。

すると、突然、夫の言葉が頭によみがえった。

「まり子はどうしたいんだ?」

「私は……私は……私は……」

まり子ははっとした。

「私は、責任を取りたかったのよ…!」

そう、私は、責任を取りたかった。
自分で辞めると言いたかった。
自分で謝罪をしたかった。
自分の選択の結果を引き受け、全部味わいたかった。
その結果が痛みであったとしても、すべて体験したかった。

「だけど、私が倒れこむ先は、いつも母の用意してくれたやわらかいクッションの上だった」
まり子はそう思った。


自分の行動の結果を引き受ける。
それを責任と呼ぶ。
責任を取り上げられれば、決断も取り上げられる。

それらを回避する人生は、意欲の発露もその結末も素通りすることになる。
生きている手応えを取り上げられれば、人生のリアルは消滅する。


「ふわふわのクッションは、もう、いらない」
まり子はベッドから起き上がった。
家を出るときに持ってきた旅行かばんに、もう一度荷物を詰め直した。


「本当に一人で大丈夫? お母さんが達彦さんに話をしてあげてもいいんだよ」
と、玄関先で母が言った。
母親の体は以前より幾分小さくなっているような気がした。

私は夫とどうしたいのか。
まり子には、今、明確な答えがあった。

頭にはかすみが掛かる感じも、胸がくすぶる感じもなかった。
まり子の中に、ただ、クリアな意思があった。
結果を引き受ける覚悟と同時に、その意思は芽生えた。

「ありがとう、お母さん。でもね、私…」
とまり子は言った。

「自分の人生、自分で責任を取りたいの」

まり子はまっすぐな視線を母に投げてそう伝えた。
老いた母親は、きょとんとした顔でまり子を見つめた。

まり子は、強くドアノブを握って玄関の扉を開いた。

外は初夏の日差しがまぶしかった。

「私が、決める。何が起きてもぜんぶ、自分で引き受ける」

まり子は、手ごたえを味わった。

≪終わり≫


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