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第7話 短編小説『はじめは早く、徐々にゆっくり読む小説』

(まずは、内容に集中しながら思い切り速く読む)
飛び込みで取引先を獲得する完全歩合制の営業職と聞くとそのヘビーさが想像できるでしょう。 私はかつてそんな職業をあえて選び猛烈に仕事をこなしていたころがありました。あの頃は、厳しい仕事でチカラを付けて「何者か」になりようやく豊かな人生は手にできるものだと本気で思い込み朝から深夜まで頭の中は営業戦略と数字で溢れかえり大量に発生する書類とメールの処理や会議のための準備に加え顧客からの依頼が降ってくるのを瞬時に優先順位をつけて高速で片付け一息つくことさえ煩わしいと一気にタスクを仕上げることに快感を覚えながら受話器を肩に挟んで顧客と話し左手でデータの入力をして右手で回覧のハンコを押しては次の交渉先の戦略を頭の隅で行う日々を繰り返し時間と体力の限界までやるべきことを詰め込んで得るある種の達成感と仕事の実績そしてそれに応じた収入という即物的な報酬は私をむやみに高揚させさらに自分を追い込むかのように多忙さに拍車をかけ過ごす日々でした。

その高揚感が、果たして自分が求めていた豊かで満ち足りた生活なのかどうか…
よく、わからないまま。


(少しだけ、スピードを落として読む)
ある日、街路樹が並ぶ道を通りかかりました。いつものように、朝から分刻みで詰め込んだアポイントをこなし、次の約束に向けて急いでいたときです。上から一枚の花びらが降ってきました。
桜です。
そこは桜並木が有名な通りでした。見上げてみると見渡す限り満開の桜が立ち並んでいました。
「ああ、もうこんな季節なのね。桜……さくら? 
あれ、桜って……ん?」
私は立ち止まり、桜を見つめました。瞳に満開の桜を映し、かなり長い時間見つめ続けました。周りから見たら、桜に見とれているように見えたかもしれません。
しかし、実はその逆でした。
私の心は何も感じていなかったのです。

「これは美しいものである」という知識と記憶はあるのに、私の心は何も感じていないのです。それどころか花の形状をしたプラスチック製の何かのように見えてしまう。私はそんな自分に戸惑い、頭上の桜らしきものを凝視していたのです。
やがて、何も感じない自分を薄気味悪く感じ、手で頬をペチペチと打ちました。
ふと、次に約束している顧客とは大きな取引が控えていることを思い出して我に返り、「ようし、やるぞ!」と意気込んでその場を立ち去りました。
桜のことはすっかり忘れて。
  
それから数か月後の夕方。私は子宮から大量に出血をしながら倒れ込んで意識を失い、そのまま入院をしました。 過労が原因でした。
いつか手に入れると夢見た豊かに満ち足りた日々は、どれだけそこに向けて走っていても、ただ、ギラついた興奮が押し寄せるばかりで、いつも私の手の届かぬところで蜃気楼のようにうっすらとチラつくばかりでした。
退院すると同時に私は退職をしました。
20代最後の年でした。 


(ここで一度深呼吸し、落ち着いて、ゆっくり読む)

あれから10数年が経ちました。

もう、中毒的に何かを追いかけて自分を追い込むなどということはしなくなりました。

一方、暮らしのふとした瞬間に留まり、それを緻密に、そして丁寧に味わうという楽しみを見つけていました。
仕事で挫折したころ出会った、優しい夫の母の影響です。

彼女は幼い頃から茶道に親しんでいました。
私は結婚当初、彼女の所作の美しさや丁寧さによく見とれていました。
長年のお稽古で磨かれ、洗練された茶道家らしい美しい仕草です。

お醤油の小瓶を食卓に置くだけなのに、
床のカバンを取るだけなのに、
私に物を渡すだけなのに、
何気ない手元の動作にふくよかな質感を伴った小さな世界が刹那に宿るのです。

ある日、「茶道をしていない私でも、そのきれいな所作を身につけるためのコツはありませんか?」
と義母に尋ねました。

すると
「ひとつのことをするとき、そのひとつのことだけを、ただ、するのよ。緻密に丁寧に、堪能するの」
と答えてくれました。

「たとえば、お箸を置くときは、ただ、お箸を置くことだけを存分に味わうこと。
自分が美しいと思える角度でお箸を持ち、テーブルや箸置きの上に、緻密に、丁寧に、置くの。
ゆがまぬように、ばらけぬようにね。
そして、最後にそこに箸が落ち着いていくさまを確認する。
物というのは、そこに置いたあと、一息ついて場になじむものなの。
ひとつの作品を仕上げるようなつもりでそれを確認するのよ。
ただ、する、とはそういういうことよ」

そして、
「大事なことは、それらの作業を楽しむこと。
義務感を出してはだめよ、つまらなくなるから」
と、付け加えました。

それを意識することは、ヴィヴィッドで賑やかだけどどこか薄っぺらい空虚な世界から、
新鮮な色味で穏やかに潤うあの「ふくよかな世界」にアクセスする鍵になりました。

義母から教わった「緻密に丁寧に、ただ、する」というコツは、私の日常を変えました。




(ゆっくりと、ゆっくりと。とてもゆっくりと、読む)


例えば、私の気に入っている「ただ、する」作業のひとつ、洗濯物をたたむ時。


フェイスタオルをいちまい手に取り


風にあおられたままのゆがみを整えます。


使いやすい薄地のタオルは端が巻き上がって乾くので


それも指でなめすように伸ばして整えます。


端と端をきっちり合わせ


てのひらでアイロンでもかけるように


じんわりと押さえて丹念に折り上げます。 


タオル地の柔らかさや


すこし乾きすぎて ざらり とごわつく感覚を楽しみ


こぼれる太陽の香りと洗剤の香りをつかみます。


畳んだら、それをひとつひとつ脇に積み上げていきます。


仕上げは、きちん、きちんという声がしそうなほど


誠実に折りたたまれたタオルたちの山を見届けて


満足します。


洗濯物をたたみ終えることが目的ではなく


たたむということそのものが小さな娯楽になります。




例えば、食器を棚に戻すとき。


がちゃがちゃと戻すのではなく


まるで貴重な骨董品を棚に陳列するかのように

さも尊そうに  ことり と置いてみる。



ふだんより、ほんの少し丁重な自分の手元の動きを楽しみながら。


繰り返すうち


食器を片付け終えることが目的ではなくなり


器を置く作業そのものに悦びと趣を感じ始めます。




(ここからは、一文字ごとを、噛みしめるようにゆっくりと、読む。
文字の一音一音を味わうかのように、心してゆっくりと、真にゆっくりと、読む) 




おなじように、とびらを閉める間際も


緻密に、丁寧に行う。 


ただ


それだけを


味わう。



ぱたり、ととびらを閉じた音が


空間に


完全に


吸い込まれるまで


耳をすまして聞き届ける。




階段を上るときの


身体の動きを


緻密に、丁寧に行う。


ただ


それだけを


味わう。




とんとんという靴のおとに


耳を澄まし、


体に感じる高低差を


愉しむ。




のぼるたびに


足の筋肉が


ぎゅ、ぎゅ、と引き締まる様を


キャッチする。



海に沈む夕焼けを眺める。


緻密に


丁寧に


眺める。 



全身の感受性を開いて



紫色の


薄闇が


覆いはじめる


夕焼けの空と



柔らかい橙色の


光と波の影が


反射する海が


1秒ごとに


変化する気配を


ゆっくりと


たどる。



「ただ、する」を意識をするだけで

行動の完了が目的ではなく

行動そのものが豊かな目的となる瞬間が

ひと目づつ紡がれて、

私の後ろに

彩り濃き時間のタペストリーが

つづり織られてゆきます。 



(ここからは、お好きなペースでどうぞ)

かつて幻を追いかけるように焦がれ
求めていた豊かで満ち足りた日々というものは、

自分で随所に創りだせるものであり、
日常の全ての瞬間にこうしていつも存在していたのでした。

冬が明けたら、
今年も満開の桜を緻密に丁寧に眺めに行きます。

きっと、桜からほとばしる新鮮な生命力と、
圧倒されるほどの美を、私は全身で味わい堪能するでしょう。

「私は何もわかっていなかったのね」と、
プラスチックの桜を見上げて立ちすくんでいた
あの頃の自分を思い出しながら。

-fin-

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