“母親”として
私は、母親という役割を持った人間だ。
活動において、自ら言うことはしなかった。聞かれたら話す程度で隠してはいないが。
様々な複雑な事情があることもあるし、嫌がらせで子への特定や攻撃などを避けたかったからだ。
だが、今回の嫌がらせは子の名前や小学校などがつらつらと書かれるようなものだった。隠そうとしても隠せないものなのだということが、よくわかる事件となった。
私は母親であるが、子とは離れて暮らしているのは活動を見ていればわかるであろう。
元夫からの酷いDVに耐えきれず名古屋に家を借りた私は、子を不安にさせないため離婚後も半別居という方法を選んだ。
初めはそれで上手くいくように見えたが、やはり元夫とは合わないため喧嘩も増え、同時に名古屋の仕事が忙しくなり会いに行ける時間も減った。
もちろんお金はずっと入れ続けた。ボロ雑巾のようになるまで。
そんな時、ちょうど二年前だろうか。久しぶりに家に帰った。
何気なく家にいると生理用品が大量にお風呂の前に置いてあり、私以外の別の女性が出入りしていることをそこで知ることになった。
吐き気がした。
離婚すれば恋人を作るのは自由だ。だけど子供たちを不安にさせないように夫婦という形ではいようという約束をいとも簡単に破った元夫に嫌悪した。
怒りが収まらず問い詰めたところ、逆ギレした元夫が家に来るなら不法侵入だと言い始め、子供と家で会うことを許されなくなった。
私は長く育てた家、たくさん子との思い出があるあの家に、入ることが出来なくなったのだ。
下の子が乳離れできるようになった。
お昼寝の時間が心地よかった。
上の子が小学校に行き始めの頃は毎日ハラハラとしながら見送り、お迎えをした。
休みの日はたくさん色々な所へ連れていった。
ご飯もきちんと作っていたし、弁当作りも毎日した。
元夫は子や他の人間に「料理ができない、家事もしない」などと言っていたそうだが、それは元夫が正社員になれた会社を無断で飛び無職になったからだった。
無職なのだからそれくらいやって当然だろう、こちらは働いて生活費を支えているのだから。
そして極めつけは私の計画した事業に強引に参画し、勝手に経費を使い花を買い、売上が出ているのかも分からない事業を強引にしたせいで、私の夢だったフォトスタジオは閉じるを得ない状況に追い込まれた。
今も売上が出ていても確定申告しているのか不明だ。確定申告してないのならばやはりよほど売上がない意味の無い事業なのだろう。
他にも沢山あるが、事業資金で買ったものを無断で使ったり、私が仕事先から預かっていたApplewatchを勝手に自分のモノのように使ったりなどして返却も何年も遅れている。
何もかも、私が仕事をしないと回らないのに仕事の邪魔をし利益だけを貪る元夫に心底腹が立つ。
元夫に未練なんてまったくない。あるのは子供たちだけだ。
いつまでも無条件で愛おしく、大きくなればなるほど可愛い。赤ちゃんの頃は大変で可愛いと思う暇もないほどだったがもちろん可愛らしい仕草に癒されていたし、子育てで何度も子供と共に泣いたこともある。
そんなボロボロな時期に容赦なく殴り続けた元夫。罵声を浴びせ精神的にも苦しんだ。暴言もDVだということを知らなかった。とてもとても、苦しい日々の中、子供の成長だけが私の光だった。
宝物だった。
ずっとそばで寝顔を見ていたかった。
そんな母子なら当たり前なことが出来なくなった私は、1人で生きるしかなくなり、この地で生きた。
必死に生きた。
何度も死にたいと思った。
笑顔になると子供に悪いような気がして、大切な人ができた日、本当は幸せなはずなのに、幸せになってはいけないような気がして罪悪感で泣いた。
事情をよく知らない世間は私を育児放棄した母親などと言うだろう。それでも事実はこれなのだから、育てたいと申し出てももう、手遅れになってしまうのだろう。
子供に会いたい。
会って抱きしめて今日あった出来事を聞きたい。思春期になる様子を見守りたい。難関校を希望する子供の、受験のサポートをしてあげたい。
そんな希望は全く聞き入れられないのだろう。私は、体の力がだらりと抜けていくのを感じている。
もっと幼いうちに逃げていれば、
子供を連れていけていたら、
半別居という口約束をしなければ、
後悔は尽きない、だけど前を向くしかないから。
いつかそばにいれる日が来るかもしれないと私はこの地を離れ、子のいる場所へと戻る。
意味があることかは全く分からない。ここにいてもいなくても、できることは沢山ある。少なくともここで一人でいるよりは。
色々な可能性をかけ、私は動く。
山口葵
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