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アメリカの大学で教えてみないか(8):劣等感について

もともと海外に出ようって思ったのは「劣等感」が原因、っていうあたりの話をもう少し詳しく書いて見ます。

以前、僕が留学して大学の先生になるきっかけをくれた3人の先生の話を書きましたが、どうも何か、書き落してる気がします。3人の先生以前の話ですね。

前にも書きましたが、高校では英語なんて全く興味ありませんでした。「質実剛健」を売りにした高校にもイマイチ馴染めず、「麻雀部」。何が不満ってわけじゃないんですが、「何か違うぞ」っていう違和感。

その頃はわかってなかったんですが、あらかじめ敷かれたレールの上を走る人生ってつまんないよね、ってことだったと思う。だから大学受験も消去法で、なんとなくつまんなそうな法学部とサラリーマン養成学部みたいな経済学部は受けず、残ったのが文学部か教育学部。ガキのいきがりですが、今思えば、それはそれで筋は通ってました。

勉強がしたくて入ったわけじゃないので、大学でも寮で酒と麻雀と合コンの日々でした。ところが、1年生の同じクラスに父親の仕事でオーストラリアに住んでた女子学生がいたんですが、この人がとんでもなくぶっ飛んでました。なんたって、クラスでの自己紹介が「私、最近自分が宇宙人だってわかったんです」ですから。周りは呆気に取られてても本人は全く意に介さず。

今思うと、この「ぶっ飛び方」が日本人離れしてて、カッコよかったんですね。ちなみにこの人、大学に3年行って卒業まで1年残して、1500人受けて2人しか受からなかった民放の局アナになりました。4年の時はゼミだけ出ればいいからその時は仕事抜けていいよっていうとんでもない条件。今は幸せに専業主婦です。

「へえ、こういうのいいじゃん」と思ったところに飛び込んできたのが「フランス政府留学生」の募集ポスター。別にアメリカでもオーストラリアでもフランスでも良かったんです。日本以外なら。高校から感じてた「違和感」が、日本に対してのものか、ありきたりの人生に対してのものかはわからないけど、突破口が海外にある、って勝手に思っちゃった。

で、大学1年の1学期の中間試験だけ、真面目にフランス語を勉強しました。とは言っても、授業は半分くらいしか出ないんですけどね。それで取った点数が79点。すぐ隣の女子学生はシャカリキになって勉強してる様子もないのに、なんと91点。これですぐに諦めました。できる奴には勝てないよねって。

多分1年目の12月、暮れも押し迫ってきた頃、寮にギターを持った外国人がいました。拙い英語で「何したいの?」って聞いたら「アイウォントゥウォーク」っていうから、日本中を徒歩旅行してるのかと思ってもう少し聞いてみると、僕が英語を全くわかってないことが判明。その白人、ロバート・ジェリコ・ストーンは "I want to work"(働きたい)って言ってたんです。

ギターを弾かせてみると、相当なレベルでうまい。オリジナル曲もいくつか持ってて、じゃあ、新宿か渋谷あたりのクラブで仕事探そうかって回ったものの、年の暮れの忙しい最中でいかにもタイミングが悪い。どこも「年が開けたらまたきてくれる?」っていう返事。

カナダ人のロバート君は世界一周の途中。奥さんをインドに置いて日本に出稼ぎに来たのに仕事がない。日本での滞在は寮に居候だからただ同然だけど、そのままじゃどうしようもないってんでカナダまでの航空運賃を「貸して」あげました。お年玉やアルバイトで貯めてた虎の子の17万円。

「カナダに戻ったらちゃんと返すからね」なんていう空約束を信じるあたりが若気の至りで、何週間後かに出した手紙は「宛先不明」で返送されて来ました。今なら「そんなの当然でしょ」で済むけど、当時はショックでした。

この17万円は決して安くはなかったものの、良い「授業料」でした。あるいは僕の目を開かせてくれた大きなきっかけです。というのはこのロバート君、事あるごとに「カナダはいいぞ〜。国は広いし、仕事はいくらでもある。来たら面倒見てやるからな」って僕に吹き込んでくれたんです。

確かに当時のカナダはまだアジアからの移民も少なく、土地はいくらでも余ってる状況でした。僕にとってはカナダもアメリカもどうでもよくて、「日本以外の国」に行けるとっかかりができた、あるいは、海外の生活のイメージが浮かぶようになった、という事だったんでしょうね。

イメージって大事ですよね。よく、「事業で成功したかったら、自分が将来やりたい事業のイメージを思い浮かべろ」って言います。で、このイメージから逆算して行動して行くってことなんでしょうね。こういうのって全部「今思えば」なんですよね。だからこれも、できれば若い人にも読んでほしい。

3年になって社会学を専攻したらそれなりに面白かったので、日本で大学院に行くことも考えてました。ところが、ここでも圧倒的な劣等感を感じちゃったんですね。

家族の起源を探るのに、社会学の「隣」の学問、文化人類学を勉強したかったんですが、東大の社会学は本郷キャンパス、文化人類学は駒場キャンパスなので、先生について勉強ができない。なので、僕が音頭をとって「文化人類学自主ゼミ」ってのをやりました。

ここに集まって来たのがとんでもない学生たちでした。何を話してるかさっぱりわからないんですが、そのわからない話が何ヶ月後かに「思想」っていう難しい雑誌に乗っちゃったりします。もう頭の良さが桁違いなんです。

その当時のメンバーは今や京大、千葉大、中央大などで日本の(家族)社会学の中心的存在になってる、いわばエリート学者の卵だったんですが、その頃の僕にそんなことわかるはずもない。「大学院に行くような奴ってのはとてつもなく頭がよくって勝負にならない」ってはなから諦めてました。諦めた、とまでも行きませんでした。最初から考えもしなかった。

で、その後で1年留学して人生のコースがガラッと変わったんですが、僕が海外の大学院に行ったのは基本的には「逃げた」んですね。頭の良さでは太刀打ちできない同級生から逃げ、どうも適応できそうもないサラリーマン生活からも逃げた。自分で事業を起こすほどのビジョンもないし、何よりお金に振り回されるのが嫌だったので、こっちからも逃げた。

逃げた結果が今。別に勉強や研究が好きな訳ではないけど、結果オーライです。こういう学者もいるってことを書きたかったってのが、「アメリカの大学で教えてみないか」のポイントでもあります。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

(見出し画像)言わずと知れた、ニューヨークの自由の女神。すぐそばにあるエリス島に移民のための入国管理事務所があったので、ヨーロッパからの移民はほぼ必ずこの像を見ることになり、「喜びの象徴」になりました。




人とは違う視点からの景色を提供できたら、って思ってます。