もし徳作者が考える!徳川家康から学ぶ国家運営。
政治不信。
昨今の日本では政治に対しての不信感というものが大きく取り上げられています。
筆者の著書作品でもある、
「もしも徳川家康が総理大臣になったら」は、
コロナ禍で内閣支持率が過去最低に陥った日本の政界に、
AIホログラムを使用し、歴史上の偉人を蘇らせ、偉人たちで内閣を発足する物語です。
その内閣の主軸となる総理大臣に徳川家康を選びました。
徳川家康は、日本史上最長の政権となった、
徳川幕府の創始者です。
そこで今回は、徳川家康の国家運営の基礎はどこにあったのか。
振り返っていきたいと思います。
基本的には地方分権
江戸幕府は基本的には地方分権です。
江戸幕府では各領主の独立性が認められており
大名は自身の領地で、独自の政策を展開し、実施することが許されていました。
そして幕府の運営費は、徳川家の直轄領で賄われていました。
それゆえ、基本的には
「ちいさな政府」
と言えます。
現代でいえば、
地方は地方で運営。
政府は東京都の予算で運営。
という感じ。
その代わり、現代の地方交付税のように、
税収の少ない県を補填して支えるような仕組みはありませんでした。
あくまでも、地方自治体は自立することが前提。
これは、江戸幕府の前の豊臣政権から引き継がれたものです。
家康は秀吉の政策をそのまま受け継ぎ、
地方自治を認める代わりに、
幕府の公共事業(江戸城の建設や運河の建設など)
を大名たちに担わせました。
そして家康が秀吉の仕組みを引き継いだのには訳がありました。
家康が豊臣家から政権を奪取する過程で、
豊臣家に近い存在だった大名の支持を家康が得ていたことが関係しています。
家康は彼らの手前、
急激な変化を行うことはリスクがある。
と考えていたと思われます。
ルールの徹底と規律を示す!
江戸幕府の独自性という意味で、
非常に画期的な政策があります。
それは、
武家諸法度
武家諸法度は、大名の行動を取りしまり、反乱を起こさないようにするために、
大名に対する「法律」
武士という支配階級に対する「規律」
この2つを併せ持ったものです。
おそらく着想は、
家康が尊敬したとされる源頼朝が開いた鎌倉幕府の、
から来ているものだと考えられます。
「御成敗式目」は武士という社会の基礎法と道徳であったのに対し、
「武家諸法度」は大名に対する統制の側面が強いのが特徴です。
「武家諸法度」は一国一城制や、参勤交代など、
大名に対するルールが細かく定められています。
実はこれは先に述べた豊臣に近い大名たちに対する対策でもありました。
家康からすると、豊臣家恩顧の大名たちに対して、
味方になってもらったという背景があります。
それゆえに、厳しい態度で臨むことは難しかったのですが、
二代目の徳川秀忠や、
三代目の徳川家光には、
そのことが足枷とならないように、
法を明確にすることによって、
統制を厳しくすることを可能にしたのです。
この結果、福島正則をはじめ多くの大名が改易(大名の領地の削減)や取り潰し(幕府が大名や旗本の家の断絶を命じ、所領などを没収すること)
などの処分にあいました。
この処罰を受けた大名は、江戸期においてなんと半分近い割合を占めています。
これは、法の厳しさとともに、
小さい政府である幕府の権威を最大限に高めました。
また、この効果は「規律」においても発揮され、
江戸期において支配階級の武士たちが、
高い倫理観や道徳心を持つことを促進しました。
規律は、
集団における統制
行動の素早さ
この2つを生み出し、これが幕末の動乱から明治維新を乗り切る原動力となりました。
現代社会は、江戸期のような規律や倫理観が多様性の波にのまれ、
不確実な変化に弱くなっているのではないか?
個人的にはそのように感じています。(筆者)
江戸幕府の宗教政策
織田信長、豊臣秀吉の政策を基本的には受け継いだ徳川家康ですが、
その家康最大の政策といってもいいのが、
宗教政策の統制
戦国期に至るまで宗教勢力は大名家に匹敵する
武力
を持っていました。
織田信長は伊勢の一向一揆や本願寺、比叡山延暦寺などと対立。
長期にわたる戦闘を行っていました。
そして徳川家康も三河一向一揆で多くの家臣の離反と反逆に苦しめられました・・・。
戦国大名にとって、宗教勢力は脅威でした。
信長はそんな宗教勢力に対し、比叡山の焼き討ちなどの殲滅作戦を実行しました。
信長の徹底的な武力討伐により、
国内の宗教勢力の力は衰えました。
そして、信長の跡を継いだ秀吉が行った政策は、
刀狩
これは武士階級以外の武力を奪う政策でした。
刀狩を行った結果、
国内の宗教勢力の武力は大きく減退。
脅威はかなり抑えられました。
しかし、一方で急激に勢力を増してきたのは、
スペイン・ポルトガルなどを背景にもつ、
キリシタン勢力
でした。
信長はキリシタンの布教については寛容な姿勢を見せていましたが、
秀吉はキリシタンの背後にある宗教を梃子とした、
スペインなどの侵略計画の意図を知り、これを禁止しました。
家康はこの政策に関しても、
鎖国政策
という形で継承します。
国内宗教について
家康は国内宗教について、
仏教を国家安定の礎と位置付けました。
仏教の各宗派に寺院制度を制定し、
僧侶の資格や寺領を厳しく規制しました。
これにより、仏教勢力の政治への介入を防ぎ、
政教分離を徹底しました。
世界的な視点でみてみると、
現代においても西欧エリアでは、
宗教と政治はいまだに強い結びつきがあり、
世界で行われている戦争の根底には必ず宗教が結びついています。
現代の日本では宗教が政治にもたらすリスクは、
限りなく少ないです。
このリスクが少ないということは、
国内秩序と安定に大きなプラスとなっています。
家康のおこなった施策は、
現代のわれわれの平和の基盤につながっているといえるのです。
信長・秀吉の施策を「仕組化・定着」させた家康
家康は独創的な政策を生み出す天才ではありません。
しかし、恐ろしく現実的な人物です。
物事の本質を見抜き、
そこからきちんと構造化し、
仕組みを作り、
その仕組みを定着させる。
家康はこの力を持っています。
家康は尊敬する人物に、
源頼朝
を上げていますが、
信長と秀吉に対しては、
決して「尊敬」という気持ちは持っていなかったでしょう。
むしろ・・・
この二人は一貫して家康にとっては脅威であり、
屈辱を与える人物であったのではと思われます。
しかし、
家康はこの二人の政策を否定せずに引き継ぎました。
家康は信長や秀吉が持ち合わせていた、
想像力
革新性
構想力
これらを時間をかけて、
社会の基礎として定着させました。
信長と秀吉はこれを仕組化することはできませんでした。
※その機会がなかったともいえますが・・・。
家康にあって、信長と秀吉になかったもの。
それは・・・
組織を構築する力
それは天才リーダーによるカリスマ経営ではなく、
永続的に運営できる組織を作る力です。
江戸幕府における官僚システムは、
現代においても続いています。
今の日本も、
リーダーによって国家運営が大きく変わることはないです。
極端な話、
誰がリーダーになろうとも、一定の安定を保つことが可能です。
この仕組みはまさに、
家康が作り上げたシステムといってもいいでしょう。
この話を、
改革できない硬直化した組織
というマイナスの面から語ることもできますが、
リスクを回避する。
この点においては一定の評価と、
そして日本らしさという独自性と捉えてもいいのではないか?
歴史を通して私はそう考えています。
編集:青羽ひかり
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