30歳の前撮り
而立心
30歳の前撮りをした。他にそんな人に出逢ったことはないけど、20歳の前撮りをするなら、30歳の前撮りもneatでいいんじゃないかなと思った。teenager最後の面持ちとは全く違ったけどね。テーマは1950年代のハリウッドスター。ヘアメイクや補正の雰囲気も、大好きなマリリン・モンローに寄せて貰った。我ながらよく映れたと思う。
そのセピアに彩られたフォトグラフの自分から、10年前にはなかった儚さや愁いさを感じた。パステルピンクの振り袖に包まれた世間知らずな可憐な少女は、そこにはもういなかった。たくさん愛し愛され、哀しみ悦んだ、而立心に戸惑う1人の女がそこにいたのだ。これぞ、愛憎のホログラムといった感じ。きっと、往年のマリリン・モンローもそんな感じだったのかな。とびっきり輝けている時と、孤独な時のギャップが激しすぎて" I wanna be loved by you. " ってやつ。
ここで、而立心とは。「而立」の辞書的な意味は、「数え年30歳の別称」になる。要するに、「30歳らしく」が而立心。30歳らしさって何だろう。まだお姉さん?もうおばさん?「自律」と「自立」もイマイチ理解し切れていない私に、而立心なんて持ち得られるのか。
御年30歳を迎える、気持ちの構えようが分からない。どのような出で立ちや振る舞いを求められて、何が正しいのか。それを考えてる時点で世論に合わせてる感はあるけど、大人第二フェーズに入るってそんなもんだよね。第一フェーズよりも、それを求められる濃淡は間違えなく濃くなっているはず。
10年前よりは幾分自信のヴェールに纏われた女になれたけど、まだ完全体ではない。当時の自分は間違いなく迷子だった。透明マントを被って誰にも見つからないように、そこら中を彷徨っている19歳の少女。
誰も信用できなくて、哀しみしか知らず、人は必ず裏切る者だと思っていた。それでも必死に生きていて、そのヴェールを剥ぎ取りたくて仕方なかったのだ。でも、ただただその方法が分からなかった。分からなかったけど、野心だけは捨てなかった。
そして、10年が経った。常に首の皮1枚で繋がって生きてきた感覚だが、この10年でその皮は随分厚くなったと思う。たくましくなったけど、30歳になった途端に新たなる生き方が問われるのか。私は、それに対して度々恐怖心を抱くようになった。未来に対する恐怖心もそうだけど、型にハマる生き方をした途端に自分の長所や短所、全てがなくなってしまうんじゃないかって。自分はこれでいいのだという信念と、やっぱり世論に合わせないと浮いてしまうのではないかという邪念のシーソーが止まらない。そんなシーソーゲームはいらないのに。
厳密に言うと、私は高校入学(15歳)から歳をとるという感覚が分からなくなった。子どもだけど「労働」と言う選択を与えられるようになり、でも年齢的にはどっぷり親に甘えることもできた。そんなリアリティとファンタジーに生きることができた故、歳感覚がバグるようになったのかもしれない。それ以降、私はパラレルに生きてる気がする。もう、それの2倍も生きてるなんて凄いな。それまでは30代なんて幻の数字だと思って譲らなかったのに。このまま、ファンタジーがリアリティに融合していく様子をしかと見届けるしかないのか。
ちなみに、「凄く童顔だけど何歳なの?」と聞かれた時は、「永遠の15歳だよ」と言い、その理由を上記のように論理的に答える。ピーターパンシンドロームではないことは、しっかりと前置きして。
「現実を見なきゃいけない」とか、「○歳らしさ」みたいな世論は、私にとったら呪文だったりもする。耳が痛くなるって言うよりも、何かを単調に唱えられているような。それに対しては完全に抗っているつもりはなく、片目だけを瞑っている感じ。
言葉遣いや他者への接し方、テーブルマナーなどは年相応のそれを求められても致し方ない。でも、ツインテールをするなとか、カラコンをつけるなとかはなんか嫌だな。
ジェーン・スー大先生もアラフォー以降の「ポニーテール論」について、語っていたのはご存知の方もいるはず。
「息をしている数字」、即ち年齢がワンダイヤルでもずれるだけで、件の髪型をしてはいけないというカテゴリーに入るなんて何でだろうと思う。昨日までは良くて、年齢が切り替わった翌日からは駄目だと言われている感覚に陥る。
そうなると、ここでもパラレルに生きて青春を引きずっているだけなのかなとも思う。自分の全盛期の髪型をしてはいけないカテゴリーに入れられるなんて、後ろ髪を引かれる思いだからだ。
私は歌舞伎町で、いわゆる「ホス狂」として生きていた時期が長かった。それは20代の半分にも及び、ツインテールに黒のフチありカラコンをするのが「自分らしさ」であった。やっぱり、その年代の青春を飾る「自分らしさ」を完全に捨て去るのはとても淋しい。あの時の自分をリバイバルさせたい気持ちは無くもないけど、「規定」の年齢以降にその格好をするかどうかは分からない。
世間一般的な杓子定規で「らしくない」と測られるのが腑に落ちない感覚もあるし、物理的&精神的に青春を断捨離することに心苦しい気持ちもある。
定期的に要らない物を処分するのは好きだけど、青春の断捨離なんてしたことなかった。でも、而立と自立に伴ってしっかりと青春に向き合うことは大事だなと思う。決して蔑ろにするのではなく、自分の青春にしっかり感謝する。そうすることで、輝かしい青春がもっと煌びやかになり、昇華させることができるはず。
そして、「30歳の前撮り」は自分が30歳になるという覚悟を決めさせてくれる行為であることに気付いた。
次の10年は、どんな女性になっていられるかな。