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幸せと優越感の証

喫煙と受動喫煙のそれ

幸せと優越感の証って、喫煙と受動喫煙のそれに似ている。自身の欲を満たす為に、他者のありとあらゆる中枢を無差別に満タンにする感じ。特に、感情中枢。それが受動的に満たされることでポジティブな感情を抱くこともあれば、もちろんネガティブな感情を抱くこともある。自身が幸せであることやそれに対する優越感を、人の感情中枢を刺激して確認しないでほしいと思う。

それって、要するに感情の自慰行為として利用されているだけなのでは。そんな精神的受動喫煙は、ただただ害悪でしかない。ポジティブな感情を抱くことなんて、ほとんどないんじゃないかなと思うくらい。んー、強いて言うなら何かしらの火種で競争心が燃え上がる程度かな。

先日、とある同業の男性に自身の売上や顧客の稼ぎが如何に良いかを明け透けに語られた。極め付きには、私の仕事の情報をこれまでかという程に聞きだし、自己肯定感を蔑むような発言を連発してきたのだ。彼には私を意図的に傷付ける意思はなかったようだが、自身の自己肯定感の高さを露呈させ、更に優越感に浸りたいという雰囲気が感じ取られて仕方なかった。

彼はそれをすることで、他者の劣等感を刺激していることを知らない。劣等感を刺激されて躍起になるタイプもいれば、更に劣等感を植え付けられるタイプもいる。そんなことは全く気にしていない様子だった。正に、自慰行為さながら、1人の世界で快感を得ていたのである。

正直、そんな言動をとられても反応に困ってしまう。ただ、「それで?」「どうした?」というような感情を抱いてしまうのだ。受け取る必要のなかった情報を無作為に得ることで、余計なフラストレーションを感じでしまう。もしかしたら、私は他者の超越した幸福や不幸にそれ程興味がないのかもしれない。その無作為のメトロノームが、ちょうど良い具合に振り切ってくれたらいいのになと思う。幸福すぎても不幸すぎても、反応や気遣いに疲れてしまうのだ。ちょうど良いくらいだと、それは単に日常会話にすぎないし、雑音からは限りなく遠くなる。

でも、こういうことって、やっぱり誰かに指摘されないと気付き難いのだな。土足でも下足でも、他者の「幸せと優越感」に足を踏み入れることは、とても勇気がいる行為である。そうなると、当事者の癪に障らないように指摘するのは至難の技だ。そして、精神的受動喫煙をさせられた方が気遣うなんてのも、おかしな話である。だから、やっぱりこれって感情の自慰行為なんだなと改めて思った。そして、凄く無責任な行為なんだなと。

今の時代、何かを介して自己肯定感を高めるのはもはや普通のことだが、やっぱり他者に精神的受動喫煙はさせてはならないと自身の経験を通して痛感した。そして、無作為に起こるそのような言動は、自身の感情のメトロノームの調律を欠かさず行うことで防ぎ得ると思った。精神力が高くなれば他者を無作為に傷付けることは減るし、また、精神的受動喫煙をしてしまった時にも傷付くことは限りなく減るかもしれない。感情の証というのは、各々の生きてきた道のりに深く刻まれればいいのだ。

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