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A Course in Miracles 形而上学

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『A Course in Miracles』((奇跡のコース/奇跡講座)から抜粋した引用文にちなんたnoteコラム
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#目覚め

「奇跡」とは、この世界を超えたもう一つの見方を思い出していくための方法である

「奇跡」とは、この世界を超えたもう一つの見方を思い出していくための方法である

なぜ私はこの世界にいるのか?「私」という存在は何なのか?

なぜ、「私」はこの世界にいるのか?

なぜ、天国(ワンネス)ではなく、分離の世界にいるのか?

そのような自己の本質に関する疑問に対して、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)はその答えを明確に示してくれているといえます。

その答えは、つまりは、私たちが神の愛を恐れているからと言うことができます。

神の愛を恐れているから、私たちは

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私たちはワンネスであるならば

私たちはワンネスであるならば

私とあなたは別々ではない、自分と他者は別々ではない真理からいえば、私たちは一つ(ワンネス)です。

それは、「私とあなたは別々ではない」「自分と他者は別々ではない」ことを意味します。

それは、真に目覚めた者、悟りを生きている者の知覚の仕方だといえます。

ならば、ある誰かは目覚めていて、誰かは目覚めてはいないということがあり得るでしょうか。

もしそのような知覚をしているとしたならば、それは「私

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あなたが幸せでないならば、あなたは「癒し」を必要としている

あなたが幸せでないならば、あなたは「癒し」を必要としている


私たちは本当の幸せというものを知らない私たちは本当の幸せというものを知らないと言うことができます。

「私は幸せです、私はハッピーです」といった言葉で発信している人を見るとき、私たちは騙されないようにしなければなりません。

特に、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)という純粋な非二元の霊性の道を歩んでいるのであるならば、なおさらだといえます。

コースの観点からいえば、本当の幸せとは「(

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ひたすら不幸に献身している自分を認識することが、幸せへの第一歩です

ひたすら不幸に献身している自分を認識することが、幸せへの第一歩です

この世界とはどのような世界なのか?私たちが知覚しているこの世界とはいったいどういう世界なのか?

コース(奇跡のコース/奇跡講座)では、この世界について、「飢えと渇きに苦しむ生き物たちが死ぬためにやってくる乾いた埃まみれの世界(W-pⅡ.13.5:1)」というふうに表現しています。

その表現は、この世界にいる私たちにとって、まさに残酷すぎる言葉だと言わざるを得ません。

なぜ、コースのイエスはそ

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スピリチュアルと反スピリチュアル

スピリチュアルと反スピリチュアル


キリスト対反キリスト人類の歴史から見ても、私たちにとって宗教や霊的なものは切っても切れないものだと言うことができます。

むしろ、それなしで人間は生きてはいけないとさえ言うことができるでしょう。

宗教や霊的なものがない者たちは、唯物的なものに頼らざるを得ません。

そんな彼らですら、たとえ宗教、スピリチュアルとは無縁だとしても、やはり人が死んだときには葬儀を執り行ったり、祈りを捧げたりするわけ

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悟り、覚醒、目覚めを求める探究者の誰もがよく陥りがちな勘違い

悟り、覚醒、目覚めを求める探究者の誰もがよく陥りがちな勘違い

夢の主人公が目覚めるのではありません真理から言えば、本来私たちは神と一体の神の子であるわけです。

そうであるにもかかわらず、私たちは何をしているのか?というなら、真理とはまった真逆の夢を見続けているだけでなく、その夢の主人公と同一化した状態になってしまっていると言うことができます。

つまり、肉体/身体としての夢の主人公を自分だと信じてしまっているわけです。

真理から言えば、神の子が作り出した

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「覚醒」「目覚め」「悟り」を本気で求めているのなら

「覚醒」「目覚め」「悟り」を本気で求めているのなら

もはや教えられる必要がなくなるまで「覚醒」「目覚め」「悟り」とは何か?

真理から見るならば、それはもともと今すでに「在る」にもかかわらず、

自我と同一化してしまっている私たちにとっては、それがもはや達成すべきものとなってしまっているということです。

言い換えるならば、「覚醒」「目覚め」「悟り」というものなど本来はないのに、それがあたかも私たちのゴールになってしまっているということです。

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嘘の自分を信じ続けていたいだろうか?それとも、自分が誰なのかを思い出したいだろうか?

嘘の自分を信じ続けていたいだろうか?それとも、自分が誰なのかを思い出したいだろうか?


あなたは無力ではないこの世界で起きていることに対して、人生で起きていることに対して、コントロールができるわけでもなく、そんな私たちは自分が無力であると感じています。

そういう意味でも、私たちは外側の世界の被害者になっていると言うことができます。

何々のせいで、誰々のせいで、何々のせいで、これこれのせいで、、、あれがこうだったら、これがこうなったら、、、、

そのような思考をしているということ

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