あなたが幸せでないならば、あなたは「癒し」を必要としている
私たちは本当の幸せというものを知らない
私たちは本当の幸せというものを知らないと言うことができます。
「私は幸せです、私はハッピーです」といった言葉で発信している人を見るとき、私たちは騙されないようにしなければなりません。
特に、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)という純粋な非二元の霊性の道を歩んでいるのであるならば、なおさらだといえます。
コースの観点からいえば、本当の幸せとは「(完全に)目覚めること」でしかないということを知っておくべきです。
というのも、本当に幸せであるならば、もう幸せを求めようとはしないのはもちろんのこと、
本当に幸せであるならば、もはや「幸せ」「ハッピー」という概念すらもないわけです。
そういうことから言っても、「幸せ」とは、幸せではない者たちにとっての概念でしかないと言うことができます。
それは、「目覚め」「悟り」についても同じことがいえます。
本当に目覚めている者であるならば、「目覚め」「悟り」といったものを主張したりはしません。
というのも、目覚めていくならば、「目覚め」「悟り」というものすら無いということが分かってくるからです。
つまりは、「目覚め」も、「悟り」も、目覚めていない者たちにとっての概念でしかないと分かってくるということです。
真に目覚めていくとき、そうなっていくということを知っておくと良いでしょう。
「幸せ」や「目覚め」というものはそういうものであるにもかかわらず、「私はハッピーです」とか「私は目覚めた」とか言っている人の言葉には騙されないように十分に注意深くいる必要があるといえましょう。
幸せとは、苦しみの欠如である
上記でも述べたように、私たちは本当の幸せというものを知りません。
本当の幸せとは完全に満たされていることであるわけです。
しかもそれは常に、です。
そして、真理は、私たちはこの今もそうなのだということです。
そうであるにもかかわらず、この世界で私たちは何をしているのか?
というと、
「本当の幸せ」をまったく忘れてしまっているどころか、私たちはそれを苦痛・苦しみとして知覚しているということです。
ようするに、私たちはまったくデタラメな知覚をしているということです。
コースでは、それを「間違った知覚」という言い方をしています。
今や私たちの知覚は病んだ状態になっているということです。
それによって、私たちの知覚は、もはやここには「苦しみ」しかないというふうになっています。
「この世は一切すべてが苦しみである」と。
お釈迦様が真理を説いたように、確かにこの世界はそのように見えます。
まさか、それが知覚の誤りにすぎないとは、誰も知る由もないわけです。
それは、ただ単に私たちの知覚が間違っているだけです。
でも、私たちの知覚が訂正されていくならば、つまり、「苦しみ」が正しく知覚されていくならば、もはや苦しみは拒絶されるべきものではなかったと悟ることでしょう。
そして、そのように苦しみがもはや苦しみだというふうに知覚されないならば、そこにあるのは一体何なのでしょう?
苦しみの完全なる欠如、それが、私たちが真に求めている「本当の幸せ」です。
それを、「目覚め」と呼んでいます。
「本当の幸せ」こそが当たり前であることを悟るなら、そこにはもはや「幸せ」という概念すらもなくなります。
言い換えるなら、そうでないならば私たちはしなければならないことがあるということです。
ようするに、そうでないならば、あなたの知覚を癒していく必要があるし、そのためには学ばなければならないことがあるし、訓練していかなければならないものがあるということです。
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