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ケネス・ワプニック博士の語録

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『A Course in Miracles』をもっとも理解していたその第一人者であるケネス・ワプニック博士の言葉を引用したnoteコラム
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#象徴

学びの階梯の一番下に留まったままにならないように!

学びの階梯の一番下に留まったままにならないように!

日々の実践に応用されていなければ何の意味もないコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学んでいけばいくほど、あるいは、コース学習歴が長ければ長いほど、コースが教えていることの知識が豊富なものになっていくのは当然のことだといえます。

ただし、コース学習者の私たちが覚えておかなければならないのは、その知識だけが増えていったとしても、それが日々の実践に応用されていなければ何の意味もないということで

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「聖霊に明け渡す」「聖霊にゆだねる」ということについて

「聖霊に明け渡す」「聖霊にゆだねる」ということについて


聖霊とは?コース(奇跡のコース/奇跡講座)でいう「聖霊」とはいったいどういうものなのでしょう?

コースでは、聖霊(ホーリースピリット)について教師、守護者、導き手というふうに述べています。

私たちが気をつけておかなければならないのは、私たちは聖霊について、つい、その言葉通りに解釈してしまうということです。

いわゆる、ハイアーセルフとか守護霊といった類いの存在として、つまり、自分とは何か別の

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『ア・コース・イン・ミラクルズ』のイエス、聖霊について

『ア・コース・イン・ミラクルズ』のイエス、聖霊について


コースの教えを通して言葉を超えていくコース(奇跡のコース/奇跡講座)の学びが深まっていくと、つまり、コースが教えていることの内容を真に理解するようになると、コースそのものがすべて比喩で書かれてあるということが分かってきます。

コースはキリスト教用語や心理学用語を使って書かれてあるわけですが、その内容は純粋な非二元の教えであり、つまりは、この世を超えたもの、言葉を超えたものであるということです。

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言葉に騙されないように、言葉も象徴にしかすぎない

言葉に騙されないように、言葉も象徴にしかすぎない


これは概念を弄ぶコースではないコース(奇跡のコース/奇跡講座)学習の歩みは、「形而上学の学び」と「形而上学に基づいた実践」の両輪によって進んでいくといえます。

つまり、理論的な理解と、その理論に基づいた実践を通して、コースの学びは深まっていくということです。

そのどちらかがおろそかになってしまうなら、その学びが深まっていくことはけっしてあり得ないということです。

そして言えるのは、学びが深

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イエスはたんなる象徴(シンボル)なのだということ

イエスはたんなる象徴(シンボル)なのだということ


戦場を超えたところイエス(聖霊)を教師とするとは、いったいどういう意味なのでしょう?

実際に、

イエス(聖霊)から私たちは何を学ぶのか?

というなら、イエス(聖霊)が見ているように私たちも見ることができるように、その知覚の仕方を私たちは学んでいるのだと言うことができます。

イエス(聖霊)はどのようにこの世界や私たちを見ているのか?

ということを、私たちは「赦し」の実践を通して、その知覚

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分裂した心を癒すには、統合ではなく、もともと一つであることを思い出すだけ

分裂した心を癒すには、統合ではなく、もともと一つであることを思い出すだけ


キリスト教用語で書かれてあるがゆえに、私たちがつい勘違いしてしまうことコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)とは何か?

簡潔に言うならば、コースはキリスト教用語で書かれた一元論のスピリチュアリティだといえます。

ときに、コースがキリスト教用語で書かれてあるがゆえに、どうしても馴染めないという方もおられます。

実際に、そういう方々を私もたくさん見てきました。

ただ言えるのは、一元論のス

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あなたはイエスを十字架にかけたまま、イエスを崇め続けたいだろうか?

あなたはイエスを十字架にかけたまま、イエスを崇め続けたいだろうか?

イエスを崇拝することについてコース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)の学びが浅い段階では、イエスや聖霊を、まるで魔法使いのように、あるいは神秘な存在として扱ったり、ときには、崇拝すべき特別な存在として扱ったりすることがあります。

イエスや聖霊をそのように扱うとき、それがどういうことを意味するのか?

というなら、自我の分離の想念を強めることをしているということです。

つまり、それはイエスや聖

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