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イエスはたんなる象徴(シンボル)なのだということ
戦場を超えたところ
イエス(聖霊)を教師とするとは、いったいどういう意味なのでしょう?
実際に、
イエス(聖霊)から私たちは何を学ぶのか?
というなら、イエス(聖霊)が見ているように私たちも見ることができるように、その知覚の仕方を私たちは学んでいるのだと言うことができます。
イエス(聖霊)はどのようにこの世界や私たちを見ているのか?
ということを、私たちは「赦し」の実践を通して、その知覚(見方)を体験していくだけでなく、完全に修得することを目指しているということです。
そして、その練習が、「イエス(聖霊)と共に見る」という実践なわけです。
というのも、イエス(聖霊)は過去、現在、未来を見通したこの時空の外側から、つまり、この夢の外側からすべてを見ているわけです。
だから、私たちはそこから見る訓練をしていくのだということです。
ちなみに、イエス(聖霊)が見ているその視点(視座)を、コースでは「戦場を超えたところ」(T-23.Ⅳ)と呼んでいます。
その「戦場を超えたところ」は、コース形而上学に基づいて実践していくことで次第に見い出すようになっていきます。
そして、そこに居る自分のほうが真の自己(アイデンティティー)なのだという自覚/認識もなされていきます、
そう、私たちが本当に居る場所はこの世界の中ではなく、時空の外側の視点(「決断の主体」の空席となっている場所)に私たちは居るのだということが次第に思い出されていくということです。
そこは夢全体を包含して見渡している視点であり、この時空間、この夢の外側であり、その視点に居る自己(大文字のSelf)を思い出していくことがコースの学習者の私たちは目指しているということです。
コースはそのような霊性の道であるということを憶えておきましょう。
イエスは魔法使いではありません
コースの実践をしていく上では、
コースがどういうものなのか?
コースではどういうことをしていくのか?
そういったことを形而上学的(知的)にしっかりと理解していくことはとても重要だといえます。
コース形而上学の学びと理解は必須だということです。
もし、コースの形而上学を理解することもなくコースを実践していくとしたなら、まったくちがうコースの実践になってしまいかねないからです。
ときに、コースの学習者は「イエス」や「聖霊」がまるで魔法使いのように実相世界へ、神のもと(天国)へと連れていってくれるものだと勘違いして、コースを学んで、そしてそのような実践をしていたりします。
コースでいうところの「イエス」や「聖霊」というものについて、魔法使いとか、サンタクロース、天使みたいな存在であるかのように扱ってしまうことはよくあります。
コースを通してこの世界の夢から本気で目覚めていこうとおもっているのであるならば、そうならないように注意しなければなりません。
イエス(聖霊)が魔法か何かを使って、私たちを救済してくれるのではないのです。
それは地道な訓練によって成し遂げられるものなのだということです。
そのために私たちはイエス(聖霊)の考え方、見方(思考体系)を修得していかなければならないのです。
言い換えるなら、自分とは何者なのか?という真のアイデンティティーを思い出していく以外に真の救済はないということです。
ちなみに、その真のアイデンティティーの象徴(シンボル)を「聖霊」と呼んでいるのであり、さらには、その象徴を具現化したものを私たちは「イエス」と呼んでいるのだということです。
つまり、私たちがイエスや聖霊と同一化していくことが、真の救済であるわけです。
イエス(聖霊)が私たちを救済してくれるのではありません。
私たちがイエスのようになること、それが私たちがコースを学んでいるその目的なのだということです。
ワプニック博士は、コースのイエスについて、こう述べています。
”(コースの)イエスは魔法使いなのではありません。このコースは神秘でも、魔法でもないのです。それは、私たちがイエスのようになる、私たちがイエスになる、ということです。”
それは、私たちがいるこの世界にイエスを引き込もうとするのではなく、私たちがイエス(聖霊)のいるところに(視点)に行かなければならないのだということです。
赦しの実践を通して、イエスのいるところ、つまり「戦場を超えたところ」に戻る訓練をしていくことによって、私たちはその視点(視座)に本当の自分(真の自己)が居ることを思い出していくことになるということです。
イエスは魔法使いではありません。
イエス(聖霊)はそのような存在なのではありません。
もしイエスや聖霊をそのように捉えているとしたなら、それはコースが教えているものではありません。
もしそのようにイエスを捉えているとしたなら、それはイエスを十字架に掛けるようなことをしていると言わざるを得ません。
(私たちは、イエスをそのようにしてしまっています。)
そう、もしイエスをそのように捉えてコースを学んでいるのだとしたなら、それはイエスを十字架に掛けているだけでなく、ひいては、自分自身を十字架に掛けているのだということを私たちは学ばなければなりません。
そして、そのためには、やはり、コース形而上学のしっかりとした理解が不可欠なのだということです。
イエスが、救済者なのではありません。
救済者とは自分自身のことであり、さらにいえば、救うのも救われるのも、自分自身なのだということです。
私の救済は私の中から訪れる。(W-p1.70)
コースの観点からいえば、ここには自分以外の誰も、何ものも存在しないのです、
イエスも、聖霊も、たんなる象徴(シンボル)です。
イエスも、聖霊も、私たちの真の自己の象徴です。
ワプニック博士の以下の言葉を私たちはいつも思い出すべきです。
”それは、私たちがイエスのようになる、私たちがイエスになる、ということです。”
コース学習者の私たちはそういう道を歩んでいるのだということです。
そして、そのために、私たちはコースという純粋なる非二元のスピリチュアリティ(霊性の道)の教えを学んでいるのだということを知っておきましょう。
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