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草間彌生美術館-[草間彌生の自己消滅、あるいはサイケデリックな世界]

 直島の話の狭間に、遅ればせながら鑑賞してきた、草間彌生美術館-[草間彌生の自己消滅、あるいはサイケデリックな世界]、の話を。


草間彌生美術館(予約制)

 草間彌生美術館。2017年10月、新宿区に開館。

 白い小さな4階建て+屋上の建物。限られたスペースを巧みに活用しながら、企画展を開催している。そのペースはゆるやかで、開館以来、すべての企画展を鑑賞することができている。

 ある時期から、日本人よりも海外からの鑑賞者が圧倒的に増え、日本語以外の言語が聞こえるほうが多くなった。今回もそうだ。

 完全予約制なのだが、予約も以前に比べて取りづらくなっている(休館日が増えたということもあるかもしれない)。

世界のKUSAMAの内面世界


 「世界のKUSAMA」、は、ポップな水玉アーティストと誤解されていることも多い印象を受ける。

 その認識で来ると、かなり驚いてしまうような、草間彌生の内面世界を伝えるディープでストレートな企画展が多く催され、それがとても好きだ。

 今回の企画展も然り。

草間彌生は、単一モチーフの強迫的な反復と増殖から生じる、自他の境目が消えていくような感覚を“自己消滅” と呼び、さまざまな制作手法で表現しています。幼い頃の幻覚に由来するこの実践は、創作を始めた当初からの作家個人のテーマである一方、反復の制作原理や、鏡の反射と光の明滅などによって、観るものを恍惚とさせる作品表現には、1960年代後半に草間が拠点としていたアメリカを席巻したサイケデリック・ムーヴメントを特徴づけた、幻覚剤がもたらす知覚の変容を追体験させるような視覚効果と重なり合うものがあります。
本展では、そんな草間の作品世界にみられるサイケデリック性に着目し、さまざまな時代の豊かな創作のヴァリエーションを展覧いたします。60年代後半にニューヨークの個展で発表した、六角形のミラールームのシリーズ最新作を初公開するほか、ハプニングなどの記録動画を用いた映画や関連資料を通して、ムーヴメントの推進力ともなった当時の草間の活動をご紹介いたします。(後略)

開催中の展示 草間彌生の自己消滅、あるいはサイケデリックな世界 より


「平和への願望はひとつひとつ輝くばかり」(ミラールーム)


 本展では、1階エントランスに、上の説明文にも書かれている六角形のミラールームのシリーズ最新作、《平和への願望はひとつひとつ輝くばかり》2023年が展示されている。

 総ガラス張りだ。外も、中も。

 上の写真からもわかるように、写真右上、左下に、穴があいている。
 人の顔くらいの高さに空いている、向かって左の穴から、その中をのぞいてみる。

 それは、合わせ鏡がおりなす、曼荼羅の世界。
 こちら側からは自分の顔が、向こう側からは、反対側からのぞいている人の顔が写る。
 もっと覗き込むと、こんな感じに。

 鏡に映った自分、その自分が鏡に映り、さらに別の鏡に映り、さらに…さらに…。
 自分が、曼荼羅のなかに埋没していく。

さきほどの引用を、ふたたび。

草間彌生は、単一モチーフの強迫的な反復と増殖から生じる、自他の境目が消えていくような感覚を“自己消滅” と呼び、さまざまな制作手法で表現しています。

 曼荼羅は、生き物であるかのように色を変える。その明るい点滅のなかで、わたしたちはとてもインスタントに、自己消滅を追体験する。

 反対側に回ってみる。

 没入、という意味では、座り込んで覗き込むことになるこちらのほうが、より深く「自己消滅」できるかもしれない。

直島「赤かぼちゃ」の胎内

 そして、頭のどこかでモヤモヤしていたものの正体がわかる。
 特に、光が消えかけているこの感じ。

 それは、直島の宮浦港に屋外設置された「赤かぼちゃ」の内部の風景なのだった。

4階、インスタレーション

 館内は、行きは階段、帰りはエレベーターの一方通行となっている。
 メイン展示場の2階、3階は撮影不可。

 4階の、ブラックライトを使ったインスタレーションへ。

 この作品は、以前も鑑賞したことがある。
 30秒ほど、ニューヨークにある女性の部屋を模した部屋で独り佇むことができる。テレビ画面からは、《マンハッタン自殺未遂常習犯の歌》を草間自身が唄うビデオが繰り返し流される。

 ブラックライトで浮かび上がる、一面の水玉。これは、草間彌生自身の資格の再現だ。

 作家は幼少の頃から、この視界とともに在る。そして、水玉の中に消えてしまうという強迫観念をアートに昇華した。

 目をつぶると、ここでも、水玉の中に自己消滅していく感覚がある。

「真夜中に咲く花」

 ブラックライトのなかで内面世界に入り込んでいくような密閉空間から、白い階段を上がって屋上へ。

 射しこんでくる陽光が新鮮だ。この暗から明への転換はとてもうまいと感じると同時に、これで展示はおわりなのだということに気づく。

 屋上展示「真夜中に咲く花」。

 撮影不可の2階、3階は、今回の企画のメインである、ニューヨークに渡った若き草間のアーティスト活動の展示だ。
 ヒッピ―ムーブメントの時代、全裸の男女にボディペインティングを施して…、といった、あとになって好奇心と悪意を持って日本で報道されることになる、前衛的な活動を展示している。

(ちなみに、草間の自己消滅と、当時の、薬物などを用いて到達できるサイケデリックな世界は、表現の結果として重なるように見えても、そもそもその成り立ちそのもが異なることは、2階、3階の展示でも説明されている)

 そして、4階の、ブラックライトのインスタレーション。
 それらを鑑賞した今、この作品から感じる、ポップでちょっと毒気のあるような花のオブジェが放っている、カワイイ文化にはとどまらない「深く、どろりとした何か」が、ああ気のせいではなかったんだ、と気が付くだろう。

 ただ、それは屋上から空に放たれていくので、自分の中に重たく残るものではない。

 たとえ発端が恐怖や孤独であったとしても、それはそれはすぐれたアートとなり、鑑賞者をネガティブの中に閉じ込めはしない。

 草間の世界を追体験させたあと、その内面世界に、鑑賞者を置いてきぼりにはしない。

 直島の作品群についてもそれを感じる。

強迫観念、そして慈愛

 エレベーターの中も、もちろん水玉だ。

 草間彌生の作品をこうしてまとめて鑑賞すると、いつも、なにかの胎内巡りをして、明るい陽射しの下にふっと出てきたような感覚がある。
 自分の中の核まで行きつき、大切なものに触れ、それによって深く悲しんだり傷ついたりといった記憶を深く追体験し、しかしそれを残さずすべてそこに置いて、ふっと浮上する。

 それは、時空を超えてとても長い旅をしたような感覚を伴う。

 だからわたしは、こうして企画展を訪ねる。

 そして惹きつけられるように、わざわざ海路を使って「赤かぼちゃ」の迎える宮浦港に上陸するのだろう。


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