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『遠距離現在』。2024.3.6~6.3。国立新美術館------「自分では分からない視点」

 毎日、どこかで展覧会はやっている。

 時々、見たいと思って、自分の住んでいるところから遠いと、すぐにあきらめる。その理由の一つは経済的なことだ。などと書くと偉そうだけど、結局は貧乏で交通費などが出せないだけで、そういう時は、思いついたら気持ちの負担がなく、世界のどこにでも何かを見るためだけに行けるような金持ちになりたい、とふと思う。

 ただ、現在、東京の外れとはいえ、都内に住んでいるのは、以前ほどではなくなっているのかもしれないけれど、情報などに関しても、自分が思っている以上に有利なのだと思う。

 だから、距離として短くても、見に行きたいと思った場所に行けないのは、時間がなかったり、意欲が足りなかったり、結局は行く気力の不足なのだとは思う。


遠距離現在

 国立新美術館には、今でも基本的な疑問がある。

 収蔵品を持たない美術館としてスタートして、それもきちんと主張すれば、一つのあり方かと思っていたのだが、ある人の指摘で、日本語表記は「美術館」になっているが、英語表記は「museum」ではなく「art center」だと知って、それは微妙なごまかしでは、と思ってしまったからだ。

 国立新美術館に来るたびに、そうした気持ちがどうしても浮かんできてしまうものの、それでも企画展が魅力的だと、やはり行きたくなる。

 展覧会タイトル「遠距離現在 Universal / Remote」は、資本と情報が世界規模で移動する今世紀の状況を踏まえたものです。監視システムの過剰や精密なテクノロジーのもたらす滑稽さ、また人間の深い孤独を感じさせる作品群は、今の時代、あるいはポストコロナ時代の世界と真摯に向き合っているようにも見えます。本展は、「Pan- の規模で拡大し続ける社会」、「リモート化する個人」の2つを軸に、このような社会的条件が形成されてきた今世紀の社会の在り方に取り組んだ8名と1組の作品をご紹介します。

(「国立新美術館」サイトより)

 いつの頃からか、こうした現実の社会の状況を感じたり考えたりするときに、ジャーナリズムだけではなく、特に現代アートの作品を見る方が、より実感できるのではないか、と思うようになった。

 そして、こうしたテーマやステートメントに興味を持ってしまうことに、自分が現代美術的な視点に洗脳されているのではないか、といった微妙な怖さも感じたりもしながら、この展覧会は見たいと思い、妻はそれほどの興味を持てないということだったので、一人で行くことに決めていた。

 そして、普段ならば仕事のあとで、しかもやや睡眠不足で行くのをためらってしまうのだけど、この時は「見たい」気持ちが上回ったせいか、家に電話をして何か変わったことがないのを確認し、しかも夕食は自分は外食か弁当にするので、ということも伝えて、乃木坂へ向かった。

 普段は午後6時で閉館してしまうが、週末は午後8時まで開いている。

 夜に美術館に行くのも珍しいから、それだけでちょっと気持ちが浮かれていた。

展覧会

 駅から直結している美術館はそれほど多くはない。

 少し歩いたり、場合によってはバスなどに乗らないと現地に行けない時もあるから、こうして交通が便利なのはそれだけでありがたい。

 駅から、美術館へ向かうと都心のはずなのに、そしてまだ午後5時を過ぎたくらいなのに、人の流れは少ない。少し遠いところへ来たような気持ちにもなる。

 美術館に入るまでも、入り口をくぐったあとでも、スタッフの人が持っている小さい看板などには「マティス」と書かれていて、この美術館で開催されているマティス展のことを推しているのか、それともそれだけ多くの観客が来るのだろうか、と思った。マティスはすごいと思っているけれど、今日は別の展覧会を目指す。

 余計に人の流れが少なくなるような気がした。

 入り口で入場料を払う。

 大人1500円。美術家鑑賞は、これまで相対的に安く楽しめる娯楽だと思ってきたのだけど、最近になって2000円を超える価格も多くなってきて、それはやはり貧乏でも見たいと思っている人間にとっては、ちょっと手痛い値段になってきたので、今回の1500円はありがたく、その値段も見たいと思った理由の一つだったことを支払う時に思い出し、ちょっとだけ悲しくなる。

メタファー

 現代の美術では映像作品がとても多くなった。

 入り口にはオブジェのように、映像作品に使用されたボンベが置いてあり、それは確かに使ったことを示すように、ちょっと焦げ跡のようなものもあり、だけど、そうした変化のようなものが作品感を強くしている。

 井田大介の作品が最初の展示室に並んでいる。

 大きく映し出されている映像で、つい見てしまい、しばらく見入ってしまうのは、紙飛行機のようなものが円周を描くようにぐるぐると飛び続ける姿だった。広く他には何もない室内で、その運動がずっと続いている。なぜ飛んでいるのかといえば、その飛行機の下には、バーナーのようなものが丸く並んでいて、その炎の熱で上昇気流が起こり、それが円周運動につながるように様々な角度を調整されたものなのだろうと想像はできた。

 ただ、その「誰が為に鐘は鳴る」というタイトルがつけられた映像作品の中の紙飛行機は、ふわふわとどこか頼りなく飛んでいて、バランスが少しでも崩れたら落下し場合によっては燃えてしまうのではないか、という気持ちと、ずっと見ているとそんな瞬間が見られるのではないか、という黒い期待も自分にあることに気がつく。

井田は彫刻という表現形式を問いながら、目には見えない現代の社会の構造や、そこで生きる人々の意識や欲望を彫刻・映像・3DCGなど多様なメディアを用いて視覚化している。2021年に制作された3点の映像作品《誰が為に鐘は鳴る》、《イカロス》、《Fever》が、本展のための3部作として再構成される。いずれの作品でも「炎」が重要な要素となっており、熱がもたらす上昇気流やSNSの炎上などから「飛行」「上昇」「落下」のメタファーでコロナ禍社会を可視化する。

(「国立新美術館」サイトより)

 そこまでのメタファーを感じられなかったものの、確かに危うさのようなものは強く伝わってきたように思う。

監視カメラ

 映像作品が多いと、その上映時間によっては思った以上に鑑賞時間が必要だから、その作品の一部だけしか見られないことも少なくない。映像作品がある場合は、それぞれに必要な時間が前もってわかっていれば、と思うこともあるが、今日は午後8時までだから比較的余裕がある。

 だから、シェ・ビンの「とんぼの眼」という作品が1時間以上の映像だったのだけど、途中で、まだこれから多くの作品があるから、と思って、出ようかどうか迷いながら全部を鑑賞できた。

本展では徐の初の映像作品《とんぼの眼》(2017年)を上映する。チンティンという女性と、彼女に片思いする男性、クー・ファンの切ないラブストーリーが語られる。しかし、この映画に役者やカメラマンは存在しない。全ての場面が、ネット上に公開されている監視カメラの映像のつなぎ合わせである。徐と彼の制作チームは、20台のコンピューターを使って約11,000時間分の映像をダウンロードし、若い男女を主人公にした物語に合わせて編集した。

(「国立新美術館」サイトより)

 そのストーリーにはやや無理があると感じる瞬間もあったし、何しろ、こんな場面まで映されているのか、といったプライベートに近いように思える映像もあったけれど、こんなに見られていることは、やはりなんともいえない気持ちになった。

 日本でも防犯カメラという名前で監視カメラは増えていて、今は中国ほどの数ではないかもしれないけれど、人口あたりの個数で言えば、もしかしたら日本の方が多いかもしれないといったことも思った。

 何しろ、これだけの映像が、全部、監視カメラというのはやっぱりすごい。これだけ監視されているのも、その映像を集めて編集したことも尋常ではないと思う。

写真の見え方

 ここまでで2人のアーティストの作品しか見ていない。あと展示室は7つある。などと焦ってしまうけれど、時間はまだあるし、当然、作品によって印象の濃度が変わる。

 自分にとっては、シェ・ビンの映像作品を見たあとの、トレヴァー・パグレンの写真は、そのキャプションを読むと急にその意味合いが違ってきて、現代アートらしいと思ってしまった。

 典型的なリゾートのビーチの写真につけられたタイトルは「米国安全保障局(N S A)が盗聴している光ファイバーケーブルの上陸地点、米国カリフォルニア州ポイントアリーナ」とある。

 この米国安全保障局は、確か、全世界の盗聴をしているのではないか、と言われていたはずだ。

 だから、このトレヴァー・パグレンの写真は、ビーチだったり、海底だったりして、それは美しい写真でもあるのだろうけれど、それぞれにアメリカやイギリスなどの機関が盗聴している、というキャプションがつくだけで、その光景は違って見えてくる。

 ただ、この盗聴の事実が明らかになったのは、スノーデン氏の告発によってだから、まだ10年くらいしか経っていない。

 ということは、このトレヴァーの写真も、そうした告発の前であれば、情報を世界に伝えるケーブルがあるといった光景だったのが、社会の状況が変わっただけで、さらに意味が加わることになった。

 こうした複数の意味合いの重なりを考えさせてくれることも含めて、現代美術だと思った。

孤独死

 「心当たりあるご親族へ」というタイトルで、多くの室内写真が並ぶ。

 ティナ・エングホフの作品。

 これは、日本に住む人間から見たら、福祉が進んで個人の幸福度が高いと思えているデンマークでの出来事をテーマにしていると、説明の文章などを読むとわかる。

「過日、下記の人物がご逝去されました。故人に心当たりのあるご親戚の方々は、お早めにご連絡ください」。

 デンマークでは孤独死した人に身元引受人が現れない場合に、こうした小さい新聞記事が掲載されるらしい。そのことをテーマに、その亡くなった部屋などを、おそらくはなるべく残されたまま撮影されているようだ。

 画面のあちこちにさまざまな乱れや崩れがあって、一見明るい色合いで豊かにも見える部屋が多いのだけど、ここで亡くなった人がいて、身元引受人がいなかったのか、などと思うと、その事実を知らされただけでさまざまな感情が起こる。

 それは孤独死の部屋の遺品整理人をしながらその部屋のミニチュアを制作し続ける小島美羽のことも思い出させた。

絵画

 他にも映像作品も多くて興味深かったり、伝わり方がリアルだと考えたりもしたし、インターネット上の画像などを集めて部屋をいっぱいにしているエヴァン・ロスは、どうしても梅沢和木の作品とイメージの中で比べてしまっていた。

 最後の展示室で並ぶ作品は絵画だった。

 ずっと昔から絵画は描かれてきて、一時期、絵画は死んだ、などと言われ、そしてまた蘇ることも何度も繰り返してきたはずで、その上で、また描こうとするならば、すでに名作や傑作も数限りなくあるのに、さらにまた自分が新しさを加えようとすると、ちょっと絶望的にならないのだろうか。といったことを観客としては勝手に思ってしまうが、それでも、今回もまた新しい作品を見ることできた。

 木浦奈津子。

 見たことがあるようで、見たことがない風景。おそらく木浦の見て感じたものが、そのまま伝わるような絵画。どうして新しく感じるのかわからないのだけど、それは、木浦が見ている、大げさに言えば世界との距離感の独特さが表現されているせいではないか、などと思った。

 それでいて、好感度が高い絵だった。

 木浦は一貫して風景、特に日常の景色の油絵を描き続けている。カメラで捉えた近郊の風景をもとに描かれる彼女の作品は、単純で抽象的でありながらも、見たときの風景そのままを保存する不思議な魅力をもつ。《うみ》《こうえん》《やま》など身近な風景を通じて、私たちの生活の変わらない本質を捉える。会場では、新作を交えて大小さまざまな風景を、木浦自身がインスタレーションのように壁面いっぱいに展示する。

(「国立新美術館」サイトより)

 いつもと同じ。だけど違う。日常のありがたみ、みたいなものがあったように思った。


図録

 来てよかった。

 夜で、この現代アートっぽいテーマで、だけど、思った以上に観客も多く、いろいろな人と一緒に見られたので、余計に楽しかったし、印象に残りやすくなった。

 会場の中に図録があって、それを見たら、カッコよくてなんだか欲しくなって、出口を出る頃にはできたら欲しいと思っていた。

 福永信の小説まであって、なんだかお得感もあった上で、価格も1500円だった。

 売店で知人へのプレゼントもいいものがあったら買おうと思いながらも、自分一人では決められず、今度妻と一緒に来た時に、と逃げ腰になったものの、図録は購入した。

 ちょっとうれしい気持ちになった。

 夜8時の閉館が近づいてくる時間帯は、美術館の人は少なくなり、ロッカーに預けた荷物を出して、また乃木坂の駅に戻り、そこから副都心線の明治神宮駅まで近いことに気づき、そのルートで乗り換えて家に帰ってきた。

 途中で外食をする場所を発見し損なったので、自宅近くのスーパーでカレーを買って帰ってから、食事をした。

 行ってよかった。






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