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「キュレーションの力」-------「M O Tコレクション」。東京都現代美術館。

 美術館には収蔵品がある。
 それによって作品を保管し、作家が亡くなったとしても、その作品は残っていく。それは、歴史をつくっていく作業でもあって、どんな作品を選ぶかで、その国の美術史自体が変わっていく可能性がある。

 ただ、その収蔵されているところは、一般的には見ることができない。


常設展

 美術館に行くときは、どうしてもその時にしか見られない作品を集めてくれるような企画展を目当てにすることが多い。

 それは、東京都現代美術館でも同様で、しかも、企画展が2つもやっていたりすると、そのチケットを購入すると自動的に、「常設展も見られます」ということにもなるのだけど、企画展を見た上で、まだ体力が残っていて時間があったら、常設展も見る、というような感じになってしまう。

 1990年代の後半から東京都現代美術館に行くようになったのだけど、毎回、常設展は、企画展と比べると、サーっと時間をかけずに見るような方法になってしまっていた。そして、そんなふうな鑑賞法になるのは、いつまで、というはっきりとした記憶はないのだけど、現代美術館の「コレクション展」は1階と3階に展示されていて、特に1階は、「現代美術」の定義となる「戦後」からの作品が並んでいた。

 それは、1945年以降で、歴史的にも意味があって、そして、そこから50年以上の時間が経っているから、作品によっては、とても昔のもの、という印象になっていて、しかも、企画展が変わっても、特に1階の常設展示は、その戦後から年代を追って作品が展示されていた。

 だから、「常設展」は、おなじみな感じがしてしまって、それからは、3階の展示場まで、目新しい作品を探すように鑑賞することが多くなっていた。

 日本の現代美術の歴史が、ここに来ればわかる。

 そういう意味はあるとしても、何度か見ると、授業のようにも感じてしまい、ここにくる熱意みたいなものが減っていったのもわかった。

変化

 それが、いつの頃からか、「常設展」でありながら、テーマを決めて、それに沿った「コレクション展」になってきた。

 だから、極端に言えば、「常設」という単語がついているのだけど、企画展を見てから、という鑑賞の姿勢としては失礼なのだけど、「コレクション展」を見るたびに、違う作品が並んでいるようになった。

 ただ、最後、3階の展示室の出口付近にある宮島達男の作品は、おそらく重さもとてもありそうだから動かせないと思うのだけど、いつの間にか、無数に近く感じる赤い数字の点滅をしている作品を、暗い部屋でしばらくぼんやりと見てから、日常へ戻っていくような感じが心地良くなってきた。

 だから、以前よりも「コレクション展」は、楽しみになっていた。

MOTコレクション 皮膜虚実

 このときも、企画展を2つ見て、かなり体力を使ったのだけれど、アートをもう少し見たい気持ちもあって、「常設展」に向かった。

「皮膜虚実」。

 テーマに関しては、何か惹きつけられたり、興味を持てたり、といったことがなかったのは、おそらくは、どこかで聞いたような、見たようなテーマに感じてしまった。

 意志と勇気を持って焦点を絞った気配が少なく感じてしまったのだけど、でも、少し冷静に考えれば、「常設展」では、そこまで目立っていけないのではないか、といったことまで思えた。

 入り口を入って、大きいロビーのような広い部屋には、大きい立体がある。

 それだけで、ちょっと違う場所に来た気持ちになれる。

 そして、最初の展示室には「三上晴子」の作品が並んでいた。失礼だけど、知らない作家だった。そして、見たことがない作品だった。

 今回の作品は、壁にたくさんのシャワーヘッドが並んで、こちらを向いている。体重計もある。見慣れたようなものだけど、これだけの数があると、なんだか不思議な気持ちにもなる。さらに、ローラーコンベアーがあって、その上に中味が見えてしまうスーツケースが並んでいる。

 こうした光景を見ると、どうしても空港のような場所を思い出してしまうし、そのスーツケースの中には、放射性も含めて、さまざまな汚染物質だと分かるような表示がある。それは、これほど分かりやすくないけれど、もう少し、というよりも、もっと見えにくい形で、世界のあちこちにあるはずで、といったことを、それほど明確ではないけれど、なんとなくイメージしてしまって、それは、やっぱり微妙な怖さはある。

 この作家のことは、本当に知らなかった。そして、この作品が1993年に発表されたことを考えると、ここで提示されているいろいろなことが、今も課題としては「現役」なことに気づくし、同時に、作家が2015年に亡くなっていることも知る。

 ただ、とても遅いのだけど、知ることができて、よかったし、この時代に古くなっていないことも、なんだかすごいと思った。

なつかしい作品

 見たことがある作品が、急に目に入ってくるのは、なつかしいけれど、でも、変わらないことで、新鮮さもある。ただ、それは全ての作品に共通するわけではなく、久しぶりに見ると、古くなっていることもあるのだけど、今回は、そういうことはなかった。

 方力鈞。
 
泳いでいる男性というよりも、水に浮かんでいる男性を描いているだけ、の作品なのに、静かにも思えるのに、何か重い暗さもあって、最初に見たときに感じたことを、思い出す。

 平川典俊。
 
白黒の風景写真が何枚も並んでいる。なんの変哲もないような場所に思えるのだけど、何かある不穏さはあって、これが、実際に自殺の現場になった場所を撮影したことが、小さく説明されているのを知ると、同じ風景写真が違って見える。

 初めて見たときに、それはどこか傲慢な反応かもしれないけれど、勝手にゾッとしていた。

 そして、今回も「あの作品だ」とわかっていて、だけど、写真を見ると、その作品の背景も一緒に思い出して、やっぱり、感情が揺さぶられる。わかっているのに、こうした気持ちになるのは、ちょっと不思議だけど、それがアートなのだろうとも思う。

 小沢剛。
 個人的には、今回見た写真作品は、「ジゾーイング」として覚えている。作家がさまざまな場所に行き、自分が作成した地蔵像と一緒に風景を撮影する、ということから始まり、それが、いつの間にか小さな紙に「地蔵」を描いたものと写真に映り込むといった作品になっていって、それは「地蔵建立」と呼ばれる作品だった。

 そして、その写真のどこに「地蔵」があるのかを探すような、ちょっと浮き立つ気持ちにもなるのだけど、その一方で、今回もここに並んでいる作品の中には、武装した兵士と一緒に「地蔵」が映っている天安門で撮影されたものもある。

 なつかしいけれど、この作品を見たときに、あ、これは優れたアートだと思った気持ちを思い出し、今も、それほど古さは感じない上に、このシリーズは、今も作家に続けて欲しいくらいの気持ちになった。

20世紀

 日本の現代アートの歴史の中で重要という話は何度か聞いていて、書籍などだと、なんとなく納得するような気持ちにはなるのだけど、それは、自分の理解が届かないだけかもしれないが、いつも石原友明の作品を見ると、自分から遠い気がする。

 それでも、いつも見る。しばらく鑑賞する。気持ちが動きにくい。その理屈のようなものを考えても、頭も動かない。

 でも、どこでも見たことがないような作品であるのは、間違いないかもしれない。

 ホンマタカシの写真。郊外の景色。決して愛想笑いなどもしない子ども。ただ、そのとき、とても新しく感じたのだけど、30年ほどが経って、それはその撮影年代が明記されているせいなのか、やや古さを感じる。というよりも、ここで被写体になっている男の子も、もう大人になっているのだろうといった、ここには映っていないことを考えてしまうせいかもしれない。

 ここには20世紀があるように感じた。

絵画

 村瀬恭子の作品。

 人物を描いているのだけど、その周囲と溶け込んでいるような感じ。最初に見たとき、描いてから、それほど時間が経っていないような感覚になったのだけど、今見ても、同じような感じがする。そして、その色彩が鮮やかでもないのに、古くもない。

 加藤美佳。
 
写真のようにも見える少女の絵画。

 その緻密さに、もう見ているはずなのに、また驚いたのだけど、それだけではない何かを感じてしまうのは、その制作過程を知識として知っているからかもしれない。

 まず、雑誌などから多数のイメージを統合したようなイメージを元として少女の人形を作り、それを撮影し、その写真をもとに絵画にしていく。それは無駄というか、意味がないというか、だけど、その手順を踏んでいて、その方法が多いほど、そこにズレのようなものが生まれたりしているのではないか、と勝手にイメージして、それが、この作品をそれ以上に見せているのではないか、という疑いも込みで、今もその感じは変わらなかった。

 だけど、時間がたった分、その画面には落ち着きが定着しつつあるように見えた。それは、変な話だけど、この画面に描かれている少女が、変わるわけはないのに成長しているような感覚さえあったのかもしれない。それは、作者がかけている手間ひまが生んでいるのだろうか、といったことまで考えてしまった。

 伊庭靖子
 この作家も対象を写真に撮って、それをもとに絵画にしている。

 この手間が何かを生むのか、立体を二次元にしていく作業がそれは高い技術が必要なのは、ただの鑑賞者でも予想がつくのだけど、写真をもとにした絵画は、そうした技術がいらなくなる分だけ、他のことに集中力が使われ、それで、違う作品になっているのかもしれない。

 ここに並んでいた絵画は、ただきれいとか、うまいとか、そういうことだけが価値だった時代の後に描かれた絵画があり、さらに、そうした作品が美術史を変えた後に、絵画は終わったといったことがいわれ、さらに、そのあとに描かれた作品だから、そこに意味が塗り込まれているのだろうと思う。

王道

 トーマス・デマンド。

 ありそうだけど、ない。だけど、写真作品にすることで、実在するような感覚になる。

 フィクションも、画像として存在させれば、本当になる。

 そういう王道的な作品に見え、同様なことは、福田美蘭にも感じる。

 さらに、ずっと王道を歩いてきたような、危なげのなさを感じ続けてきた、名和晃平の立体作品もあった。すぐに「名和晃平だ」とわかる作品で、そして、まだ古くなっていない。

 王道は、最初から、新しさで勝負していないのかもしれない。

雑然

 千葉正也。 
 
目の前にあるものを描いている。それは、ごちゃごちゃした自分の部屋かもしれないけれど、あくまでも日常的な物質を使って、それでも、意図を持って配置しているらしいのだけど、どこまでの意図があるのかはわからない。

 だけど、その雑然とした印象は、自分たちの日常でもあって、どこかで見たような光景だけど、もしも、さらに100年が経ったら、その部屋の中にあるもののほとんどが、歴史的な遺物のようなものに見えるかもしれない、などと思うと、こうした作品を収蔵する意味が大きいのかもしれない。

 同様に、金氏徹平の作品も、今、あるものに白い石膏を流し、溶けたような一体化として立体にしているものの、それを構成しているもの自体が、年月が経つほど、なくなっていくものになり、もしかしたら、こうした作品の中にしか存在しなくなっていくのかもしれない、などと思う。

 雑然としたように見えるけれど、そこに意味がたくさんあるかもしれない、そんな作品だった。

映像作品

 パフォーマンスは、その場で行われて、何も記録しなければ、目撃者の記憶、もしくはパフォーマンスを行った本人の記憶の中だけに残る。

 それも意識すれば、確かに作品になるのだけど、今は、映像として記録するのが、昔と比べたら、かかる費用が圧倒的に少なくなったせいか、現代は、映像作品も多くなった。

 百瀬文も、潘逸舟も映像作品が展示されていた。

 それは、一見何をしているのだろう、と思えることだったり、ちょっとバカバカしいような行為にも思えるのだけど、その説明を読むと、さまざまな意味が重なっていて、だから、考えたりもするし、映像に記録されているということは、何しろ、その行為を、その場所で行なっている、ということが印象を厚くする。

 そして、この二人の作品は、2010年代以降のものだった。

 1階の最後は、梅沢和木の作品があった。

 壁一面の絵画。『とある現実の超風景』。

 インターネット空間という抽象的で具体的なものを、初めて目に見えるものとしてくれた気がしたのが、梅沢和木だった。そして、その虚構の空間と現実が共存するような作品がそこにあった。それは、東日本大震災の後、制作されたものだった。

 梅沢の作品は、基本的には、いつも美しさがあると思う。

サム・フランシス

 今回は、「生誕100年」というタイトルがついて、この美術館に寄託(このシステムはよくわからないけれど)されている作品が一堂に展示される、という。

 3階の展示室の壁の3面に広がるサム・フランシスの作品は、何かを考える前に、気持ちが良かった。抽象画として、明るすぎるというか、軽すぎるのではないか、と思っていたし、マーク・ロスコのような気持ちに降りてくるような感じもなかった。

 でも、今日は、そうした明るさや軽さも含めて、広さをより感じたし、そのために解放感があった。

 しばらく、その展示室にいて、あちこちを見渡しても、サム・フランシスが視界に広がって、もしかしたら、その魅力を初めて知ったのかもしれない。これまで、この展示室で何度も見たことがあったけれど、この展示室すべてにサム・フランシスが広がるのは初めてだった。

横尾忠則のゆかりの作家たち

 横尾忠則は、今も現役として作品を制作し続けているので、つい忘れてしまうこともあるけれど、50年以上前から、デザイナーとしても、その後アーティストとしても活動しているのだから、今から振り返れば、歴史上の人物と直接の交流もあって、当然だった。

 横尾忠則は、アンディー・ウォーホルのファクトリーも訪ねているし、ポップ・アートの他のアーティストたちとも会っている。

 トム・ウェッセルマン。ジャスパー・ジョーンズらには会ったことがあるというし、デイヴィッド・ホックニーは、この時に行われていた企画展に出展した方がいいのでは、と思えるような作品も並んでいた。

 ポップ・アートの作家は、おなじみな感じになってはいるけれど、そして、少し歴史的な存在になったことで新しさは減っているものの、価値が古びているわけではないことを、こうして一堂に見ると、確認できた気がした。

横尾忠則

 今回の特集展示「横尾忠則」。

 1960年代にグラフィックデザイナーやイラストレーターとして、当時の若者のあこがれのように見られるような存在だったらしい。その後、1980年代になってからアーティストとになり、その後、「過去の人」にならずに、ずっと新作を発表し続け、それがいつの時代でも、横尾忠則の作品にしか見えずに、でも新しさがある。

 そう考えると、これほど長く作品を作り続け、ずっと必要とされているのは、すごく稀なことだと思う。

 そして、今回も過去の作品だけでも広い展示室でもいっぱいにできるのに、新作もいつもあるというのは、当たり前のように感じるけれど、すごいことだと改めて思う。


 そして、最後の展示室には、宮島達男の大量の数字がカウントダウンしている赤い光の点滅があって、そのいつもの配置は、ちょっと安心もする。


 「コレクション展」という名前の常設展で、こんなに考えたり、楽しめるとは思わなかった。

 これは、キュレーションの力だと思う。

 無料で配られるパンフレットも充実していて、それによると、今回は1980年代以降の作品が展示されていて、この美術館が出来てからでも、30年近くが経っていて、収蔵品の充実のようなものが、今回、形になったのだと思った。

 見て、よかった。




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