#エッセイ
顔のあざと共に過ごすこと
少し前、書店に行った時こんな本を見つけた。
『ふたり、この夜と息をして』
よくある少年少女のジュブナイル、高校生の青春恋愛物語のようなお話だ。学生特有の気恥ずかしさや傷心の成長ものはもうあまり読まなくなったのでそういったコーナーを見ることもなくなっていたのだが。
その時はいろいろな感情がごった煮に混在していて、その時ちょうど手元にあった自分の小説を近くにいた小説をいろいろ物色する男子高校生に渡
21’0913ずっと好きだった
自分にはちょっとした変わったものがある。
好きなものを追い求めない性格だ。
私の’好き’は誰かのために注ぎ続けてきた。
初めは「BUMP」
友だちが好きだというから聞き始めた
次に「アニメ」
DVDとCDを愛情込めた手紙と渡されたから見始めた
「嵐」
友だちが好きでコンサートグッズをもらったから音楽も名前も覚えた
「漫画」
遊びに行った時に「誰か好きなの選んで、プレゼントするから」と言われて
21’0831なつのおわりhaこころがしかばね
夏の終わりは心が屍だ。
6月-8月、どうしても完成させたい長編の小説があって集中したくて、分散された微かな文字に自分の頭を渡したくなくてネットにつながることを控えていた。それは今も少しある。何かつぶやくことで本当に書きたいものへの道を遠ざけてしまっているんじゃないかって。小さな言葉にすることで失うような何かを感じて短文を書くことをためらってしまう。
どれだけ電子で人とつながろうとも虚しさが増すだ
21’0514そうして、またひとつ。
人は、哀しい記憶と、楽しい記憶
どちらを深く覚えているのだろう。
楽しい記憶と、哀しい記憶、どちらを長く覚えているだろう。
どちらを、忘れることができないのだろう。
つよく、つよく、悩む。
楽しいことがあった時、
「こんな日々が続けばいいのに!」と思って
哀しいことがあった時、
「どうしてこんなことが起きるのだろう。」と、もう出会いたくないと足を踏むことをいつにも増して止めたくなる。
4月はよ
時間を捧げたいのは愛の証
ある人に影響されて1年半ほど月200件の相談を受けもっていた。精神病にかかってからは月100件に減らしていたが、それでもエネルギーが減ってしまうことに気づき月50件に。友人が死んでからはそういったことしてないことに気づいた。「俺の嫁枠余ってるよ」とか「ブルーベリー育てて」とか「この不審者の顔見て」とか他愛もないやりとり
連日イギリスの友人がテレビ電話をかけてくれるようになった。ボッサボサでボッロボ
0907特別がない弊害
私は人が好きだ。いろんな人と会って話すのが好きな方だと思う。
できればいろんな人と会いたい。その人にしかないエピソードを聞きたい。
インタビュアーとかなりたいなぁ、と思ったことがあるほど、とにかくいろんな人の話を聞くのが好きである。
0827「耳で感じない音」
最近はなんだか慢性的に疲労がつもっていて、切り替えのためいつもなら回復するようなことを行ってもなかなか効果がでないことばかりだ。加えて、真昼間にバタッと倒れてしまう。身体が休むことをとんでもなく求めているような気がしてならない。
もっとみる0824なんだか大事そうなこと
普段自分が気を付けていることって、何だろうと思って、大事だなぁと思うことを思いつく限りに箇条書きしてみた。思いのほか大量のものがでてきたので、案外1と思っている手順が何順にもなっているものなんだな、シングルタスクと思いきやマルチタスクをしてしまっているんだなぁ、なんてことを思い浮かべた。
もっとみる0822「つくるって楽しい」
今日は24時間テレビにて志村けんさんのドキュメンタリードラマがあった。
「画面を通して素を見せることない」
「番組が家族みたい」
「つづけていこうね。必ずいいことがあるから」
「焦るんじゃないよ」
「出会う人に居場所を作ってあげるんだよ」
「自分自身に飽きちゃダメ」
「まずは自分が楽しもう」
「緊張することは悪い事じゃない。それは真面目に取り組んでいるから」
人生で知ったこと学んだことを誰かにつ