21’0913ずっと好きだった

自分にはちょっとした変わったものがある。

好きなものを追い求めない性格だ。

私の’好き’は誰かのために注ぎ続けてきた。

初めは「BUMP」
友だちが好きだというから聞き始めた
次に「アニメ」
DVDとCDを愛情込めた手紙と渡されたから見始めた
「嵐」
友だちが好きでコンサートグッズをもらったから音楽も名前も覚えた
「漫画」
遊びに行った時に「誰か好きなの選んで、プレゼントするから」と言われて何も分からぬままエイッと選びよみはじめた。
初めて自分で買った漫画は「兄がおもしろそうと言ってたから」が理由だった。

「楽しんでもらえたらいいな」そんな気持ちにばかり時間を注ぐ。その方がいいと思ってたから。

でもそうすると「自分の本当に好きなものってなんだろう?」とわからなくなった。
でもほんわりと自分が好きだと思えるものはあって、であっても人の好きなものを知ることに熱心になってきたゆえに自分の好きなものを知るということに熱心になることがないという事態が起きている。
だから嫌だ、というわけでもない上に人の好きなものを知るのは楽しい、と思っている。でもこの気持ちが本当は環境が生み出した悪腫瘍であったとしたら?と考えるとたまに恐怖に落ちる。

最近自分がやんわりとフランスとイギリスという国名になぜときめきを感じるのかという要因が分かった気がする。自分には幼少期からいた家に飾ってあった大きな絵画を見ることがよくあった。そこに飾られている絵はフランスやイギリスの画家が描いた作品で埋め尽くされていたのだ。



気づきもしなかった。
家にルノワールの絵が飾ってあったなんて。
音楽にも文学にも一つも触れないような家庭だっけど、付き添いで連れて行ってもらったクラシックやオペラのコンサートやフランス料理店。あまりにも衝撃的な感動にキラキラと心がなっていたことを思い出す。
家に置いてあった一冊の洋書、会計の本、母の友人たちのプロフィール帳。数少ないこれらに没頭して眺める自分がいたことを思い出す。
本といえる本は小さな子用の折り紙サイズの『白雪姫』と『くまのプーさん』くらいだ。
大きな文字はすぐ飽きてしまう。きっと冒険が描かれているような英語の本と、数字が沢山並んだ専門用語ばかりの本、難しさと優しさの程よい中間地点がなかった。だからか、母のプロフ帳をみるのはとても好きだった。私的なものだから押し入れの奥底からこっそり出しては隠れて読もうとすることを怒られたが。何十回、あの2冊のいろんな人の文字やイラストや言葉が溢れているものを読んだだろうか。私が人が使う言葉をなによりもの娯楽だと思うのはこんな体験からだろうか。この人はこの人のことをこんな人だと思っている、この人は母のことをこんな人だと思っている、こんな人だと思っていたがこんな人だったと綴っている。そんな人それぞれの表現がおもしろかった。
音楽も聞かない本も読まない家庭だった。
唯一あった私とエクリチュールとのつながりは洋書と会計書とプロフ帳。他に家で本の形式で眺めていたのはたくさんのファブリックが並んだ色見帳くらいだろうか。
ガジェットが好きでジェットダイスケさんの動画や家電製品の新商品情報を貪るように見ていた。家電情報のパンフレットや主婦向け雑誌が好きだった。家電の型番も性能もパソコンの知識も明らかに昔の方があった。新しいことを知っては情報を線路のように繋げる脳内の回路づくりが楽しかった。

だけど今はちょっぴり好きなものに向き合うのが怖い。怖いというよりのめり込んでしまうとどうなるのか分からなくて、いつも誰かの好きなものに全力投球してきたから、自分の好きに全力投球したらどうなってしまうのか。誰かの好きを楽しめなくなるのではないか、そんな億劫さが出てしまう懸念があることでずっと立ち止まってしまう。

私は日本が好きだし
日本語が好きだし
イギリスやフランスの芸術が好きで
特殊メイクを見るのが好きだ。
インストゥルメンタルが好きだし
ラップが好きだし、何よりも言葉が好き。
言葉で誰かを癒せたらそれは幸せで、言葉で自分の物語を創れたらそれは幸せで、誰かに何かを教えることができたら心の何かが満たされる。

この前幻想用語辞典なるものを見て、あまりにも自分の知らない用語がたくさん載っていた時のときめきはわたしがどれだけ言葉の虜なのかを実感させられた。

言葉のオタクだからなのか、やっぱり自分は誰かの好きを知ることが何よりも楽しいのだと思ってしまった。好きだと分かっているものには詮索せず、誰かが好きというものばかり調べ上げてしまう。記しながら見ていても「もっと詳しくなろう」と思うのは誰かの好きな方だった。

自分の好きなものは詳しく知らなくても好きだと思ってしまった。好きだと分かっているからそのままで満足する自分がいた。でも多くの人は好きだから知りたくなるらしい。自分は好きな人のことを深く追求したりしない人間だった。好きだと分かっているからそのままで満足。世間と私のズレが大きく誤解をよぶ。私の好きは好きではないようだ。

やっぱり私は自分の好きなものをもっと詮索せねばならない。深く追い求めねば、いつまでも、逃してしまう気がした。

好きであるほど、伝わらない好きが、もどかしく見上げた天井を悲しく包んだ。ずっと好きだった。なのに真っ直ぐ向き合えなかった。大好きだった。戻れない青春

過去にするのも記憶を捨てるのも自分の意思で
大好きだったも大好きだに変えられる




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