21’0514そうして、またひとつ。

人は、哀しい記憶と、楽しい記憶
どちらを深く覚えているのだろう。
楽しい記憶と、哀しい記憶、どちらを長く覚えているだろう。
どちらを、忘れることができないのだろう。
つよく、つよく、悩む。

楽しいことがあった時、
「こんな日々が続けばいいのに!」と思って
哀しいことがあった時、
「どうしてこんなことが起きるのだろう。」と、もう出会いたくないと足を踏むことをいつにも増して止めたくなる。

4月はよく「出会いと別れの季節」なんて言われる。「出会いもあれば、別れもあるんだよ。そういうものなんだ。」と、世界の条理のように「そういうもの」(だから諦めなさい、深く考えるのはよしなさい。)と教わってきた。別れの失った恐怖を埋めるように出会いがやってくる。

それでも、
「もう二度と失いたくない」
そう願った夜は今日で何回目だろうか。

そういうもの。だと分かっていても
別れの夜は眠れない哀しさにおわれる。
そういうもの。だと分かっていても心の痛みが隠せない。

別れの日は特別だ。
別れの日はめいいっぱいオシャレをする。
どれだけ別れることが哀しくたって、出会えたことによって生まれた感謝たちは忘れられないのだから。
「こんな日が続けばいいのにな。」という嬉しい気持ちをくれたことは変わらない。
だから、めいいっぱい、めいいっぱい、オシャレをして、ちょっぴり後悔させるくらいの感謝を焼き付けさせる。
いつ来るか分からない「また」を唱えては「そういうもの」だと頷いていく。

「また、変わらぬ日々を。」

出会いも、別れも、胸の奥に大事に大事に仕舞われている。思い出の記憶は、宝箱のようで、本当にたまにしか開けない。

もうこれ以上ない素敵な出会いだった。
私の人生を変えてくれた人だった。
私を行動的にさせてくれたのは、いつだって彼女だった。これ以上ない”ありがとう”を伝えたいのに、”別れ”という点のマイナスが、線のプラスに勝ろうとしてくる。でもこの哀しさも、いつか、ありがとうの線に交わってくる。
哀しさの点が大きく見えすぎてしまうだけ。

‘’ありがとう‘’と全てがプラスの線に変わった時、
私は新しい点へと飛び出している。そうやって、新しいドアを開く。

考えすぎる私のせいで生まれる寂しさはあるけれど、考えすぎる私だから生まれた嬉しさもたくさんあって。
寂しさばかりが、黒い沼のようにどんどん沈んでいくから、
ついつい大きく見えてしまうけれど、そうやって
’私である’ことを嫌いになりそうになるけれど、
’私である’からこそ好きな部分もあるんだ、と思える。
黒い沼は光がなくては黒いことは見えない。だから、黒い沼は光があってこその黒い沼なのだと。そうやって、嫌いな自分が生まれても、好きな自分もいるのだと同時に再認識するのである。

自分に嘘をついてはいけない。
たとえ他人に嘘をつくことはあったとしても、自分の気持ちに嘘を貼り付けないよう、好きな自分を探し続けていこう。

哀しい記憶は、哀しい記憶。
楽しい記憶は、楽しい記憶。

それでいい。無理をしなくていい。

たとえ、他の人には嘘をつくことがあっても、
「自分の気持ちはこうだった」と、自分へ素直になれたら大丈夫なのだと思う。

自分に嘘をつき続けると、取り返しがつかないほどに青春が取り戻せなくなる。他人に何を言われようと、結局、選ぶのも動くのも自分。
選んだのも動いたのも自分。助けを求めるために動いたのも自分だよ。
何を言われようと、動いたのは自分なんだ。
そうやって動けたことがすごいんだ。
自分に厳しくするのはいいけど、自分を厳しく責めるのはよそう。

動いた自分は、素直に素晴らしい。

計画を立てて、実行して頑張るのは構わない。
そうやって厳しく生きるのは構わない。
でも、上手くいかなくても、動いたことには、選んだことには、変わりない。
自分が選んだ選択肢を、動きを、責めないことが大事だ。反省して次に活かせれば、万々歳。必要以上に自分を責めることは、足を止める。

厳しさを履き違えないように。歩く。
哀しいことも、楽しいことも、そうして、またひとつ、歩いていく。


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