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21’0831なつのおわりhaこころがしかばね

夏の終わりは心が屍だ。

6月-8月、どうしても完成させたい長編の小説があって集中したくて、分散された微かな文字に自分の頭を渡したくなくてネットにつながることを控えていた。それは今も少しある。何かつぶやくことで本当に書きたいものへの道を遠ざけてしまっているんじゃないかって。小さな言葉にすることで失うような何かを感じて短文を書くことをためらってしまう。
どれだけ電子で人とつながろうとも虚しさが増すだけで、アナログな世界で一言交わした言葉のほうが満たされる実感があった。だから私はネットから離れたくなる。今はよほど人と会いたいのかもしれない。アナログ的な社会とのつながりの希薄さを感じていた。

でも、なつのおわりを迎えた今、どうしても小説が全然進まなくて
この自分と向き合い続けるような行為はなんだかだんだんつらくなってきて、でも何も文は進んでいなくて。もういっそ心にたまり続けている日常をつづろうと思ってしまった。

夏の終わりになるとどうしても暗くなってしまう自分がいる。
意識なんてしてなかったのに急にやってきた。夏の空気が私の心を屍にしていく。
人生で二回目のカップ焼きそばを食べようと試みたのに、半分も食べれなかった。初めて食べたときにおいしくてうれしくてもう一度食べてみたいなとワクワクしながら準備したのに、半分も食べれずに胃に食物がたまり破裂しそうな感覚が到来してしまった。ここからはもう最悪で、
ラップを探そうにもラップも見つからない。日差しを避けるためカーテンを閉めようにしてもゴギゴギといって全くカーテンがしまってくれない。おかげに、小説はまったくもって書き進まないといったもんだ。

8月31日は「なつのおわり」を想起させる。どうしても「なつのおわりだ」と思ってしまう。8月31日は特別な日なのだ。8月31日は何もなくても特別な日。それは「なつのおわり」を思ってしまうから。「なつがおわりだ」と思ってしまうから。

このじりじりとした暑さ、へばりつくような布のあの感触はいつもあの時の状況にタイムスリップしそうになる。自らは触れてこなかったメンタリストさんの話題に触れてしまったからだろうか。昨年はまだまだ苦手で書店に並ぶ帯の彼の写真が目に入ることさえも不安を強めた。大好きな書店に入ることに躊躇いをみせ、入り口付近に並べられているその方の書籍がまるでバリアをつくっているかのようで、私を大好きな本から遠ざけた。
嫌な記憶というのはそのひとつ前の年。衰弱しきっている学校の帰り道に断る言葉もおぼろげな私は無理やり車に乗せられた。あの時のその人の声とバックミラーに移るその人の表情はきっとまだ何年もこの「なつのおわり」にやってくる。そういう嫌な記憶が混じった人にメンタリストさんは見た目が似ているのだ。ただ、見た目が似ているだけ。だけど想起させてしまうから触れることはタブーとしていた。

私はこの問題に整理がまだつけられていない。
「●●がAの半分になる」のような言葉を聞いたとき吐き気と嫌悪が全身にわたった。途端にその人のことが嫌いになった。嫌悪の山になりその人とかかわることを一切したくなくなった。
誰かが誰かの一部になってしまう。そういう常軌を逸した言葉はユーモアとして冗談として楽しめるもの。それはわかっていても、実際にそれを現実として、その凶器をリアルのものとして味わってしまった私にとって、冗談だなんてわかっていても滝のように嫌悪が膨大に流れ続けた。
自分の毛を食べてほしいだとか血液を飲んでほしいだとか汗を味わってほしいとか、自分の体の構成要素を「愛」だとかいう理由で相手の体内に入れようとしてくるものがいるんだ。きみは経血入りのクッキーを食べたことがあんのか。そんな狂気的な愛を受け入れられるわけがない。
衰弱しきっていた私はあれほどまでに体も頭も空っぽに冷めたような感覚を味わったことも、「もう何されてもいいや。」と抵抗する気力も持てず高速道路を渡る車に身を投じたこともない。心の死の淵を思わせる経験は2年前のあの「なつのおわり」。

「なつのおわり」はそんなことを思い出させる。

「なつのおわり」ということを意識してしまったからか、いろんな音に不安を抱き始めた。声が震える、体が震える。私の心が、屍になる。

呼び起こしたくない記憶を殺したいのがなつのおわり。

夏の終わりは、私の心を屍にする。

私は彼の愛をこのままずっと許せないだろう。「愛」と形容したことで私の「愛」という語の心の辞書を汚したことを。
私の心の辞書は汚されたままだ。心の芽が土壌に埋もれ芽を出せないままである。屍の心に潤いがうまれるまで。

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