記事一覧
三島由紀夫のお墓参り
武蔵境から西武多摩川線に乗り、多摩駅で下車。
駅員さんに『多磨霊園まで歩いて行けますか』とたずねると、その人は『あっちの方向に
歩いて下さい』と無愛想に指をさした。
エスカレーターを下り少し歩くと八百屋さんがあったので、優しそうなおばちゃんにまたたずねた『多磨霊園にはどうやって行けばいいですか』
今度の人はものすごく丁寧に行き方を教えてくれた。
『三島由紀夫のお墓参りに行くんです』と言うと
1ヶ月ぶりのnote更新
久しぶりにnoteを書きます。
前回の投稿が5月17日だったので約1ヶ月ぶり。
書くのを怠けていたというよりは、ツイッター上で詩を載せていたのでそっちに忙しくて。
80個ほどの詩を怒涛の勢いで作っていました。でもどれもゼロから作ったわけではなくて、前々から書き留めていたものにちょっと手直しを加えて、という感じです。
作品の良し悪しはどうであれ量産でき、その達成感からか詩に対する熱は徐々に薄
ほめられない私はダメですか?
他人が褒められていると、自分が否定されているように感じるのはなぜだろうか。
子供の頃、顔の良い子は『可愛い可愛い』と溺愛され、足の速い子は『すごい!カッコいい』ともてはやされていた。
それを見て、『褒められるような突出した部分がない私はダメなのね』と、ふてくされていた。
誰かが褒められる度に、ちょっとした劣等感が蓄積されていった。
しかも問題なのは、なんでも突出していればいいというわけでは
自分が何者か分からない
『自分が何者か分からない』
『やりたいことが見つからない』
そう思っている人は多い。それは当然な気がする。
教育とは国にとって都合のいいシステム。
授業も宿題も、『これをやったらこれぐらいの学力がつく』ってだけのこと。
別に『私たちに幸せになってほしい』と思って作られたわけじゃない。
誰かがつくった正しさの中で私たちは飼い慣らされ、
言うことを聞けば○を、抵抗すれば×を与えられた。
洗脳
めんどくささより気持ち良さ
めんどくさい。そういうことはいくらでもある。洗い物だったり、洗濯だったり、ゴミ出し、風呂掃除。
これ嫌だなぁと思った瞬間、脳がそれを『めんどくさい』と認知してしまう。めんどくさいは苦痛だから、苦痛を回避しようとどんどん後回しに。
『やらなきゃ』がずっと頭の中にあると、余計億劫になるという悪循環。
なので最近はめんどくさいと思った瞬間に、体が重かろうが落ち込んでいようが、行動することにしている
久しぶりに心がざわついた
今日はなんだか心がざわつく日だ。
昨日SNSを見すぎた。それがいけなかった。
ひがみでゆがみが生じる他人の充実した生活を見る行為は、繊細すぎる自分にとっては、ガードレールに突進してこっぱみじんに砕けるようなものだ。
そして無惨に散った自分の欠片を拾い集めるのに、時間も体力も要する。
見なきゃいいのに、他人が気になって見てしまう。
一種の依存症。辞めなきゃなぁ。
けれど気づいたこともある。