見出し画像

堕 ち る ❲短編小説❳

「この講座を受講した、きっかけは何ですか?」

彼の声は、彼にそっくりだった。
想像していた通りの声だ。
これほど、顔と声が一致した人物は初めてだ。

「小説を読んだり書いたりするのが好きで、
いろいろ参考になれば、と思ったので受講しました」
「そうなんですか。創作もしてるんですね。
今も、何か書いてるの?」
重ねて聞いてきた彼の声に、鼓動が高鳴る。
声の質が、あまりにも心地良いのだ。
真希は、どぎまぎし、
「えっ、今は、特に何も……」
緊張して、言葉が続かない。
鼓動が、ますます激しくなる。
初めて会った人に、これほどまで胸が高なったのは今まで皆無だった。

先日、カルチャースクールのサイトを見ていると、文学講座のところで目が止まった。
普段は教養のコーナーは、主に俳句、短歌、古典だったから、新しくできた講座に興味を持った。
特に、興味を引かれたのは講師の男性の写真だ。
一見、知的に見える表情。
銀の細いフレームの眼鏡が知的な雰囲気を、より際立たせている。眼鏡が似合いすぎる。
穏やかな笑顔が、包み込むような優しさに溢れ
そして情熱と意志の強さのようなものも、兼ね備えて見えた。

(なんて、素敵な笑顔なんだろう)
男性は、ある大学の文学部の教授だった。
名前は、織田 誠。
写真の男性に会ってみたい。
既に、真希は彼、織田を求めていた。
文学の講座、だからではなく、彼に興味を引かれて
受講することに決めた。

講座の初日、朝起きて出勤し、仕事を終え、
カルチャースクールに到着するまで、ずっと緊張していた。
教室のドアを開け、講師の織田の姿が目に飛び込んでくるや否や、緊張はクライマックスに達した。
写真の彼より、本物の彼のほうが比べようもないくらい素敵だった。


彼は真希への質問を終えると、隣の受講生にも声をかけた。順番に質問をしている間、何とか興奮をなだめようとした。
顔が火照ってしまい、ずっと下を向いていた。

受講生達への質問を終えると、彼は太宰治の小説、ビィヨンの妻の一部分をプリントした紙を、皆に配った。

受講生は、真希を入れて女性が6人。男性は1人。
皆、真希より年配だ。

彼は、ビィヨンの妻を朗読し始めた。

(ああ、なんて深みのある素敵な声。ずっと
ずっと聴いていたい)
既に、彼、織田に恋をしていた。

自分より、10歳以上年上に見える彼は、恐らく既婚者だろう。
イヤ、最早、既婚だろうが独身だろうが関係なかった。
(彼が、彼が欲しい)
初対面なのに、心が激しく揺さぶられた。

織田は小説について、何やら説明を始めたが
内容など、頭には入ってこなかった。
ただ、心地良い彼の声に酔っていた。



講座は週に1回で、1ヶ月だけの短期間だ。
毎回、講座の前日の夜は、織田のことを考えて興奮して眠れず、当日の夜は心臓がひっくり返るのではないかと思うくらい、ドキドキしながら受講した。
緊張して、彼を直視できなかったため、窓ガラスに映る彼の横顔を、盗み見るように見つめていた。
そして、受講する度に、彼にどんどん惹かれていった。

講座の最終日が近づくにつれ、真希は焦りを感じ始めた。
講座が終了すると、もう彼に会えない。

(それは嫌だ、もっともっと、彼を識りたい。
独り占めにしたい)

頭の中は、そんな願望で埋め尽くされていった。
何か、自分からアクションを起こさないと
一生、後悔する。
考えた末、過去に公募に送って落選した小説の原稿を彼に見てもらい、至らない箇所や改善の余地があるかどうか聞いてみることにした。
それをきっかけに、自分をアピールすることに決めた。

講座の最終日、今まで以上に緊張しながら教室のドアを開けた。
講座が終了し、受講生達が教室から出ていくと
織田の元へ近寄っていった。
ドキドキが、頂点に達した。

「お疲れ様でした。先生、実はお願いがあるんですが」
「えっ、何かな?」
掬い上げるような眼差しを向けられ、嬉しいやら
恥ずかしいやら、でどうにかなりそうだった。
真希はバックから小説の原稿を取り出し、
「これは、過去に公募に送って落選した小説なんですが、先生に見てほしいんです。どういうところが
ダメなのか、教えてほしいと思って」
織田は原稿を受け取ると、興味深そうに目を通した。
「すごいね、本格的に書いてたんだね。
私は作家じゃないから、的確なアドバイスができるかどうか分からないけど、帰宅したら読んでみるよ」
「ありがとうございます。忙しいところ、すみません」
心よく引き受けてくれて、真希はホッとした。
そして、あらかじめ用意していた、自分のアドレスと電話番号を記した紙を彼に渡した。
「読み終わったら、連絡してもらえると嬉しいです」

真希は興奮状態で帰路に着いた。
第一段階は、上手くいった。問題は、これからだ。
いつ、織田から連絡がくるのか、暇さえあればスマホをチェックしていた。

1週間後、やっと彼からメールが届いた。

起承転結は、ちゃんとできているが、少し難しい漢字を使いすぎている。もっと平易な言葉に変えたほうがいい。恋愛小説を書くなら、もっともっと
切なく激しく書いたほうが良い。

という、内容だった。
確かにストーリーより、少しでも文学的に見えるようにと、格好をつけすぎたかもしれない。

真希はお礼のメールを返信した。
また、先生にお会いできる機会があることを望んでいます、とも付け加えた。
でも、また返信がくるのか、自信がなかった。
祈るような気持ちで待ち続けた。

数日後、やっと織田からメールが届いた。
自宅以外に仕事部屋を借りていて、そこに小説や詩集がたくさん置いてあるから、好きなものをプレゼントする、と書かれていた。

(じゃあ、私、彼の仕事用の部屋に入ってもいい
ということかしら?)

感情が、異様に高ぶってきた。
事態は、自分の望む方向に向かっている。
彼は、どういうつもりで私に接しようとしているのか。少なくとも、好意に近いものを抱いているにちがない。そう、信じることにした。

メールのやり取りで、今度の日曜日に織田の仕事部屋の近くの公園で、待ち合わせをする段取りをつけた。
有頂天になっていた真希は今後、恋の激流の渦に飲み込まれ、這い上がれなくなることに気づくはずもなかった。

「どうぞ」
通された部屋は、こじんまりとしたマンションの1室で、10畳ほどの広さだ。
机、椅子、ソファー、本棚が配置してある。
本棚には様々な背表紙の本が、ぎっしり詰め込まれている。

今日の織田は、ダンガリーのシャツと、黑のジーンズという出で立ちだ。
若々しい清涼感のある雰囲気が、ますます彼の魅力を際立たせている。
講座の時は、上下スーツだったため、とても新鮮に見える。
「立ってないで、座っていいよ」
彼はソファーを指差しながら言った。
真希がソファーに座ると、彼も隣に座り、私のほうに体を向けた。
「あの小説は、自分の経験も混じえてるの?」
織田の視線が、まともに真希に向けられ、ドキリとした。
「えっ、と。はい、多少経験も混じえて、あとは
こうなったらいいな、と想像して書きました。私の小説、ちゃんと読んでもらえて嬉しいです」
織田と2人きりという状況に緊張しすぎて、言葉のイントネーションが変になってしまった。
真希は本棚に視線を向け、
「あの、本、見ていいですか?」
「どうぞ、好きなのをプレゼントするよ」
織田の視線を感じながら、本棚へと移動する。
シェイクスピアの戯曲が目に止まり、手に取って
ページを開く。
彼が背後に近づくのを気配で感じた。
「キミは、今日どんなつもりで、ここに来たの?」
「えっ?」
振り返ると、彼の顔が間近にあった。
ドキっ、とした。
ここに来た目的は、1つしかない。
織田と、もっと親しくなりたい。ただ、それだけだ。
でも、はっきり言うのは、はばかられた。
「先生のような、文学に詳しい人と親しくなれば
いろいろ吸収できて、創作の幅が広がると思って」
「それが、本当の理由?」
織田は、真希の顔を覗き込む。
既に、見透かされているのだろうか?
「なぜ、もっと早くアプローチしてくれなかったの?」
「えっ?」
真希は後ずさる。
心臓は、もう、ひっくり返る寸前だ。
これ以上、彼に近寄ってこられると、かろうじて
残っていた冷静さを、全て失ってしまいそうだった。
「キミが、私を見る目の色で、察しがついたよ」

あからさまに、彼を見つめていたわけではない。
(観察力が鋭いわ)
真希は言葉を失い、どうしたものかと立ち尽くしていた。
こうなったら、もう白状するしかない。
手に持っていた戯曲を本棚に戻す。
「先生のこと、初めて会った時から、とても気になってました。親しくなれたらいいなって、思ってました」
織田は、真希の言葉に満足したように微笑む。

自分の告白を受け止めてくれたことに、ホッとした次の瞬間、真希はグィっと引き寄せられた。
思考が停止し、状況を理解するまで一時、時間を要した。
気づくと、真希は織田の両腕の中にいた。
(苦しい、なんて強い力なんだろう)
彼は、さらに両腕に力を込め、真希をきつく抱き締めた。肋骨が折れてしまうのではないかと思うほど
の力だった。
真希の胸に甘美なものが溢れた。
自分の気持ちを、彼が受け止めてくれたことが
まるで奇跡のようだった。
彼への想いが、一気に加速した。
既に恋に全身が、どっぷりと浸かっていた。 

真希は怖くなった。恋の地獄の始まりだった。
ズドン、と堕ちて行く感覚が全身に広がった。
どこまでも、どこまでも、恋の地獄に堕ちて行く。
もう、止まらない。
留まるところを知らない。
奈落の底まで堕ちて行く。
























この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?