見出し画像

あと1分だけ ❲掌編小説❳


助手席に乗り込んだ途端
私は怯える。
また、いつものように時間が瞬く間に過ぎ
別々の場所に帰る時が訪れる。
その辛さに耐えるのは
容易ではないことを知ってるから。

「久しぶりだね。今日は何時まで大丈夫なの?」
彼の問いに、いつも通りと私は答える。
私の胸中など知る由もなく、彼は車を発進させる。
やっと会えて嬉しいはずなのに、私は途端に寂しくなる。

ハンドルを握る彼は
時折、笑顔を向けてくる。

(あなたは寂しくならないの?)
 
逢瀬の時間は瞬く間に過ぎていくのに
彼はそれに気づいてないみたい。
時々盗み見る彼の横顔は、どことなく無表情に感じられ胸中を読み取ることはできない。
私は今、この時を愛おしむことを忘れ
別れの時を憂える。

夜景の見える場所に車を停め、言葉を交わす最中も
彼の顔のどこにも寂しさは微塵も感じられない。
笑顔の彼に反比例して、私は次第に笑顔を無くしていく。

別れの時が迫り、それでも平然としている彼が
憎い、とすら思う。
きっと彼のような性格は、最も禁断の恋に適しているのだろう。

「まだ、帰りたくないわ」
言うだけ無駄だと思っても、つい口から零れ出てしまう。
「いつもより遅くなるのはダメだよ。お互い、家人に疑われるようなことはしないほうがいい。それが、僕たちの関係を続ける秘訣だ」
あっさりと言い切る彼に、私は落胆する。
禁断の恋を続けていくためには、掟は破ってはいけない。それは充分承知しているが、彼のようにあっさりと割り切るのは、なかなか難しいことだった。(私は、不倫には向いてないのかもしれない)

「じゃあ、また連絡するよ」
さばさばとした口調の彼に落胆しつつ、私はわがままを言う。
「もう少しだけ、一緒に居ていい? あと、1分だけでいいから」
彼は、少し困った顔をする。
が、私を抱き寄せ、彼の手が愛おしむように髪を撫でる。
その、心地良さに浸りながら私は目を閉じる。

「明後日くらいには、また時間取れると思う」
彼の言葉に安堵した。
来週まで会えないと思っていたから、嬉しさが込み上げてくる。

(これでまた、次に会う時まで何とか生きていけそう。良かった)

そうして、名残惜しい気持ちと幸福感がない混ぜになりながら、私は寂しさから逃れようとしていた。

でも本当は、もっと彼の傍にいたい。
彼から離れたくない。
「じゃあ、そろそろ……」
私の肩を抱き寄せていた彼の腕が、離されようとしていた。
「イヤ、あともう少しだけ、いいでしょう?」
そう言いながら、彼に抱きつく。
彼は溜め息をつき、
「分かった。本当に、これで最後だよ」
再び、彼は労るように優しく抱き締めてくる。

彼の胸元に額を押しつけ、温もりを感じながら思った。
(なぜ、別々の場所に帰らなければならないの?
今、この時がずっと続いていけばいいのに)
彼の腕の中で、叶わぬ願いを欲していた。

私は更に額を強く押しつけ、彼にしがみついた。







この記事が参加している募集

#忘れられない恋物語

9,109件

#恋愛小説が好き

4,957件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?