見出し画像

雪中に果つ (小説)


#オールカテゴリ部門
真紀は幸福だった。
これほどの幸福を実感できたのは、生まれて初めてかもしれない。
この幸福は今までの人生で、最初で最後だろう。
今日が、その最後の日でも構わない。
事実、今日が人生最後の日になるのだから。

真紀は隣の裕二に目を向ける。
裕二もまた、真紀を見つめ微笑む。
裕二と一緒に死ねる。真紀にとって、これ以上の幸せなどありえない。ずっと、この日を待ち望んでいた。
「私、今とても幸せだわ」
「僕も……」


真紀と裕二は、社内恋愛だった。
市内の老舗百貨店の中途採用に、真紀は応募した。
採用が決まり、紳士服売り場に配属になった。そこで課長である裕二と出逢ったのだ。
真紀より10歳以上年上だが、容姿は若々しく余計な贅肉もついておらず、スマートだった。
語り口もソフトで、話しやすい親しみのある雰囲気だ。
女性が多い職場のせいか、裕二は既婚者であるにもかかわらず、人気があった。女性の社員に告白されたこともあったと、後に裕二から聞かされた。
そんな彼だから真紀が恋に堕ちるのは、時間の問題だった。仕事で接しているうちに、裕二に恋心を抱くようになったのだ。
裕二は真紀の好意を受け止め、やがて二人きりで会うようになり、真紀は裕二を深く愛するようになった。
ただ、一つ問題があった。どんなに愛し合ったとしても、既婚者である裕二とは一緒になれない。
真紀は裕二の子供が欲しいとさえ思っていた。

裕二はできる限り、真紀と一緒にいる時間を作った。 
だが、決して真紀の部屋に泊まることはなく、どんなに遅くなっても自宅へと帰って行く。
真紀はそれが不満だった。裕二を独り占めにしたいのに、それが叶わない。

(私のほうが、奥さんより裕二を愛してるわ。
裕二にふさわしいのは私なのに。裕二を独り占めにしたい)
日増しに、裕二への執着と独占欲が高まっていった。
真紀の部屋で過ごした後、何食わぬ顔で自宅へと戻って行く裕二に憎しみさえ感じた。

付き合い始めた頃の幸福感はいつの間にか消え去り
裕二への想いは愛情なのか執着なのか分からなくなっていた。
そんなある日、出社すると周囲の視線に異変を感じ取った。真紀に向けられた視線に好奇の雰囲気が
漂っていたのだ。なぜ、そのような視線を向けられているのか訳が分からなかった。
その後、裕二から届いたメールで、社内に二人の噂が広がっていることを知った。
周囲にばれないよう慎重に行動していたつもりだったが、どこかで油断してしまったのかもしれない。

すぐさま裕二の妻にも知れ渡った。
しばらくの間、裕二と二人きりで会えない日々が続いた。
悪いことは連鎖するのか、業績悪化で二人の勤務する百貨店は閉鎖に追い込まれた。隣県の本店に移動が決まった社員は二割程度で、裕二と真紀はその中には含まれなかった。
二人の関係に危機が迫る中、お互い同時に職を失った。
不運に見舞われ、二人にとってダメージは相当のものだった。
特に裕二は家族を養わないといけないため、真紀より深刻さを漂わせていた。
非常事態とも言えるこの状況で、裕二と会うのは甚だ困難だった。
そのせいか次の仕事を探す気力など、真紀にはなかった。

(裕二を失いたくない。このまま裕二と会えなくなってしまうのなら、生きる気力もない。辛い日々を送るしかないのなら、いっそのこと死んでしまいたい)

現状と比較すると、死がとてつもなく甘美なものに
思えてきた。

(もし裕二と一緒に死ねるなら、これ以上の幸せはないわ)

二人寄り添いながら、この世から旅立つ場面を想像した。その情景はあまりにもロマンチックで、真紀はうっとりとした。
ただ、裕二がこの話しに乗ってくれるかどうか……。

その後、裕二に何とか会う時間を作ってもらい、真紀は心中の話しを持ちかけた。
真紀の話しを聞き終えた後、裕二は動揺を隠せずにいた。

「本気でそんなこと考えてたの?」
「そうよ、だって絶対裕二さんと一緒になれないし
今後もう会えないなら、生きてる意味がないもの」

少しの沈黙の後、裕二が口を開く。
「僕だって、真紀との関係を終わらせたくないけど、今の状況だと続けるのは困難だし、僕の年齢で仕事を探すのが大変なことも分かるから、なおさら気力も湧いてこないのも確かだ」

真紀は、うんうんと頷く。
「お互いに今の状況は辛いよ。もう終わらせたいでしょう? 覚悟を決めようよ」

裕二は無言で目を閉じていた。
真紀の決心は、もう揺らぐことはなかった。

その後、何度か裕二を説得した。次第に彼も真紀の願いに同意する方向へと変化していった。

あたかも、季節は冬になろうとしていた。

(苦しむのは嫌だわ。自然と、出来る限り楽に旅立つ方法がいいわ)

日中でも最高気温が氷点下の日なら、実行できるかもしれない。
真紀は一つの方法を思いついた。


       つづく










この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?