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サラダ好きや、サラダを強いられる人々の集う店を回って【2018年12月の固定ノート】

わたしは東京中のサラダ専門店を知りたいと思っている。だから知らないお店を聞けば必ず足を運んで1回食べる。客層を見て回るのもわたしの目的の1つ。ばか高いサラダ様にお金を出せる人々の層。若く、生気がなく、あまりぴちぴちしていない不思議な女性達。この光景のわけを考えてみることにする。
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わたしはサラダがそこそこ好きだ。それを知らないはずの知人に、「サラダ専門店を始めてはどうか」と提案されたことがきっかけで、開業するかどうかは別問題ながら、サラダ専門店にしょっちゅう出向く。商品を買うこと、店員・お客・お店の観察を兼ねて。

そこには20代の女性がわんさかいて、皆決まってほっそりして、無表情で、神経質そうに過ごしている。「ヘルシー」という言葉に滅法弱そう。身なりは小綺麗、自由に使えるお金を持っている。彼女達には奇抜な髪色の友達もいないだろう。

(わたしが飲食店を訪れるのは、早くても17時以降である。昼過ぎや夕方まで寝ているから。昼時にサラダ専門店を利用するお客は、わたしの見る客層と多少違うのかもしれない。でもそれを検証することはできない。)

わが国では、ほとんどの女性がダイエット、あるいは肉体改造・ボディメイクという名のトレーニングや食生活管理をしているのではなかろうか。そのうち、もう十分に美しく、少なくとも服の上から見れば細めと言える体型の女性達にも減量を強いる世の中。だが、その是非はいま問題ではない。むしろわたしはそんなメディアのあり方が今の資本主義経済を成り立たせていると思う。

オーガニック食材、スローフード、糖質制限、脂質制限は社会にすっかり根付き、都会のダイエッターは食べ物を得るのにさしたる苦労がなくなった。ヘルシー志向者から、諸悪の根源とさえ罵られたコンビニエンスストアに今では低カロリー食、低糖質食、低脂質食、高たんぱく食が売られている。(高たんぱく食もここでは一種の「制限食」と呼ぶことにする。) 街中に外国人が増えたので、昨今は世界の多様な食文化・食制限に対応するお店を見かける(ベジタリアンメニュー、ハラルミール、コーシャミール)。

こうして都会人には食の選択肢が用意されることとなった。「健康的な」食事を求める日本人は、宗教でなく自分の生活スタイルと信条で口に入れる物を選択した結果、食べられる物は大きく制限されているはずである。つまり制限食対応の飲食店・販売店の進出と増加が、人生を制限食に縛られる日本人を生んだといえる。

それが豊かさの行き着く果てである。これも善悪でなく、発展した社会の自然な姿だ。

サラダ専門店の女性達をもっと観察しよう。わたしは、彼女達が普段そういうものばかり食べているかを知らない。そう見えて、もしかしたら普段の不摂生とのバランスを取るのに必死なのかもしれない。食べすぎの帳消しや罪滅ぼしを「中和」と呼ぶのが流行っているそうである。

彼女達はサラダをよく噛んで、ゆっくり、いっぱい食べる。無表情であったり、不機嫌そうな面持ちだったり、デバイスから目を離さなかったり。なにもサラダが好きで来ているのではないと言わんばかりである。

罪悪感なしにおなかいっぱい食べていいものの筆頭は野菜であるらしい。ひとくくりに全部の野菜が中和に適しているわけではないのだが、サラダは優秀メニューの筆頭である。頭でっかちな彼女達に支持されているのだから間違いなかろう。
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外食といえば「不健康」そのものだった時代は過ぎた。安かろう悪かろうのお店も残る中、都会ではヘルシーさに過敏な人々のための食事に事欠かなくなった。ただし「ヘルシー」とは多義的である。その代名詞のサラダをかんたんに食べられるようになったので、サラダばかり口にするダイエッターや、いつでも中和できるのを見越して不摂生をやめない人を量産しているのかもしれない。彼女達が生き生きとした目をせずに食べる姿からは、健康の本質が感じられない。

【このページは、2018年11月の固定ノートでした】

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