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「生きづらさ」という単語について

5月5日(日)

 結葵(ゆうき)と申します

いまや日本語のコミュニケーションは種々の合言葉だけで成り立っている



 「生きづらさを抱える人たち」とか「生きづらい世の中で」などとよく言うけれど、この言葉を聞いてまず思うのは、生きづらくなかった、すなわち未熟な若者や種々のマイノリティが生きやすい世の中とか時代とかってのはそもそもなかったのではないか。
 まだ自分の耳がこの言葉を聞き慣れていなかった頃は、身近にいる積極的な人たちがそういう声を出すと素直に共感するところのほうが多かったように思う。けれど、この言葉が盛んに言われるようになってからまだ間もないとはいえ、かなりの頻度で、また至るところで、自分の耳がこの言葉に反応するようになると「いい加減いちど疑ってみろ」と語りかけてくるようになった。


 少し前の日本というと、いろいろなものが現在と比べてテキトーで、例えば50年近くも遡れば、徹子の部屋に出演した役者がタバコを吸い、酒を飲みながら黒柳徹子との会話を楽しんでいた。ほかにも、普段から竹刀を持ち歩いている教師が、宿題を提出し忘れた生徒を一列に並ばせ、そのケツを竹刀で引っ叩く、というのは通常見られることだったし、飲み会の席で上司や先輩から「飲め」「食べろ」と言われれば、否が応でもそれに従わなければいけなかった。
 そもそも、現在のように、会社の飲み会を「欠席する」という選択肢はその頃にはなかったし、もし参加を拒否しようものなら、仲間はずれにされ、どこか遠くの支店へ飛ばされたり、給料を減らされたりすることは至極当たり前のことであったようだ。あまり賢くない父親から聞いた話で、本当かどうかは定かではなけれど、ここまで来ると、テキトーを飛び越えて理不尽も甚だしいが、それでもこういった言わば「屈辱」を与え、与えられる関係が目の前に存在していた。

 まぁ、今を生きる若者として(「Z世代」なんて自分から言ったことなんて一度もないが)強制的にその仲間入りをさせられる身分としては、なかなか良い時代になってきたと思う部分もある。飲み会に行きたくないならハッキリ「行かない」と伝えればそれまでだし、年休を取るのにそれっぽい理由なんて付ける必要もなくなった。

 

 たとえば、いまNHKでやっている「君の声が聴きたい」というプロジェクト。サブタイトルには「子どもや若者の幸せを考える」とある。NHKの公式サイトに行ってみればすぐに目に入るようになっているが、全国から匿名で募った「あなたの”願い”は?」という投稿がいくつか示されている。
 そして、その少し下へスクロールすると「みんなの声を見る」「あなたの声を投稿する」という2つの選択肢が与えられる。試しに左側にある「みんなの声を見る」のほうを覗いてみると、これまた全国から寄せ集められた10代、20代の若者の声が、しかも今度は全文が載せられている。そこには、自分自身の心の中にある「正直には言えないけれど実は思っていること」が、見事なまでに明け透けに語られている。


 いま、これを書いている間にも放送されていた「アタッチメント ”生きづらさ”に悩むあなたへ」という番組は、このプロジェクトと直結している。アタッチメントとは、物理的にも精神的にも誰かと「くっつく」ことで、安心感を与え、またそれを得るというもの。心や体が悲劇に遭遇したときに「安心できる」場所に戻ってくることができる、そういった空間や他人が自分のそばにあることが大切だとされている。

 アメリカでも「アタッチメント・スタイル」というのが流行しているらしい。このアタッチメント・スタイルには、大きく分けて3つのタイプがあるそうで「回避型」「不安型」そして「安定型」に分けられる。
 それぞれ比較的文字通りの意味を成しており、ごくごく簡潔に説明すれば、「回避型」はなるべく他者と距離を保ちながら人間関係を築いていくタイプで、「不安型」は、対人関係に常に不安を感じ、相手がどのように思っているのかが気になってしまうタイプ。そして「安定型」は、基本的に自らすすんで友好な人間関係を築くことができるタイプだ。

 アメリカでこれが流行っている理由は、「アタッチメント・スタイル診断テスト」などというものが若者の間で広まっているからだそうだ。質問に答える形で診断テストを受け、自分のアタッチメント・スタイルがどのタイプなのかを知ることによって、よりお互いを尊重し合った対等な関係を築くことができるのだと。


 「アタッチメント・スタイル」ではないが、日本の教育現場でも、アタッチメントの大切さ、言い換えれば、「自分が安心して居られる場所や人間関係をつくること」の大切さを学ぶ動きが拡大しつつあるようだ。
 そこで、(当時)中学3年生にインタビューをした映像が映し出されていたのだが、いくつかの生徒が「物心がつく年頃になると、自分の正直な気持ちを素直に言うことができなくなる」や、「自分の悩みを言えなくて我慢するのが当たり前になると、そこから自分を演じなければいけなくなる」というようなコメントを残していた。近頃の子どもたちはずいぶん達者な言葉遣いをするものだと純粋に驚きを隠せなかった。自分の周りにいる大人をよく見ている証拠だろう。


 「正直に面と向かっては言えないこと」、言い換えれば「心の奥底に眠る暗やみの部分」を吐露すること。こうした私的に関わることや、本来であれば秘すべき事柄を開示するという営みは、現代社会が纏っているひとつの特徴的なテーマであると思う。精神分析学者の立木康介は、このように記している。

 現代社会に生きる私たちは、私的なもの、秘すべきもの、あるいは、もっと端的に、私たちの「心」や「内面」と呼ばれているものが、どんどんと目に見えるもの、手に取れるものになってゆくという印象を日々抱かずにはいられない。

立木康介『露出せよ、と現代文明は言う』河出書房 pp.11


 昨今、このような望まない苦労や不自由を抱えながらも精一杯生きている人たちの生活に光を当て、「心に抱えた傷」に結びついた「悲しみ」や「辛さ」の感情を、しかも強い表現を伴った形で伝達するメディアは非常に多い。

 たとえば、今日(5/5)放送予定の「NHKスペシャル」では、「サカナクション」というバンドのボーカル「山口一郎」の”うつと生きる”という番組が放送される。「うつ病」を抱え苦しみながらも、それと”闘う”のではなく、”ともに生きる”ことを覚悟した彼のライブに密着したドキュメンタリーだ。
 光が当てられるのは、このような「心の病気」だけではない。体の病気、障がいを抱えて生きる者たちの生活や、大きな震災があり、日々の生活が地震によって一変してしまった被災者の悲痛な生活などにも、メディアのカメラはどんどん踏み込んでいく。

 この点に関して、立木はこう述べている。

 不幸な出来事によって心に傷を負った人々の怒りや悲しみが、メディアによって伝達されること。一方でそれは、被災地や被災者への支援や連帯の呼びかけとなって、多くの人々の善意を喚起し、人的物的援助の輪を広げることに貢献するだろう。しかし他方で、そのように伝達される情動の表現は、同じ媒体を通過する他のあらゆる情報や映像の洪水のなかに、それらの情報や映像と等しい条件で、取り込まれてゆかざるをえない。

立木康介『露出せよ、と現代文明は言う』河出書房 pp.14


 毎年欠かさず実施される「24時間テレビ」では、「障がいを持った子ども」の私生活、それもいかに苦労を強いられているかという部分に光が当てられる。それは一方で、障がい者やその周りで一緒に暮らしている人たちの生活に日常ではなかなか接する機会のない人々に、生活の大変さ、難しさをより広く知ってもらうことに貢献している。また、それは同時に視聴者の共感を呼び、感動を与えている。
 だが他方で、視聴者の共感を呼び、感動を与えるがゆえに、この手の番組や話題がメディアにとっての「資本」になってしまうこと、言い換えれば、数字が取れる良いネタとして利用されているのではないか。

 今日のメディアは、悲しみのスペクタクルの興行に余念がない。「心の傷」を人々に語らせることは、いまやひとつのショー、それもおそらく、雑誌なら高い発行部数を、テレビなら高い視聴率を、安定的にはじき出してくれる稼ぎのいいショーなのである。(…)報道する個人、報道される個人、そして報道を受けとる個人が好むと好まざるとにかかわらず、メディア産業を支えている資本のロジックは悲しみのスペクタクルをビジネスの道具にせずにはおかない、ということなのだ。

立木康介『露出せよ、と現代文明は言う』河出書房 pp.14-15


 冒頭の「君の声が聴きたい」のプロジェクトや、アタッチメント・スタイルにまつわる番組に関しても同様に考えられるであろう。たしかに、生きていくなかで中々自分の声をあげることができない、または声を出したとしても周りの聞く耳がない人々の「苦しみ」や「悲しみ」をメディアが伝達することによって、少しでも支援の手が差し伸べられたり、他者の痛みを理解する努力をお互いがするべきだという倫理観の拡大に貢献していると言えよう。
 しかしながら、本来ならば陰影のある「心の内」が徹底的に光に照らされ、あるいは晒され、あるがままに解き放たんことを告げられる今日の傾向は、自身が必ずしも言いたくないことでさえも、無理やり白日の下に晒し出すことを求められているようだ。

 ましてやそこでは、腹を割って話をするといった信念と信念の衝突、互いが互いを傷つけ、傷つけられながら落ち着くところを模索するといった営みは成されず、お互いを「認め合う」「受け入れる」「理解しあう」「共感する」「思いやる」といった、ある種の共通言語を介する者たちの間でしか成り立たない集団的暗示、要するに、影のある「心」に光をあてることができる者だけがさらに光に照らされ、そうではないものの影はもはや姿も確認できず、闇に葬られてしまう。

 このnoteというアプリケーションも例外ではない。ここでは、日々さまざまなユーザーが心の内を明け透けに語っている。外側からは見えない心の部分について、それを包み隠すつもりなど毛頭なく、オープンに語ることへ人々を向かわせる。そこには、自分の内側にあるものを曝け出すことに何の恥じらいや躊躇いすらなく、むしろ、互いがそれを歓迎していると同時に、そうしなければ読者の反応や共感は得られないぞ、というような強迫さえある。このnoteというアプリケーションは、まさにその文化的形態にほかならない。


 「私的なもの」「心の内に秘められているべきもの」の中へ、メディアのカメラがずけずけと足を踏み入れ、否応なしに「お前の「心の声」をすべて吐き出せ」と要求する。リアルでもバーチャルでも、「心」を剥き出しにすること、「ほかの誰でもないこの私」の欲望を赤裸々に語ることこそが、この過酷な現代社会を生き抜いていくための処世術なのであり、それに与さない者、なかなか「心」を剥き出しにしない者はカメラの光が差し込む恰好の的となる。我々にとってそれは連日続く大谷翔平のニュースと同じで、「生きづらさ」を抱えた単なるモノ、消費財としての人間がメディア上に流れてくるだけに過ぎない。もうすでに「生きづらさを抱えるあなたへ」というサブタイトルも、メディアの資本として利用されているだけなのではないかと違和感を覚えるのは杞憂だろうか。



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