【短編小説】冬の水槽【眠れぬ夜の奇妙なアンソロジー201908】
この作品はムラサキさん主催の企画【眠れぬ夜の奇妙なアンソロジー201908】に参加するため「水槽」をお題に書いた短編小説です。
文字数は3500文字程度です。
短い作品なのでぜひ読んでみてください!
あらすじ
息子を妻の実家に預けるために、家族3人で飛行機とバスを乗り継いで真冬の北海道北見市を訪れた。義父と義母に連れられて向かったのは……。
ここから本編です。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
1/4
ハルキは差し出された祖父の手から逃げるようにして、母親の手にすがり付いた。
「嫌がられちゃったよ」
お義父さんは苦笑いした。
「すみませんお義父さん」
「なんもさ」
僕が謝ると、お義母さんがぐいと身を乗り出してくる。
「明日からはお母さんと離れ離れだもの。今日くらいたっぷり甘えさせちゃれ」
お義母さんの言葉にお義父さんも大きく頷く。
「ハルキ、すごいね。こんな山の奥に水族館があるんだよ」
妻は息子の機嫌を直そうと優しく話し掛ける。
「……ペンギンいる?」
「うーん、ペンギンさんはここにはいないの」
妻は困り顔になって、助けを求めるように僕の方を見てきた。
「ここにもきっと面白い生き物が一杯いるさ。行こう行こう。さあ、まずは何かな」
できるだけ明るい声を出してとりあえず皆を前へと押し進める。ハルキも妻に手を引かれ、とぼとぼと歩き始めた。
2/4
妻に病気が見付かったのは、もう数ヶ月前だ。何の自覚症状もない妻は、ぼーっとした様子で他人事のように僕にそれを伝えた。恐らく良性と思われるが、実際に取り出してみないと正確なことはわからず、大きさなどからいっても手術しておいた方が安心、とのことだった。僕も、内心動揺しながらも、そうなんだ、と生返事をした。
僕の仕事は寝る間もない程忙しい、という訳ではないのだが、細々とした泊りがけの出張が多く、妻の入院中に一人で子供の面倒を見るのは難しいという結論になった。
そこで、入院を冬休みのタイミングにして、ハルキは北海道の妻の実家に預けることにした。
お義父さんもお義母さんも孫を溺愛しているし、ハルキも二人に甘やかされるのが好きなようだし、問題ないと考えられた。ハルキに伝えると「北海道? スキーしたい!」と言って部屋の中を走り回って滑る振りをした。それを見て僕も妻も、すっかり安心しきっていた。
しかし、僕らの期待は、北海道に到着してすぐにあっさりと裏切られた。最初こそ雪を見て顔をほころばせたものの、すぐに「お母さん、寒い」、「お母さん、鼻水」、「お母さん」、「お母さん」とぐずるようになってしまった。恐らく遠い地に来たことで、親元を離れる実感が湧いてきたのだろう。改めてハルキの年齢を考えれば、親と離れたくないのは至極当然のことだった。
もっといえば、母が病気で手術をする、という言葉の意味が子供ながらにじわじわと脳みそに浸透してきたのだろう。きっと悪い病気じゃないし、手術といっても危険はほとんどないんだよ、とは説明したが、嘘がないようにしようと使った「きっと」や「ほとんど」といった曖昧な表現が小さな頭の中で反響して、余計に恐怖を増幅させたのかもしれない。
3/4
ハルキを預けるついでに妻の実家で年越しを過ごせば親孝行になるだろうと考え、昨年末に三人で飛行機とバスを乗り継ぎ北海道にある妻の実家へと向かった。
妻の実家は北見市にある。北見市は広大な面積を持ち、旭川と網走の間を繋ぐように東西に伸びている。オホーツク海に面しているとはいえ、その市街地は海岸から四十キロメートル離れた内陸にあった。盆地であるため、夏は暑く三十度を超え、そして冬は寒くマイナス二十度となることもある。僕らが到着した時も、空気まで凍ってしまったかのように冷え込んでおり、そのような寒い状況を北海道弁では「しばれる」と言うのだと妻から教わった。
昨日、元日は初詣を行い家でゆっくり過ごした。明日、一月三日には僕と妻はハルキを残して北海道を後にし、そして更に翌日には、僕は仕事始めとなり、妻は入院することとなる。ハルキは冬休みが終わる頃に、今度はお義父さんとお義母さんが妻のお見舞いを兼ねて北海道から連れてきてくれることになっている。
せっかく北海道まで来てくれたんだからせめて今日はどこかに遊びに行こうと言ったのはお義父さんだった。
そして、山の水族館なら開いているはずだ、とお義母さんが提案した。
水族館といえば海に面しているのが一般的であるが、山の水族館は、北見市街から更に三十キロメートル内陸に進んだ山奥の留辺蘂(るべしべ)という地域にある一風変わった水族館とのことだった。妻が子供の頃からあったらしいが、近年リニューアルしてからは妻も行ったことがないという。
入院を控えた妻が疲れてしまわないかと僕は心配したが、このままハルキとバイバイしたくない、と妻は寂しそうに言った。このまま、というのは、ハルキが機嫌を直さないまま、ということだろう。ハルキを心配しての発言でもあるだろうが、妻だって心細い入院生活を迎えるに当たって、息子と物別れになってしまってはすっきりしないのだ。僕らは山の水族館へ向かうことに決めた。
車はお義父さんが運転すると言われた。僕が運転しましょうかと聞いたのだが、慣れない雪道では大変だろうと断られた。長距離運転を頼むのは気が引けたが、北海道の人にとってはこのくらいの距離は何ともないのだと妻が笑った。
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滝つぼを下から見上げられるというドーム型の水槽や、生き物に触れることができるコーナー、北海道特有の生き物などが展示されていた。見たことがないものばかりで興味深い、と僕は思ったが、ハルキはまるでお化け屋敷にいるみたいに母親にくっ付いて進んだ。そのうしろからお義父さんとお義母さんがあれこれと盛り上げながら続く。僕は更にうしろから見守るようにして付いていった。
やや薄暗い館内にすっかり怖気付いてしまっていたハルキだが、小さな館内をぐるっと回った最後に、不意に日差しに顔を照らされて、眩しそうに顔を上げた。
「これが、『四季の水槽』だ」
お義父さんは誇らしげに語った。
「ハルキ、外が見えるよ」
妻が声を掛けた通り、水槽のガラスの下半分は水中に沈んでいるが、上半分には外の雪景色が広がっている。どうやら外に置かれた水槽を建物の中からでも覗き込めるようになっているようだ。真昼の太陽の光が館内に注ぎ込んでおり、ここだけふんわりと明るくなっていた。
「これが、世界初の『凍る水槽』だ」
お義父さんの言葉を聞いて僕は息を呑んだ。
『世界初』のものがこの北国の山奥に潜んでいたことにも驚いたが、何より。
水槽のガラスを上下に区切る一文字(いちもんじ)の線は、白く、かつ透き通った、厚さ数センチメートルの氷だった。更にその上には、うっすらと雪が積もっている。
水族館の水槽の水が凍っている……。
ここは日本の北の果て。今は真冬。水槽があるのは屋外。
考えてみれば当たり前の現象なのだが、僕は改めてここが本当に氷点下の世界であることを思い知らされた。
ハルキもその不思議な光景に目を奪われているのが、背中から伝わってきた。
しかし、こんなことになってしまって、大丈夫なのか。
時計を見た瞬間に秒針が止まって見え、時間の流れが止まったのではないかと恐怖することがあるが、この水槽を見た瞬間も同様で、まるで絵画のように沈黙して見え、世界は冬の訪れと共に死んでしまったのではないかと不安が込み上げた。
しかし、ハルキが水槽に引き寄せられるように一歩足を出したその瞬間、水槽の中でいくつもの黒い塊が一斉に動き出し、目玉をぎらぎらさせてハルキのことを睨んだ。予想以上に多くの魚が、その分厚い氷の下で生きていた。
雪深い氷点下の世界、氷の下に閉じ込められてもなお、力強く躍動する生命。
僕は静かにハルキに歩み寄り、かがんでハルキの顔を覗き込んだ。
「すごいな、ハルキ」
ハルキの瞳は水槽の光を反射してきらきらと輝いていた。
ぎらぎらの目玉ときらきらの瞳で、大人には聞こえない声を使って会話をしているようにも見えてくる。
僕は、今のハルキの歳の頃、どんなことを考えていただろう。この年齢の子供にどれだけの語彙力があっただろう。どれだけの理解力があっただろう。どれだけの思考力があっただろう。
この小さな頭は、僕みたいに小難しいことは考えず、純粋な感動が湧き上がって満たされているだけなのかもしれない。
ただ、これは大人のわがままだが、この冬の水槽を見て、もしハルキがこんなメッセージを感じ取ってくれていたなら僕は嬉しい。
ハルキ。
この季節はハルキにとって、寂しく心細い人生の冬になるだろう。
でもそれは決して無の世界ではないよ。ただただ暖かな春を待ってじっと耐え抜く、辛抱の季節にしてしまってはもったいないよ。
この季節にだって、ハルキは生きているんだ。
きっとハルキは、この冬もまた大きく成長するんだね。
お父さんやお母さんはその成長していくハルキの隣にいることはできないけど、次に会う時に一回りも二回りも成長したハルキの姿を見せてくれ。
ハルキ、力強く生きてくれ。
僕はハルキの肩を叩いた。
ハルキは食い入るように水槽を見つめながら、何も言わずに大きく頷いた。
そして繋いでいた母の手をそっと離し、嬉しそうに光の射す方へと駆け寄っていった。
僕は立ち上がって、妻の手をぎゅっと握った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
この物語はフィクションであり、実在する人物ㆍ団体とは関係ありません。
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幸野つみ