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本当の意味での評論文化が欲しい

いわゆる伝統工芸の世界では、古法を忠実に現代に行うこと、昔の価値観でやっていることを売りにしているところが多いと思いますし、そういうものが特別なものとして評価を受けやすいところがあるように思います。

しかし、その古法や昔の価値観が出来た当時はそれが最新であったわけです。

そして、近現代で、それ以上のものを作れなかったから、未だにその古法や昔の価値観が最上とされているわけです。

乱暴に言ってしまえば、優れた古法や昔の価値観を超えることが出来ない現状があるとも言えますが。。。

しかし、それではやはり乱暴で、それをそのまま「だから最近の作り手は。。」と批判するのではなく、もう少し幅を広く、深さをもった観察が必要だと個人的には思っています。

例えば伝統工芸系のものでも、実は新しいものの中に、既に昔のものと並ぶ力を持つもの、あるいは凌駕しているものがあると思うのです。私はあると思っています。

例えば、産地ものの工芸品で、伝統の本質をしっかり継承しながら、機能や審美的要素を現代的にバージョンアップしている人は存在します。

が、現代日本では、そういうことをやってのける人がいたとしても、そういうモノがあったとしても「それを評論したり解説出来る人がいない」ので、社会で評価されにくいのです。(評価は経済的な評価も含まれます)

ようするに、本質的に伝統とつながった現代的創作をやり、かつ、そこそこ売れているのに、

その実績が社会的評価を受けられない=その新しい価値観を社会に浸透させ、未来へ発展させられない=新しい良いものを制作しても作り手は報われず消えていく

というわけです。

新しいものごとを評論、解説、広報し、社会に定着させる文化的土壌が無いと、そのような「現代において真に創作的なもの」よりも「代々やっている(だけ)」ところばかりが評価されてしまいます。しかもそれ”だけ”が正しいかのように。(もちろん、代々やっていながら新しい良いものを制作する人はおります)

それだと、創作性や公共への貢献の事実よりも、血統だけが重視されることになります。その他、最早形骸化した思想の権威団体のものから、何かが新しいものとして取り上げられることもあります。

結果「その新種の植物が育つ土壌が無いから、育たないし、実を結ぶこともない」ということになります。

その文化的土壌の要素の一つが「評論文化」なんですね。

もちろん、それは評論家が上から目線で制作する人々を揚げ足取りしたものではありませんし、評論する人の価値観のなかに現代の作り手を閉じ込め上下をつけるような幼稚なものではありませんし、評論家個人の利益のためでもありません。

そして何よりも権威に擦り寄るものではありませんし、評論自体が権威になるようなものではありません。

繰り返しになりますが、

【まだ社会的に評価されていない新しい創作品の一部は、現代人の生活や価値観を豊かにする高いレベルで存在している】

にもかかわらず、

【その事実と創作性を”評価出来ず”に放置されることが多いのが問題】

と、私は考えています。

【評価出来ず】

というところが問題なのです。

新しいものは「評価する」のです。

「既知の価値観で判定する」のではありません。能動的な姿勢でなければなりません。

「既知の価値観で判定する」のは既に社会的に価値観が決まったものに有効な方法であって、新しいものの価値創造においてはダメなのです。

だから、その新しいものから社会は恩恵を受けているのに、その新しい有用なものを正当に評価も尊敬も出来ないわけです。

ゆえに、せっかく産まれ出たそれは育たず、消えてしまうのです。自国文化の魅力に気づかず、外資に美味しいところを持って行かれてしまったり。。。

そのような環境は文化を先細りさせます。

もちろん、その新しく産まれた創作に現実的な力が無い場合は、どんなにキレイ事を言っても、その時代の人々に響かないので、受け入れられることはありません。そういうものは、人々に影響を与えることは出来ません。

ただし、それが貴重な世襲文化だと設定されると生き残り、権威化し、奇形化し、文化に悪影響を与えることすらありますが。。。

新しく産まれた創作でキチンと力を持ち、的を射たものは、それがどんなに新しく理解を超えたものでも、ちゃんと人々の興味を引き、人々の生活や価値観を変えます。

その流れを後押しするのが「正しい評論文化」です。

【新しいものは、人々に影響を与え機能するという事実が先で、その現象の理解と把握は後になる】

それが新しいものの特徴です。

【文化的に新しいものに対しては、鑑賞方法の成立と、理解が必要】

なのです。

だからそれを解説する評論文化が必要なんですね。

「現代に機能する新しい創作を評価し、鑑賞方法を成立させることは、新しい創作自体と同じ価値を持つ」

ということです。

そのような本当の評論文化が、現代日本に希薄な気がします。

だから、いつも自分たちの持っている良さを、外から気付かされる羽目になるのです。

日本では感じたこと、観えたことを言葉で説明したものや、理論構築したものを丁寧に積み重ねて行く作業や、意見をぶつけ合い議論することを嫌う傾向があるように思います。むしろ言葉はペテンだと言わんばかりに。

そういうことじゃねえんだ。言葉じゃねえんだ、と。

特に伝統系のものでは「心」などと言います。

しかし、的はずれなことを心を込めて丁寧にした結果と、普通の態度で適切にしたものでは、どちらが良い結果を残すかと言えば「適切な方」なのは自明のことですし、特に美に関することは残酷なまでに摂理に沿って実現されますから「その行為が適切であったかどうか?」が大切です。

美は漫然とした繰り返しを嫌います。偶然であっても摂理に触れれば美は現出し、心を込めても摂理に触れなければ美は現出しません。

本来の「心を込める」の意味は「自分が”適切”に行うための心構え」という意味で、それが基本姿勢です。「心を込めること」は的外れな行為をして良い結果を得られなかった際の免罪符ではありません。

的外れであっても、丁寧な観察と実行が無くても、心を込めれば良いものが出来る、いろいろな不備を乗り越えられる、何か特別なものが宿って人々の心を打つ、なんて都合の良いことは起こらないのです。

言うまでもなく「言葉は当のものではない」わけですが、

しかし人は言葉で思考しますし、思考の向こう側へ至る、本当の意味で「心」のことを問題にするには「言葉という羽」を必要とするのです。

そういった意味で、評論文化への見直しが今本当の意味で必要だと思います。

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