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思考を雑念、妄想って呼ぶのって可哀想じゃない!?

自分が存在していて、
自分が考えているのではない、

どこからともなくやってきては
風のように流れ去っている

脳の働きでとめどなく
自動的に顕れては消える思考を

「雑念」

「妄想」

などと悪い言い方で呼び、
瞑想や坐禅を止めたととたんに、

自分が存在していて、
私が思考していて、
私が雑念、妄想とは呼ばずに、
「考えや想いを扱って生活している」と・・・・・・


以前の僕もそうでしたが、

????(?―?)滑稽である。

「どうして瞑想や世間一般の坐禅を実践している時だけ、
雑念・妄想・モンキーマインドなどと、まるで思考が悪者のような
言い方でどうにか止めようとし奮闘し、
実践を止めたとたんに、想い、考え、思考と
急に呼び方が変わるのであろうか!?」


事実は
自分が考えているのではなく、
どこからともなく勝手に考え、思いが
顕れては消えているだけなのです。


特に瞑想者に多いのですが、
思考を「雑念、妄想」とまるで悪者の如くレッテルを貼り、
排除しようとしないまでも、

思考の鎮まった穏やかな状態を求め得ようとしたり、

思考がたくさん浮かんで騒がしい時は、
「モンキーマインド」などと呼び、
瞑想が上手く出来ていない悪い状態だと決めつけて
一喜一憂している人が多い。


それでは
一向に悟れないのは明白である。


思考は選べずに
勝手に顕れては消えるもので、
思考を鎮めたり出来る個人や誰かなんて
感情や感覚も含めて、
この身体と呼ばれている中に
固定的なコントロール出来る存在なんていやしないのだから、


瞑想中の時だけ
浮かんで来る思考を
まるで悪者かの如く、
「雑念」「妄想」と
呼んでみたりしたら、
「思考や身体の機能を否定して責めているみたいで
可哀想じゃないか・・・!?」



そもそも浮かんでいる
思考、考え、想いの内容に
わたしたちは苦しめられているのではなく、


浮かんでくる思いや考え、感情の内容に

「良い・悪い」

「好き・嫌い」

とジャッジして、
後追いの考え方で取り上げ、
気づいた時にはとっくに過ぎ去っている
記憶の認識の思いや考えの内容を

「正すべき内容」

「忘れるべき記憶」

「大切にすべき想い」

「手放すべき、浄化すべき、昇華すべき記憶」

などと言って、
実体のない観念上で
〖どうにかしよう、どうにかすべき事、解決すべき事〗だと扱い続け、
考えの中でぐるぐると反芻して解消しようと問題視し続けて輪廻している事が迷妄・苦悩・生きづらさの要因になっているのです。



坐るの本質は、
思考を鎮めるのではなく、
赤ちゃんや人間以外の生き物が
当たり前に出来てるように、
ネガティブだと言われているものも含め、
顕れては消える思考や感情や感覚を
後追いの考え方で取り上げて問題視せずに、

【ほったらかして、だた何もしないでその場にいる練習です。】


それが自然と実践なき実践できていると、
考えで一切分析は出来ないし、
論理的に分析しようとするから悟りが遠のくのですが、


思う、考えると云う身体の機能が働いたまま、
いつしか自然と
自他の認識が完全に止むと云う事ことが起きて来るのです。

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https://ameblo.jp/a10314827/entry-12847730002.html


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