精神病院物語第十四話

精神病院物語-ほしをみるひと 第十四話

 昨日は二人の女性の、普段はみられない一面をみることになった。
 江上は家族に対してコンプレックスがあり、特に「遺伝」に関しては憎しみすら抱いているようだった。
 病棟ではあれだけ明るく振る舞っている江上も、家庭では相当に闇を抱えていたのだろうか。
 やはり想像ができなかった。江上のような女性はいつも明るくいて欲しかった。
 来宮さんのことも深く考えさせられる物があった。人はいるべき場所にいなければならない。そうじゃなければ、いる場所がなくなってしまう。
 来宮さんから聞いた初めての長い言葉だった。その夜、あのすすり泣くようなか細い声が頭から離れなかった。
 僕は……いるべきとされていた場所から逃げたかった。自由になりたかった。だけど来宮さんは、いるべき場所にいなければならないと信じているようだった。
 もし学生時代、僕があそこから逃げ出していたとして、いる場所がなくなってしまったのだろうか。考えてみればどこにも当てはなかった。
 地獄から逃げられず、逃げたとしてもいるべき場所がないなんて、その場所で適応できない人間はまともに生きていけないことになる。
 本当に世の中はそういうものなのだろうか。
 来宮さんに、僕は別の答えを示したかった。だけど僕の考えはあやふやで、確固たる解答には程遠かった。
「好きなんだ?」
「幸せになりたいんだ?」
「欲しいんだ?」
 追い打ちをかけるように、女の言葉で幻聴が聞こえてきた。この波が、徐々に攻撃性を帯びてくるのはわかっていた。
「人を裏切っておいてねえ」
「いろんな人をだましてるよね」
「あの鼻でねえ」
 何故鼻のことをそんなにしつこくいってくるのだ。僕は苛立った。そして胸は不安で仕方がない。あと一刺しやられたら、自分はバラバラになって壊れてしまうのではないか、それくらいにハートを痛めつけられてきた。
「あの鼻が邪魔なんだよ」
「いっそ切り落としちゃえば?」
「そしたら普通になるだろ」
 駄目だ。考えたいことを考えようとすると、連中に邪魔をされてしまう。切り落とすってなんだ。そんなことをしたら、終わりだろうが。
 少し廊下を歩いてやり過ごすことにした。じっと同じ場所にいるより、動いている方が少しは声が分散される気がする。
 幻聴の問題は厄介だった。本来入院生活において、幻聴なんて物は消しておかねばならないことだ。しかし薬を飲もうが、休もうが、この幻聴は消えてくれないらしい。
 幻聴が消えないといえば薬は増やされるだろう。退院は長引く。そもそも入院生活の中で幻聴を消すということに僕は疑いを持っていた。
 幻聴こそ最大の敵だ。敵とは戦わなければ良いようにされるだけだ。どうしたら、こいつらを消し去ることができるのだろう。
 ホールに行くと、看護師たちが車いすの老人たちの世話をしていた。三人の内、二人は手を動かすのさえ苦労しているようだった。
「おお、少年。ちょっと手伝ってくれ」
 堀が声をかけてくる。僕に手伝えることなどあるとは思えない。なにか思いつきで呼んでいるに違いなかった。
「太郎さんが元気出ないから、肩を揉んでやってくれ。これもコミュニケーションだ少年!」
 肩ぁ? といって僕は車いすの老人、太郎の姿をみた。長顔の太郎は顔に血が上っている様子で、視線はテレビに向かっている。
 半信半疑で肩を揉んでみると「やめろお、うるせええんだよお前は!」と太郎が怒りだしてしまった。僕は驚いて手を放した。話が違う。
「ごめんごめん駄目だったか」
 そういって堀が代わりに太郎の肩を揉みだしたが、そちらはなんの問題もないらしい。人を選ぶ、ということなのだろうか。
 高見沢がコーヒーを飲みながらヘラヘラ笑っていた。釈然としない気持ちで僕は高見沢の前に座る。
「気の毒だね、少年。ありゃクソジジイだから」
「いや、そんなこといっちゃ駄目でしょ」
「いいの。俺はなにを言っても許される。もうああなっちゃおしまいだ」
 なかなか無茶苦茶なことをいうなと思った。あまりこのことには触れない方がよさそうだった。
「俺はね、ああはなりたくなかったよ。でも病気ってのはいけねえな。人間をどんどん小さくしてくから」
 言葉でいわずとも、僕も似たようなことを感じていることは否定できなかった。浅ましいとも自覚していた。
 介護され、テレビを眺め、流動食をとることの繰り返し。想像するだけで生きることに倦んでしまいそうだった。
 あのお爺さんたちが、今までどのように生きてきたのか気になった。晩年に不自由な体を抱えながら、今までの生に不満を抱えたままだとしたら、どれほど残酷なことだろうと思う。
 不思議な話だった。僕らは、ここで明らかに落ちぶれている。そしてもっと不自由で苦しい人たちを、あんな風になりたくないと敬遠してもいた。
 落ちに落ちたところで見える景色もそんなものなのか。みんなあんな風になりたくない、と思いながらまだ落ちていくのか。
「可哀想、あんなお爺さんを馬鹿にしてるよ」
「ひっでえ奴」
「こんな奴最低だ」
「生きてる価値ないね」
 声がまた激しくなってきた。自分が悪い方に頭が働くのを、彼らは決して見逃さず、追及してくる。手を開いてみると、激しくピクピクと震えていた。
「死ねよ最低男」
「このままここにいろ」
「お前自分がああなった時の事考えてんのか?」
「こいつの目やばくね? 限界きてるかな」
「こんな悪い事考える奴になにやったっていいよね」
 幻聴が、僕の浅ましさを追求してくる。そうなのだ。僕はそういうことを考えてしまう。考えてしまうのだけど……ああああああああやめろ頭がおかしくなる! うるさいうるさい! 声をやめろおおおおおお!
「おい、どうした滝内君?」
 僕は激しく震えだし、頭を抱えてうずくまった。高見沢が声をあげると、看護師が異常に気づいたようで、すぐに駆け寄って声をかけてくれた。
 大丈夫だ、と返事をすればよかったが、もう限界だった。身を任せるしかなかった。
 今、僕を介抱している看護師は、詳細なレポートを記録している。これで主治医にも、僕の異常は伝わるだろう。
 外泊は……パーかな。
 それももう、どうでもよくなっていた。(つづく)

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