精神病院物語-ほしをみるひと 第八話
僕は過去に、あそこで立っていたのだ。近くにいて掴むことだって容易いことだった。この世の光という物は、掴んだと思えば次々こぼれていってしまう。
*第八話*
今日も長い一日が終わり、消灯の時間になった。横の二つの病床は布団が片づけられてベッドだけになっている。
部屋に一人で寂しい、ということは少しもなかった。東京で一人暮らしをしていた時は一人で寝ていたし、別の人間の存在を感じたせいで精神を病んだくらいである。
だがこのまま病床が空いたままというのはあり得なかった。近いうちに誰か二人新しい患者が入ってくるということだ。
振る舞いがまともな人が来れば良いのだが、症状が激しいとんでもない人が来る可能性は否定できない。とんでもないの振り幅が僕には相当に大きく思えた。
部屋で一人だが、なんら雑音がないわけではなかった。具体的にいうと廊下の奥の部屋からおかしな声が聞こえてくる。声というか歌といった方が正しいかもしれない。
「パーソコン、リーモコン、マイコンコン。パーソコン、リーモコン、マイコンコン」
酔っぱらいがふらつきながら歌うような音調だった。パソコン、リモコン、マイコン。滅茶苦茶韻を踏んでいるが、なぜこれを歌として歌おうと思ったのだろう。
「パーソコン、リーモコン、マイコンコン」
また繰り返す。この歌はここのところ何度も聞いていて、どうも三つ先の部屋のいつも同じ青い服を着た太ったおじさんが歌っているらしい。ただ畳の隅で誰とも関わらず座っているばかりで、一回もしゃべっているところをみたことがない。
しかし今はこの通りである。あのおじさんのどこにこんな執着が宿っているのだろう。
あの部屋は、確か四人部屋である。外で聞いている分には良いが、同じ部屋になったらさぞかしうんざりするに違いない。どうかこの部屋にも迷惑な人が入ってこなければ良いのだが。
「パーソコン、リーモコン、マイコンコン」
だんだんうるさくなってきた。これでは寝られないので、少し僕はホールで散歩でもすることにした。
消灯後の廊下はトイレやナースステーションについている灯りで僅かにどこになにがあるかわかるくらいだった。何人か男性の患者がコーヒーを飲んでいる。
「滝内君じゃねえか、どうした、眠れんのか」
高見沢が話しかけてきた。カップでコーヒーを飲んでいる。
「あの歌のせいでね、一体誰なんですあの人は」
「あのおじさん? もう俺がいた時には入ってたよ」
既に半年以上前から入院していたことになる。それはそうだろうと納得させられるものがあった。
「そんなことより滝内君、コーヒー飲めよ、おごってやるから」
高見沢がカップを差し出してくる。少し抵抗があったが、まあ口をつけていないところならと思い、持ち手の辺りに口を付け飲んでみた。
「これは、甘いですね」
「うめえだろ?」
持ち金をナースステーションに預けていない僕は自分で嗜好品を買うことができないため、母が買ってくるお菓子を食べるしかない。甘味は貴重だった。
「でも珈琲なんて飲んだら余計寝られないでしょう」
「寝られるときは寝れるよ。駄目なときは一晩中駄目だけどね」
そういって高見沢はコーヒーを飲み干し、その後、軽くため息をついた。どこか疲れがあるようにみえる。
僕はあまり人と話さないし、高見沢ともそこまで深く話はしたことがない。外にいる時から、人との距離感がよくわからなかった。どこまで聞いていいのか不安だし、そもそも聞いたところでどうなるのか、と意味を考えてしまうところがあった。駄目だな、とつくづく思う。
「それにしても滝内君は頭良いし、全然病気にもみえんね。もうそろそろ退院しないのかい」
高見沢が意外なことをいう。鏡で自分の顔をみているが、どこからどうみても病人の顔にしかみえないし、体の動きのおかしさは一向に直らない。実をいえば、僕は主治医が病棟に顔を出すたびに退院させてもらえるようせがんでいた。
「お願いです。僕はもう症状は安定しました。こんなところにいたら頭がおかしくなってしまいます」
ころりと丸い体をしたメガネの主治医は優しそうな穏やかな目をしていたが、それが退院に関係するわけではなかった。
「これから薬の組み替えもいろいろ試していかねばなりません。いずれにしてもまだ早いので、もう少し辛抱していただきたいです」
「辛抱って、僕には耐えられません。いつまでここにいろっていうんです?」
「まだ正確な日にちはいえません。状態を見ながら判断していきます」
主治医の言葉は重い。必死で窮状を訴えても、僕にはそれ以上の材料がない。駄目だといわれればまだ駄目なのだ。
結局今回も駄目だった。その苦々しさを思い出し、僕はため息をついた。
「退院は、できないですよ。半年くらい、ここにいるかもわかりません。いや、もしかしたら僕は一生居続けるんじゃないかって、どうしようもないことを思うんですよね」
「一生ってことはないよ。でも病気を引きずって、引きずられてここに戻ってくることはあるよ。俺もね……」
高見沢はなにかを言い掛けたが、少し苦い顔をみせると口をつぐんでしまった。
「まあ、なるようになるから気楽にやりなよ、俺ぁ寝る」
おやすみ、といって高見沢は病室へ戻っていった。少し話が物足りない気がしたが、無理に聞くことでもなかった。
僕は、まだ寝られる気分ではなかった。家にいれば、この時間でもパソコンで時間を潰すことはできる。ここには時間を活用する選択肢がない。
やはり僕はここから抜け出したかった。家に戻っても地獄が待っているのかも知れないが、とにかく外の世界には可能性があるのだ。
次に主治医が病棟に来るときは、もう少し粘って交渉してみようか。退院を早くする方法は今のところ、それしかない。
僕はそんなことを考えながら、病棟の廊下を歩き続けた。じきに行き止まりの窓にたどり着く。
今日も遠い夜景が広がっていた。当たり前のように並んでいる橙色の光の中に、動く光も少しある。
僕は過去に、あそこで立っていたのだ。近くにいて掴むことだって容易いことだった。
この世の光という物は、掴んだと思えば次々こぼれていってしまう。だけど掴んでは放さない人たちもいる。彼らを妬むのは女々しい心からか、醜い心の表れだろうか。
赤、橙、緑色。遙か先にある光は自分が世間から遠ざかっていることを、嫌というくらい教えてくれる。(つづく)
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