Yoshiaki Hayashi

作家 林由彰のnoteです。

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マガジン

  • On Sraffa, etc. スラッファ、など

    作家 林由彰の著書です。

  • Poems & Stories 詩と小説

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最近の記事

マルクス恐慌論への序章

 クライン『ケインズ革命』の翻訳者宮沢健一氏は「一般にマルクス恐慌論には三つの思想があるといわれている。…しかしこれら三つの理論は相互に完全に融合されておらず、また時として相互に矛盾する独立の原理として扱われてきた。」と批判している。すなわち「第一は資本構成高度化による利潤率低下の理論であり、第二は生産諸部門の不比例性の理論であり、そして第三は大衆の貧困化による消費力の限界の理論である。」、と。〔文献1〕  氏の批判を踏まえた上で、マルクスの恐慌論をどのように解釈さらには再構

    • 蓮花幻想

       案内図のとおりごくわかりやすい道順で、峰岸湾太郎の屋敷には迷わず着いた。それは白壁の蔵が塀越しに三つも四つも目につく文字どおりのお屋敷なのさ。  湾太郎の母という婦人が玄関口に出て、黒い框に手をついて迎えてくれた。せっかくの案内に長く返事も出さずに放っておいた失礼を詫びると、婦人は屈託なく中に招き入れてくれた。  薄暗い仏間で、磨きのかかった唐木の仏壇の前に合掌をし、振り返ると、隅から婦人は立ち上がって、扇風機の作動を止め、こちらに目礼して廊下へ出た。板目模様の美しい漆黒の

      • 卵夢

        1  田舎町だから安いだろうとは思っていたが、予算の枠内でまさか一軒家が借りられるとは思いもしなかった。板塀、門付きの二階家で、一階二間、台所、納戸、風呂、二階二間、さらに狭いが前庭まである。木造のかなり古い建物だが、傷みは少なく、庭に面した一階、二階の格子窓のガラスは傷もなく、よく磨かれている。  紹介者としての責任を感じてだろう、役場が終わるとちょっと見とこうと言ってついてきた海法氏は、「こりゃ文句なしだ。この広さじゃ家の中見てくれる人が必要かな。この際思い切って嫁さん貰

        • 有終の実

           帰り際になって、妻が用事とも言えない用事を何やかにや言い出したので、ナースステイションに面会許可証を返し、病院正門前の市内循環バス乗り場に着いたときは10分近く過ぎていた。時刻表にかなり正確に運行しているバスで、五分遅れることもまずない。何よりそこに一人もバスを待つ者の姿がないことが如実に事態を明示していた。  一旦病室へ戻ろうかとも思ったが、歩いて川越駅に出ようと思い直した。以前16号国道を歩いたことがあるが、今日は循環バスの通る裏道を行ってみることにした。国道の五分の一

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          5本
        • 全詩集
          1本

        記事

          目的地まで(改稿)

          第一話 所沢まで  顔を挙げると、日差しが変わっていた。目の前の線路、柵の向こうの空地、そして足元のホームに差している陽光は、つい先ほどまで生気を含んで硬質に輝いていたのとは違って、今はさらさらとして、西に傾き始めているのがわかる。  本を閉じ、腕時計を見るとまだ三時前。あんなによく晴れて汗ばむほどだったのに、と思いながら私はベンチから立ち上がった。そしてふと、所沢まで歩いて帰ってみようかと思った。一時間ぐらいなものだろう。  そう思うと、私はホームの階段を上り、橋上駅舎の

          目的地まで(改稿)

          目的地まで

           主(あるじ)に促され、客はソファーに腰を下ろした。主は窓際の机から椅子を引き出し、腰を下ろして客に対座した。  「で、何か私に要求したいということでしょうか。」  主の声の調子は硬かった。窓からの光が逆光となって顔の表情も暗い。客は悪びれず、 「電話でもお伝えしたと思いますが、私はただ先生に確認したいことがあってお伺いしたので、それ以上の何かはまったくありません。」  「確認……」 と繰り返して、主は客の顔を窺う。  「私が調べてみることにしたのは、先生が紹介されていた小説

          満月の渡し船

          満願   ……聞こえてるんじゃない?……   ……今日のところは……   ……黒石で……黒石なら……  夕暮れ時のようだ。ひっそり閑としている。広い通りだけど人っ気がない。  立て看板に隠れて狭い路地がある。奥の方に、白い光を発している雪洞が見える。隙間のない植え込みに沿って歩いてみると、突き当たって潜り門がある。  抜けて、びっくり。  剥き出しのでこぼこの地面。ところどころ無造作にばらまかれた破砕石。雑草。まるで映画撮影所のセットの表から裏側にいきなり入り込んだ感じだ

          満月の渡し船

          濃密なとき

          1  小学校の学区を外れると顔見知りの人に会うこともなく、子供がそんな遠くに用があるはずもありませんでしたが、私はそんなようなところまで歩いて行くことがありました。  その日もふらっと一人で歩いているうち、寺や古くからの家の多い屋敷町のあたりに足を踏み入れていました。ふと気づくと、自然石を敷いた広い門前路の奥の厚い板の門が開いていて、たくさんの人がその中で動いているのが見えました。  門前路の途中まで行って眺めていた私を、門の入り際に立っていた紋付羽織を着た男の人が手招きしま

          渡し場 

           アーチ状の上蓋がまず目に入ってきて、大きな橋の前に出た。川に降りる石段があり、その降り口の標識で橋と川の名前を知った。  たっぷりと水を湛えた流れと土手の間のテラスの上で、鳩が何やら啄んだり腹這いになったりしている。私が歩いて行っても、殆ど遠ざかろうともしない。  高層ビルの並びが強い日差しを遮って陰をつくっているところではベンチや石段縁の上に人が腰掛けたり寝そべったりしている。土手壁の標識を見て、前方の流れが二手に分かれるところが佃島であること、そしてその方向が下流になる

          中有

          1  信号待ちを繰り返している車の列の間から、赤いカーディガンがまだ見えている。もう三十分はいるだろう。私がこの二階の窓際のカウンターテーブルの前に腰を降ろしたときから、コーヒーを飲み終えて、コップの水が半分ほどになっても女はその地下鉄口の脇に立っているのだ。  「すみません。」  不意の声に、私の目は通りの向こうからコーヒー店の中に引き戻された。と同時に、テーブルの上にコーヒーカップと若草色の表紙のファイルブックが載せられ、横の椅子が引かれた。  一瞥すると紺色の制服の上に

          素晴らしい日曜日

           「あーっ。どうなるかと思った。」  一ノ瀬正子は一ノ瀬正夫の腕に縋りながら、辛うじて抑えたといったふうな声を挙げた。息が荒い。  「私、本当に初めて乗ったのよ。」  後ろから来た若いカップルを先へやり過ごしてから、正夫は応えた。  「俺だって最初のときはしまったと思ったよ。二度と乗るもんかって。」  そのとき頭上に轟音が響き、高架レールをコースターが近づいてきた。二人は足を止め、それが通過するのを見送った。ちょうどコースの中程で起伏の緩やかな箇所であるためか、作動音を凌駕す

          素晴らしい日曜日

          千年坂

          1  私は窓の前に立って、日没前の穏やかな陽の差す公団の中庭を見下ろしている。  三輪車や小児用自転車に乗って動き廻る子供たち、スケートボードに興じる年長の子供たち、周りに無関心にベンチにじっと腰を降ろしている五十前後の男……。  私は振り返った。テーブルの脇に立って私の方を見ていた千穂は私と顔が合うと力なく微笑んで、  「ごめん。私、鬱なの。だから言い過ぎた。許して。」  「気にしないさ。」 と私は答えた。ともかく今日の発端をつくったのは私の方だった。  たまたま私が所属す

          青い鳥のラプソディー

           浅草は変わることの少ない場所だといえるでしょう。あのバブル期の地上げ騒ぎも何の跡形も残さず、雷門の前には、人待ち顔の男女や、順番を待つように大提灯の下で写真を撮る人の姿が昔どおりに見られます。  門の雷神像の下で、和服地の上着を着、山吹色の巾着を手に、やや下膨れの横顔を見せている中年の女に、折りたたんだ新聞を手にブレザーを着て革靴を履いた中年男が近づいて、 「——さん、ですね。」 と声をかけました。  女は顔をあげました。そして男と女は同時に、あっ、と声を挙げたのです。

          青い鳥のラプソディー

          水を飲む

           後ろの林の中からジージーという音が聞こえていた。からっとした初夏の暑さに呼応するような早蝉の鳴き声は幾分離れた木立から発せられていた。  「蝉取っか。」と忠夫が言い出さないかなと満はかすかな期待をもって杉の木の切り株に腰を下ろしていた。と、坂を駆け上ってくる音がして、  「来たど。来た、来た。」  押し殺した声とともに口を大きく開いた三夫が岩と岩の隙間から駆け込んできた。  「どいつが来たんか。」  草や藪の刈られた地面に枝の先で何やら書いていた手を休めて、忠夫は顔をあげて

          人生の午後三時

          1  「え?」  前方から来た車を遣り過ごそうとして、端雄は正江の後に廻り込んだので、正江の言葉が聞きとれなかった。  再び横に並んだ端雄を見上げて、正江は言った。  「本当によく来てくれたわ。」  「いや。」と答えて、端雄は正江の足もとに目を落とした。——黒い婦人靴。黒いストッキング。  「本当によく来てくれたわ。」正江は繰り返して言った。  「うん。」  端雄は今度は頷いて、勤め帰りの人や買い物姿の主婦たちで活気づきはじめた裏通りの駅前へ通じる前方に目を向けた。化粧石舗装

          人生の午後三時

          神田神保町

             1 木の戸を押して中に入ると、すぐ目の前に紺色のお仕着せの店員が立っていて、私を見て目礼をしたが、すぐ、横の短髪の少年の方に目を戻した。 「できるかどうか、ちょっと聞いてみましょう。」 そう少年に言うと店員は奥の帳場へ行き、年配の店主らしい男と小声で話を交わし始めた。少年は小柄で、ウール地の上着を着、編み上げ靴を履いた、中学生とも高校生ともつかない年格好で、A4判ほどの本を手にしている。黒い蒸気機関車の前面が大写しになっているカバーが覗ける。 店員はまもなく戻ってく