有終の実

 帰り際になって、妻が用事とも言えない用事を何やかにや言い出したので、ナースステイションに面会許可証を返し、病院正門前の市内循環バス乗り場に着いたときは10分近く過ぎていた。時刻表にかなり正確に運行しているバスで、五分遅れることもまずない。何よりそこに一人もバスを待つ者の姿がないことが如実に事態を明示していた。
 一旦病室へ戻ろうかとも思ったが、歩いて川越駅に出ようと思い直した。以前16号国道を歩いたことがあるが、今日は循環バスの通る裏道を行ってみることにした。国道の五分の一ほどの道幅で、「入間川街道」という道端の標識になるほどと思えるような昔ながらの姿を曝している道だ。バス停を二つ過ぎ、さらに行くと三叉路に出た。そこはバスが向かって左手から折れてくるところだが、曲がらずまっすぐに歩いて行ってみると今度はバスが左手へ折れていくところに出て、さらには右手から折れてくるところも通り、結局バスはこの道を出たり入ったりして運行していることがわかった。
 これは、と目をとめたのは道を横切っているレールである。コンクリート舗装の道の表面をくり抜いて埋めてあるから車の通行には支障がなく、バスに乗っているときは気がつかなかったのだ。見回すと、道の両側に柵がつけられ、どちらの柵の向こうも砂利を盛った上に枕木が敷かれその上にレールが延びている。レールの両側は軌道三つ並べたくらいの敷地が木の柵で仕切られている。そのレールは使っていないのが歴然で、発砲スチロールやらプランタやら素焼きの鉢やら蜜柑箱やらが積まれ、背の高い立ち葵が鮮紅色、うす紅、白といった色の花をつけて群生していて、レールがどこまで続いているのかは見通せない。バスの窓から立ち葵の群れは目にしていたが、そこに線路があるとは今まで気がつかなかった。敷地の柵際には紫陽花と山吹が色鮮やかに乱れ咲いている。
 昔はここに踏み切りがあったのかもしれない、と思いながら二本のレールを跨いだ。
 広くなったり狭くなったり曲がったりと、まるで幾何学に反発したようなあまり行儀良いとは言えない道に沿って歩いていると、どこからか時代が逆廻りしたような音楽が流れてくる。安スピーカーで垂れ流したような甲高い伴奏が耳についていたが、やがて男の歌手のしゃがれ声が聞こえてきて、昔流行った流行歌だと分かった。女房に逃げられた不甲斐なさを忍んで男が子守唄を歌うという歌詞で、私も一時似たような状況にあったからその歌はよく覚えている。
 道端の太い桜の幹の前で私は足を止めた。そのごつごつした幹に隠れるように人造石の鳥居があり、音楽はその奥から流れてきているらしい。私は鳥居を潜った。飛び石伝いに進んでいくと、急に視界が広がり意外に広い境内に出た。庭をはさんで前方に本殿があり、その昇り段の上で踊りを踊っている男がいる。段の端にラジオカセットが置かれ、曲はそこから出ているのだろう。
 場所も場所、踊りも踊りだが、なにより男のその出で立ちが意表をついている。三度笠、合羽、脇差、足袋、草履ときている。段の脇にダンボール箱を荷台に載せた自転車が停めてあるが、それに道具類を入れて運んできたのだろう。
 ごく幼い子供が一人段の斜め前で見上げているだけで、庭でボール蹴りに興じている子供達も、境内を囲むように据えられたベンチに座り動くこともなく時間をつぶしているような老人達も全く関心を示さない。近いところに人のいないベンチがあるので私はそこに腰をおろした。
 男の踊りはともかく、その曲は妙に身に沁みた。見るともなく目に入ってくる老人たちの姿も他人事のようではない。病室でのことなども思い出されぼんやりしていると、ふと一人の男の姿を思い出した。東松山に住み始めた頃だ。ローンを組んで家を購入したことで、私の選択肢は無くなっていた。仕事を終え、地下鉄新橋駅のホームに降り立ったとき、遅い時間でホームに乗客の姿もまばらだったが、突然私の目の前を、開いた本を手にした男が横切っていった。しばらくしてその姿勢のまままた戻ってきたので少し注意して見ると、手にしている本はハードカバーの分厚い洋書で横文字が並んでいるのが見えた。
見えたというより見せるようにしていたと言った方が正確だろう。五十歳ぐらい、開襟シャツに幾分皺の寄った背広を着、うっすらと髭を生やした顔に黒縁の眼鏡をかけ、一心に読んでいるような素振りで、ゆっくりと歩いていく。ホームの縁に近いところを足もとに注意を払う様子もなく歩いて、端まで行くと身を返し、戻ってくる。ホームでは誰もその男に注目してはいないようだった。
 足音がすると思っていると、伝票入れのようなバッグを手に帽子を被った男がベンチに近づいてきて私の横に坐った。ポケットから煙草を取り出し許しを乞う様に会釈をしたので、私も会釈を返した。五十歳ぐらいの外回りの仕事の途中といったふうのその男は、ふうーっと煙を吐き出すと、「今年の梅雨はゆっくりかな」と中空を見るような目をして言った。
 つられて私も空を見上げ、それから本殿の方に目を遣った。男の独り言は会話を誘っているようにも思えたので、私は
 「どういった男なのかな。」
と聞いてみた。
 男は「えっ?」と問い返し、私の視線を辿ってから、なあんだという語調で、
 「ああ。あれはね、私より中学で二級下で、まあ可哀相と言やあ可哀相な奴なんです。」
と言って、しばらく本殿の方に目を遣っていたが、やがて私の方に横顔を向け、
 「群馬の方から仕事を探しにきて、そのままこの町内に住み着いたんだが、その男親が死ぬと女親は子供を二人置いてどっかへ逃げちゃってね。姉さんがあいつを育てたんです。頭は悪かったけど高校は一応出て、東京でいろんな仕事についたけど長続きしなくてね。浅草あたりの料理屋に勤めて、そのとき店によく来るお師匠さんについて踊りを習ったと人は言うんですがね。自己流の勝手なものだと言う人もいます。」
 「お金はとらないようですね。」
と私は聞いた。男はふっと笑って、
 「あれじゃあ金はとれないでしょう。姉さんがちゃんとしたところへ嫁に行ってるんで食う心配はないんですよ。まあ何をやってもだめだった男があれだけは続けられたんだな。」
 曲が終わり男は踊りを止めて、ゆっくりと境内を見回している。チョビ髭を生やし、痩せて小さな顔は無表情で、観客に何かを期待しているというふうには見えず、男の方で誰にも関心はないと言っているようだった。少しして次の曲が始まると男はおもむろに踊り始めた。別な歌手の曲で、私の知らない曲だった。
 私の横に坐った男は立て続けに二本吸い終わると、靴で踏み消し、私に会釈して立ち上がった。
 道へ戻って歩き出すと、少し休んだせいで足が軽くなっている。まだ俺は書割のように動きのない境内の老人たちの中には入れない、と自分に言い聞かせながら歩く。
 川越の市街に入ると、道は入り組んできたけれど、このへんまで来ると地理はまだ頭に残っている。やがて不規則な形の六叉路に出て、まっすぐ進めば「川越駅」の駅前に出るのはわかっていたが、ふとその一つ左の道に入って「川越市駅」の方へ出ようかという気になった。すると昔二年ほど住んだあたりを通ることになるが、その借家跡を見ようという気は全くなく、よく歩いた道をもう一度歩いてもいいといったほどの気持ちだ。その借家は大家が建て替えて自分たちの住まいにしたと聞いている。
 道を間違えたはずはないのだが、両側につづく家々の佇まいといい、商店の店先の気配といい、どうも見慣れない感じだ。大きな石柱の門の前に出て、表札を見ると「N株式会社」とある。N社の名前は懐かしい。しかしどうにも昔の面影ではない。高い塀があって中は見えなかったはずなのに、今は低い植え込み越しに学校の校舎のような建物が覗け、それは工場の施設のようにはとても見えない。しかしこのN社の門が昔と同じ位置のままとすれば、道を挟んで斜め前に借家へ入る私道があるはずだ。私は目を伏せ足を速めた。顔をあげると、道の左手に見覚えのある庇門が目に入った。子供が幼稚園で一緒だったYさんの家だ、と思い出す。昔は植え込みがあって門はその奥にあったはずだが、今は道に面してカーポートがつくられている。
 私は道を引き返した。N社の斜め前の私道へ入って、その二軒目。私道に沿って、門と明灰色に塗った低い塀が新たに作られている。借家のときは家の奥は私道のつきあたりまで空き地だったが、今は土地をいっぱいに使って塀と同系統の色塗りをした家が建てられている。もういいだろう、と私は思った。もし大家が住んでいるのなら、私の顔を覚えているかもしれないし、そうすれば挨拶で済ますわけにはいかず、少しは現在のことも話さなければならなくなるかもしれない。それは今の私には煩わしい。
 道へ戻ろうとしたとき、門の奥の隣家との境界際に、二階の窓に届くほど枝を張った枇杷の木に鈴なりに実がなっているのが見えた。幹の近くの葉は黒ずんで生気がないが、枝の先の方には明るい灰緑色の若々しい葉がたわわに実った果実と競い合っている。
 Yさんのカーポートの前を過ぎようとして、はっと気づいた。子供が幼稚園児のころだ。親子三人で買ってきた枇杷を食べ、その種を庭に蒔いたことがあった。そのうち一本か二本芽を出し、やがてうす緑の葉を出し、葉は成長して黒変し、また次々にうす緑の葉を出し、幹は硬くなり子供の背丈くらいになったのだ。そのときの枇杷の木の一本に違いない。
 思わず振り返ると、枇杷の木は家々の陰に隠れて見えなかったが、明るい人肌のような果実の充溢が見えてくるようだった。

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