水を飲む

 後ろの林の中からジージーという音が聞こえていた。からっとした初夏の暑さに呼応するような早蝉の鳴き声は幾分離れた木立から発せられていた。
 「蝉取っか。」と忠夫が言い出さないかなと満はかすかな期待をもって杉の木の切り株に腰を下ろしていた。と、坂を駆け上ってくる音がして、
 「来たど。来た、来た。」
 押し殺した声とともに口を大きく開いた三夫が岩と岩の隙間から駆け込んできた。
 「どいつが来たんか。」
 草や藪の刈られた地面に枝の先で何やら書いていた手を休めて、忠夫は顔をあげて言った。
 「ヤスよ。」
 「おなごか。」
 と、ちょっと不服そうな声で言いながら忠夫は首を廻して満を見た。しかし満は気がつかなかったというように動かなかった。
 「満」と忠夫は強い口調で呼んだ。
 「いいか、うまくここさつれて来るんだ。おめなら同じ組だしうまぐいぐ。」
 「おれ、やんだな。」
 忠夫と三夫は同時に満を見た。
 「やんだと。兄ちゃん。」三夫は兄と満を交互に見ながら言った。
 忠夫は口をとがらせ満をにらみつけた。
 満と同じ四年生の三夫は満の前に行って、言った。
 「んじゃ、いい。今度からもう満ちゃんとは遊ばねえ。一緒に魚取りも行がねえし、山も行がね。満ちゃん一人で行げばいいっぺ。」
 満は杉の切り株から立ち上がり、ねずみ色の半ズボンの尻を何度も撫でた。岩によじ登ると、初夏の陽にさらされた岩肌は手のひらや膝に暑かった。道に目隠しの壁の役をするその岩は、全体に丸みを帯び程よく窪みがあって満でも簡単に登れた。
 天辺から顔を出して坂の下の方を見ると、緑色に広がった田の道を色褪せたスカートをひらひらさせてヤスが歩いてくる。うすく赤みがかったくしゃくしゃの髪が歩くたびに揺れているのが見えた。
 ヤスは坂にさしかかった。満はあわてて岩を降りた。「来たど。」と二人に言って、岩かげから顔をのぞかせ待ち伏せの姿勢をとった。
 満は人の家に使いに出されたときのように心細く、このまま家に帰りたいような気持ちだった。三夫が満の背中や尻にぴたっと体をつけて重なった。すると何か元気が出てきたようだった。足音が大きくなった。
 「いまだ。」
 三夫が言った。満ははじき出されるように道にとびだした。ヤスは少し下の桑畑の脇を歩いていたが、一瞬びくっとしたように顔をあげ前方を見た。そこにいるのが満であるのを知ると、何事もなかったように進んでくる。桑畑を過ぎ、満のすぐ前まで来た。満はあわてて横をうかがった。岩かげに隠れている三夫は口を動かしてやれやれと言うように促している。満は覚悟した。
 「ヤス。」
 満は声をあげた。それは意外なほど忠夫に似た口調だった。満は元気づいた。
 ヤスは立ち止まった。しかしクマのある大きな目で上目づかいに満を見返したまま何も言わない。少し開いた唇が乾いて白くなっている。満は早口に言った。
 「おめ、いづも汚ねな。しらみ、いっぺ。取ってやっがら、ちょっと来ねが。」
 ヤスはやはり何も言わず道の端へ身を寄せて満の脇を通り過ぎようとした。満はあわてて横ずさりしヤスの前に両手を広げて立ちはだかった。するとヤスは表情を変えないまま体ごと満にぶつかってきた。
 「あっ、汚ね。」
と満は声をあげて体を後ろに引いた。その時岩かげから三夫がとび出してきた。満は勢いづいて言った。
 「こいつ、おれにぶつかってくんだ。汚ねえの。」
 三夫は後ろにまわるとヤスの両腕をつかんだ。ヤスは低い唸り声をあげながら体を揺すって振り払おうとした。その途端ヤスの手から擦り切れてしみの付いた布製のバッグが下に落ちた。
 「満、そいつ持って裏さ逃げろ。」
 満はすばやくそのバッグをつかむと岩の隙間へ逃げ込んだ。三人が隠れていたそこは道から見えなかったし、後ろは檜と杉と潅木の林になっている。
 すぐにヤスが追ってきた。ヤスはバッグを手にした満を見つけると、無言のままにらみつけた。普段から笑わない暗い目がいっそう動物めいて鋭かった。満は指示を仰ぐように忠夫の顔を伺った。
 「満。こっちさ投げろ。」
 満はバッグを忠夫に投げた。ヤスは忠夫に向かって突進した。満はヤスの足もとに目を向けた。乾いた音がして、忠夫のすぐ前でヤスの体は消えていた。あたりに小枝や草が飛び散った。
 「ヒャー。成功。」
と、三夫が声を挙げて、近寄ってきた。
 忠夫も満足そうな顔でヤスの落ちた落とし穴を覗き込んだ。

 山道を下りながら、満はうまくいって痛快なようななにか後味の悪いような気持ちだった。田んぼ道に下りたところで満は思いきって言った。
 「忠夫ちゃん。おれ、くそしたくなった。山でやってくる。」
 「くそだって。」と三夫は言ったが、忠夫はとりあわず、近所の葬式の話をつづけた。
 満は立ち止まった。二人は歩いていった。
 満は戻りはじめた。さきほどヤスを待ち伏せた岩のところまできて、満はふり返った。忠夫と三夫の後姿はもうずっと遠くなっている。
 満は岩の脇から空き地に入った。落とし穴の上はぽっかり空いていて、あたりに引っ掻いたような跡が見えるだけで人の気配はない。忠夫が言っていたように簡単に出られるなら、もうとっくにいないはずだと思いながら音を立てないように近づくと、空っぽだった。満はほっとしたような、あるいはなにかがっかりしたような気持ちだった。
 道へ出ると、もう忠夫と三夫の姿は見えず、一面の緑の稲田のずっとむこうを黒い列車が横切っていく。満は忠夫たちとは反対の方角へ走りだした。背中のランドセルの中で教科書や筆箱がガタガタ音を立てて動いた。
 山はごく低く、暗い林を抜けるともう下り坂になり、斜面には桑の段々畑がつづいていた。山裾の下には小さな田が広がり、畦にごく小さな掛け小屋がいくつも見える。このへんはもうヤスたちの通ってくる鷹の巣という土地だ。
 どうしてヤスたちがよくいじめられるのか、満にはわからなかった。ヤスたちが目立って粗末なものを着、髪も幾日も洗わないように汚れていたから、それなりの理由はあるのだと思えた。ヤスはいじめられても先生に告げ口はしなかった。
 小さな神社を抜けると、川の中にヤスがいた。ヤスが満に気づいたのも同時だった。草が背高く茂った川端にヤスの脱いだものがあった。川の向こうには緑の田が広がり、家は遠くに見えるだけで人の姿はなかった。
 学校ではまだ水浴びの許可は出ていなかったな、と満は思った。小川にしては広く、水の量も多い。そのなかでヤスは裸の上半身を見せ、満の方を見ていた。見慣れた汚いヤスとは別のもののように白い体だった。手足が泥で相当汚れていたのにそれはもう跡かたもなかった。
 何事もなかったということなのだ、と満は思った。満はほっとした。
 ヤスが顔でこっちへ来いと促したようだった。えっ、と目で問い返すと、ヤスはもう一度くり返した。満はうれしくなった。ランドセルを草の上に投げ出し、ズック靴をぽんと投げ捨てると、ジャブンと川に足を入れた。
 水は一瞬冷たかった。底がぬるぬるする。膝の上まで濡らしてくる水をぬって、何て言ってやろうかな、と考え考えヤスの前まで進んだ。突然、ヤスの両手が大きく振り上げられた。アッ、と思った瞬間、耳がボワーンとなり、水苔や青い瀬戸物の破片のようなものが目の前にあった。助けてくれ、と言おうとしてゴワッと水を飲んだ。手で水を掻いたが水の外には出られなかった。気が遠くなった。——と、急に頭の上が軽くなった。
 激しくむせた。水と涙が顔からようやく去ったとき、あたりの静寂が戻ってきた。体が軽くなったように感じられた。川に沿った道をヤスは背中を見せて歩いていた。服を着て、手にバッグを下げている。
 ヤスは一度も後ろをふり返らなかった。やがて川が大きくカーブするのに沿って見えなくなった。
 顔をくしゃくしゃにして満は泣き出した。「おれが何したっていうんだよう。おれがやったんじゃねえよう。」と満は訴えていたが、実際にはしゃくりあげる泣き声にしかならなかった。
 あたりは静かで、蝉の声や牛の鳴き声が聞こえてくる。

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