素晴らしい日曜日

 「あーっ。どうなるかと思った。」
 一ノ瀬正子は一ノ瀬正夫の腕に縋りながら、辛うじて抑えたといったふうな声を挙げた。息が荒い。
 「私、本当に初めて乗ったのよ。」
 後ろから来た若いカップルを先へやり過ごしてから、正夫は応えた。
 「俺だって最初のときはしまったと思ったよ。二度と乗るもんかって。」
 そのとき頭上に轟音が響き、高架レールをコースターが近づいてきた。二人は足を止め、それが通過するのを見送った。ちょうどコースの中程で起伏の緩やかな箇所であるためか、作動音を凌駕する程の喚声は聞こえてこなかった。
 乱れた油気のない髪を撫でていた正子は、その手を体の前に廻してコートのポケットを探ると、ゲートで係員に手渡された遊園地案内図を取り出した。正子のポケットの中の指の動きは正夫の大腿部に伝わっていた。コースターに乗るまで二人は腕を組んではいなかった。
 案内図を見ながら正子は言った。
 「スリル度40だって。これで40?」
 「そうさ。」
 正夫は正子を振り返らせ、「ほら」と顔で示した。「あの、空でくるくる輪を描いてるやつ。あれが最新式のシャトルループってやつだ。スリル度、そこに書いてあるだろ、70か。あの輪の中を何回か廻って、それからあの空に高く突き出た塔へ登って、急降下するんだ。そして逆廻りで輪を、ほらまた廻ってるだろ。俺たちのような年寄りはやめといた方がいいか。」
 「見ただけでもう結構だわ。あ、正夫。」
 正子の声で正夫の目は地上に戻された。
 「ソフトクリーム、食べようよ。」
 テーブルが並べられたテラスの通路際で中学生ぐらいの男の子が立ってソフトクリームを嘗めている。
 「俺はいいや。」と正夫は言った。
 「何言ってんのよ。遊園地に行ったらソフトクリーム食べようって言ってたじゃない。」
 正子は正夫から腕を抜くと、窓口の前に人の列ができている円形の建物の方へ、テーブルの間を抜け進んでいった。
 その建物の上で、傘の骨を大きくしたようなウェーブスインガーが遠心分離器にかけられているような回転を続けている。ポールの頭冠から垂れた棒の底に付けられた座席が近づいてきては大きく振り上がり、まるでそのまま空中に吸い込まれてしまいそうに廻っていく。座席は次から次へと続いて、乗っている人の表情が見えるようだった。
 「はい。」
 両手にソフトクリームを持って戻ってきた正子は、一つを正夫に差し出すと、また腕を絡め、クリームを嘗めながら歩き出した。
 「こんなの、昔、食べれなかったね。」
 正子は目を細め、遠くを見るような目付きをした。「私、一度貰い子に出されそうになって、十日ぐらい学園出てたことあったでしょ。あのとき初めて食べさせてもらったのよ。こんなうまいものがあるんだって思ったわ。デパートの屋上でね。私、欲しいなんて言わなかったんだけど。60円よ。5円のアイスキャンデーだって、もう最高のごちそうだったのに。」
 「何で戻ってきたんだ。」
 正夫は前を見たまま言った。
 正子は黙ったままソフトクリームを嘗め続けている。
 「何でだよ。」
 正夫はちらと横の正子を見てまた聞いた。
 「自分でもわからないわよ。正夫たちと離れ離れになりたくなかったのかもね。」
 正子の冗談めかした調子の返答を聞くと、正夫は残っていたソフトクリームをコーンごと口に押し込み、ガリガリッと音をたてて噛んだ。正子は自分のクリームを持ったまま手を廻し、空いている指で正夫の手の中の包み紙を摘んだ。
 「戻ってきたっていいことなんかなかったのに。」
 正夫は吐き捨てるように言った。正子は唇を横に引き、困ったように微笑んだ。
 「あ、正夫。」
 正子の唐突な声に正夫は正子の顔を見、その視線を辿った。
 西洋杉の木立ちの向こうで地の上をメリーゴーランドが廻っている。ストリートオルガンのような特有の音楽。回転のスピードも音楽の調子も周りとはまるでずれている。
 「乗ろうよ、乗ろうよ。」
 正子は正夫の腕を引っ張って言った。
 「俺はいい。見てるから、乗ってこいよ。」
 「一緒に乗ろうよ。」
 正子は諦めずに誘う。
 「大の大人がみっともねえ。」
 「かっこつけちゃって。いつまでもガキのくせに。」
 正子は木立ちの中に並べられたテーブルの最前列の椅子に正夫を座らせ、メリーゴーランドの乗り口へ急いだ。
 正子の到着を待っていたかのように、メリーゴーランドは廻り始めた。動き出すと同時にストリートオルガンが鳴りだし、天井や壁や台座や木馬のすべてに灯りがついた。一頭立て木馬も三頭立て木馬も、馬車も、ゴンドラも、白金の光を輝かせ、上下に揺れながら、正夫の前を廻り出した。
 二頭立て木馬に跨って正夫の前に現れた正子は、正夫に向かって手を振った。母親と女の子、若い女同士、祖母と幼い男の子、数人の男女中学生……次々と正夫の目の前を通過し、再び正子が姿を現し正夫に向かって手を振った。
 正夫は苦笑し、今度は小さく手を振って応えた。すると、正子のすぐ後ろの、舞踏会へ行くシンデレラが乗ったような馬車の窓から、兄妹のようなよく似た二人の子供が正夫に向かって手を振り出した。次も、その次も、正子と子供たちは繰り返した。
 やがて回転が緩やかになり、終了を告げる女声のアナウンスが流れ、灯りが消え音楽が止まった。
 正子は笑顔を見せながら戻ってくると、正夫の横に座った。
 「乗ればよかったのに。」
 正夫の顔を見ながら、弾んだ声で正子が言った。
 「この次な。」
 「そお。じゃ、楽しみにしとく。私は動きの激しいのより、メリーゴーランドとか、最初に乗ったオートスクーターなんかの方がいいな。」
 一つ隣のテーブルでは、正夫たちが来る前から若いカップルが抱き合ったままじっと動かないでいる。
 白木のテーブルの端に背をもたせ、正子は今は止まっているメリーゴーランドに目を向けたまま言った。
 「私、正夫は必ず私を迎えに来てくれると思ってた。」
 正夫は子供のとき同様上唇が少し反り上がっている正子の横顔を苦しげに見て、言った。
 「すまない。」
 「そうじゃないのよ。謝ってもらおうと思って言ってんじゃないのよ。」正子は正夫に顔を向けて、続けた。「謝んなくていいの。私は今日のことを感謝して言ったんだから。あのときのことだって、私も出てくるきっかけが欲しかったんだと思う。」
 正夫は顔を挙げて、回転を始めたメリーゴーランドの屋根の上の空を見上げた。中空に競い立つ塔やアーチやポールやレールのどこかしらを子供たちを載せた乗り物が登ったり、下降したり、揺れたり、回転したり、遠心運動をしたりしていて、視界は動きの絶え間がない。ひっきりなしの喚声と音楽と作動音。
 「正子……。おまえ……、どれだけ待ったんだ?」正夫は正子の方を向いて、言った。
 「いいのよ。それはもう。」
 「三時間ぐらいか?」
 「ふふ。そんなの待ったうちに入らないでしょ。」
 「まる一日か?」
 正子は顔を横に振った。
 「それ以上か?」
 正子は頷いた。
 正夫は目を落とした。
 「いいって言ってるじゃない。」
 正夫は左右の靴の縁を擦り合せながら、
 「行くつもりだったんだ、本当に。でも、なかなか言い出せなくて。五時に終わると思ってた仕事が終わんなくて。思い切って班長に言ったら、笑いやがった。バカだな、おまえ、そんな口約束覚えてて東京に出てくる女がいるか、って。」
 「……………。」
 「おまえ、約束覚えてたんだな。」
 「奥羽二十二号。正夫が乗ったのと同じ列車よ。一年後の二月二十八日。上野着八時二十三分。時刻通り着いた。……随分見たな、あの絵。中央口の、改札の上の。日本人なんだか、南方の人なんだか、馬に乗ったり、水牛に乗ったりしていて。毛糸なのかな、籠に入れて抱えた女の人が立っていたり、魚をぶら下げた人もいたな。とにかく変わった絵よ。犬とか、ひっくり返った馬とか、林檎の木もあったかな。横たわった人魚のような女の人とか……何度も見たよ。今でも傘を差した目のない人とか夢に出てくることあるもの。」
 「正子。おまえ、苦労したんだろ。」正夫は正子を見て、言った。
 「そんなのお互いさまよ。女が一人で生きなきゃならないんだもの、いろいろあったよ。私、覚悟してたから。……私、今結婚してる相手、日本人じゃないの。私の宛名見てわかったでしょ。」
 「ああ。」
 「正夫は偉くなったみたいね。検定通って、大学出たんだって?手紙に入ってた名刺の肩書き、凄いじゃない。奥さんのこと、聞いていい?」
 「とっくに離婚した。」正夫は目を落として、言った。
 「まあ。……見合いだったの?」
 「恋愛だったけど。結婚して一年もしないうち、もう……とにかく一人になりたくて。」
 「子供は?」
 「堕ろさせたんだ。もう離婚話が出ていたから。」
 正夫は椅子の正子の手の上に手を重ねた。
 「やり直したいんだ、正子。俺にはおまえしかいない。やっとわかったんだ。おまえでなきゃだめなんだ。」
 載せられた正夫の手の上にもう一方の手を重ね、正子は言った。
 「嬉しい、けどだめよ。私は結婚しているのよ。子供はいなくても。」
 「好きなのか?」
 「さあ。」
 正子は重ねた手を引き、微笑んだ。「考えてみたこともない。気がついたら結婚してたんだもの。とにかく二人で必死に生きてきたのよ。……結婚は好きでなくてもできるわよ。」
 「許していないのか、俺のこと。」
 「許しているわよ。さっき言ったでしょ、正夫は必ず私を迎えに来てくれるって思ってたって。だから三十年生きてきたんだ。」
 「迎えに来たじゃないか。」
 正子は微笑んだ。正夫の手の下からそっと手を抜くと、立ち上がって、腕時計を見た。
 「そろそろ帰ろうか。」
 言われて、正夫は立ち上がり、言った。
 「池袋まで送ってくよ。」
 正子は微笑んで、
 「だめなのよ。旦那が迎えに来てるの。正夫のことは話せるところは話してあるけど。いい人なんだけど、嫉妬深いの。」
 「そう。うらやましいや。」
 正子は顔をしかめて笑った。
ゲートロードへ出た二人の前方を先生風の初老の男に引率された小学一、二年ぐらいの子供たちが横切っていく。
 「少年老い易く、学成り難し、か。」
 通り過ぎた子供たちを見遣りながら正夫が言った。
 「正夫ったら、先生の影響あるんじゃない。ことわざ好きだったね、先生は。夢破れて山河あり。あれ、違ったっけ?」
 「夢破れて、遊園地あり、だ。」
 「うまい、うまい。」
 正子は声を挙げて笑った。「私、小さいとき先生や奥さん嫌いだったけど、段々そうでなくなった。今は感謝してる。育ててくれたんだもの。」
 コンクリートで固めた水路の底近くまで覗いている川の橋を渡ると、緩やかな坂の上にゲートが見えてきた。
 「私」と正子は言った。「東京へ出てきて、すぐ先生に手紙書いたの。先生、現金書留送ってよこした。すぐ帰って来なさい、って添えて。でも、私、出てくるとき覚悟してたから。一度も戻ってないけど、年賀状は欠かさず出してるわ。正夫も私の住所、先生に聞いて知ったんでしょ?」
 「いや。」と正夫は言った。「興信所ってあるだろ、就職する学生とか結婚する相手の身元調査をする会社。そこに頼んだんだ。さすがだな、一週間で返事くれたよ。」
 「多分先生のとこで調べたんだと思う。正夫は先生と連絡とってないのね?」
 「ああ。あれっきりさ。会いたくもない。」
 正子は足を止め、コートのポケットから手を出して、正夫の顔を真っ直ぐに見たが、また手をポケットに戻すと、歩き出した。陽が傾き、うすら寒い風が吹き始めている。
 「でも先生の言ってたことには大事なこともあったと思うの。誰も人生の初期条件は選ぶことができない、恵まれている人もいるしそうでない人もいる、でも人生そのものをどうするのかは自分だって。」
 「何が人生だ。偽善者野郎が。勝手に生みやがって、勝手に捨てやがって。クソッタレが。俺は一生懸命生きてきたよ。それが、何だ、このざまは。」
 正夫は激したように声を荒げた。前方を歩いていた母子連れの子供の方が振り返って正夫たちを不思議そうに見た。
 「おこらないで。おこらないでよ。」
 正子はポケットから手を出し、宥めるように正夫の腕を引いた。
 「おまえにおこってんじゃない。もう何におこっていいのかもわからないんだ。吐いたつばは結局最後は自分に返ってくる。それぐらいはわかってるよ。畜生。何のためにこんなにしてまで生きていなきゃあならねんだよ。」
 「そんなの、誰にもわからないわよ。」
 「やり直したいんだ。正子。」
 正子は正夫の腕に手を掛けたままじっと正夫の顔を見ていたが、黙って手を滑らせ、正夫の手を握った。そして、先ほど二人の前を横切った小学生のように繋いだ手を前後に振りながら歩き出した。
 係員が去って開いたままのゲートを抜け、さらに坂を登って駅前広場へ出ると、正夫の手を握ったまま正子は言った。
 「こんな日曜日、初めて。忘れない。」
 正夫は弱々しく微笑んだ。
 「また会ってくれる?……正夫、答えてよ。」
 正夫は頷いた。
 正子は微笑み、正夫の手を離すと、自動改札を抜け、吹き通しのホームへ歩いていった。始発電車の最後部のところまで行って、正子は振り返った。
 その仕種は正夫の記憶にあるものだった。養父母になる人に連れられた小学二年の正子がタクシーに乗ろうとして、振り返って門の前に並んだ正夫たちを見たときと同じ仕種だった。

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