渡し場 

 アーチ状の上蓋がまず目に入ってきて、大きな橋の前に出た。川に降りる石段があり、その降り口の標識で橋と川の名前を知った。
 たっぷりと水を湛えた流れと土手の間のテラスの上で、鳩が何やら啄んだり腹這いになったりしている。私が歩いて行っても、殆ど遠ざかろうともしない。
 高層ビルの並びが強い日差しを遮って陰をつくっているところではベンチや石段縁の上に人が腰掛けたり寝そべったりしている。土手壁の標識を見て、前方の流れが二手に分かれるところが佃島であること、そしてその方向が下流になることを知った。遊覧水上バスや作業船やモーターボートが度繁く行き交って川縁に大きな波を打ち寄せてくるけれども、川の流れの方向は眺めていてもわからなかったのだ。フェンスに近寄ると黒ずんだ水からかすかに濁臭が漂ってくる。
 中央大橋の下を潜り、犬を連れた若い女や夫婦づれらしい二人やらの横を抜けて歩いていくと、屋根付きのベンチがあり、その先は狭い水門になっていて、そこでテラスは終わっていた。
 私はそのベンチに腰を降ろして、永代橋の近くのコンビニエンスストアで買ったパンと緑茶の缶を取り出し、遅い昼食にした。前方に佃大橋が見え、車がひっきりなしに通行している。対岸の佃島の川縁は公園にでもなっているのだろうか、木の茂みの間から自転車や人の動いていく姿が見える。右手の水門を挟んで続いているテラスはすっぽりと建物の陰に入っていて、川縁に繋がれた船も人の姿もシルエットのように見える。
 食べ終え、フェンスに近づいてみると、川面の前方に突然動きだしたものがあって、鴎なのだった。波の動きのままに漂っていたその白いものを、つい今まで紙屑と思っていたのだ。
 突然、後頭部に衝撃が来て前につんのめった。フェンスに当たり、顔を突き出していた。眼下に波打つ黒い水がある。
 私はまわりを窺い、近くに人がいないのを確かめ、苦笑してフェンスを離れた。五十歳を過ぎる頃からこんなふうに不意によろめくことが起こるようになっていた。
 土手へ上がる石段の登り口の脇に、下流方面のテラスへの連絡路が描かれた標識がある。
 土手を降り、道に沿って水門の裏側になる南高橋という橋を渡った。渡ったすぐ左手の露地が標識に示されていたルートのようなので、そこへ入った。
 狭い路上にフォークリフトや乗用車が止めてあり、印刷機の作動するような音が聞こえてくる。軒に吊ったカラー刷の広告ばかりが新しい自動車修理店、その隣に電機部品のようなものを棚に並べた倉庫が続き、その隣に古びたコンクリートの二階建が続いている。
 しばらく行ってみて、川へ出る通路らしいものはどこにも見つからない。建物の並びの隙間からコンクリートの土手壁は覗いているのだから、方向は間違っていないはずだが、まさか痛んだ傘や自転車の投げ出されてある建物の間を通り抜けていくわけにもいかないだろう。
 そのとき洗面器を手に道に出てきた半袖の下着に前垂れを腰にまとった七十ほどの老人がいる。下水溝に洗面器の水を捨て建物に戻ろうとするところを私は近寄って尋ねてみた。
 老人はよく聞かれることといった表情で、
 「どうぞ。家の中を突っ切ってもらえばちょうど裏手が連絡口になってますがな。」
 人の家の中を通り抜けるというのは意外だったが、尋ねておいて遠慮するのもかえって変だという気がして、老人の後についてガラス戸から中へ入ってみた。
 建物の中は三和土がつき当たりの窓戸まで真っ直ぐにのびていて、その両側は馬小屋か何かのように板壁で仕切られたコンパートメントになっている。
 老人について歩き出してすぐ、ぎょっとして足が止まった。上下二段のからっぽなコンパートメントが出口まで続いていると思っていたら、人の姿のようなものが見えたのだ。
 動かない。よく見ると紺の銘仙の着物を着た女の人形である。そんなものが置いてあるだけでも意外だったが、その黒い髪、白塗の肌、そして伏目になった黒い睫毛と、まるで現身の人間を目の前にしているような生々しさなのだ。
 尋ねようとして、見ると、私の前にいるはずの老人の姿がない。
 続くコンパートメントは、入り際のものと同様がらんとしていた。突き当たりの窓戸の前に立つと、曇りガラス越しに土手の形とその上の空の広がりが見え、石段らしいものも見える。戸に手を掛け、私は後ろを振り返った。表口と裏口の二か所からの光のうす明るさの三和土に老人の姿はなく、建物に人の気配は全くないようだ。
 私は手を下ろし、ゆっくり三和土を戻り始めた。——例えここに罠のようなものが仕掛けられていたとしたところで、失うものは何も残っていないではないか。
 両膝を突き、白い足の指を床に突いた人形は立ち上がる直前か、座りかけた姿勢のように見える。手を背に廻して、何か背負っているようにも見える。先ほど気がつかなかったが膝の前にブリキの受け皿があり、残り滓のろうがこびりついている。
 私は置かれているローソクを手に取り、マッチを擦って火を点けていた。ローソクは擬宝珠のような炎を立て、人形を下から柔らかく照らし出した。
 「ご功徳下さいましたか。」
 突然声を掛けられ、驚いて横を見ると、先ほどの老人が立っていた——いや、似ているが別人のようだ。古びた上着を着て、ズボンを穿き、布靴を履いている。白毛の髭を蓄えているのも、先ほどの老人とは別人であることを示していよう。
 「これは……髪も、肌も、目も、……まるで生きているようですね。」
 老人は私の横でしばらく黙ったまま立っていたが、
 「髪は本物の人間のものを使っています。といっても死んだ人間ですが——この川に入水して身元のついにわからない仏さんは、警察の調べが済んだ後、両国の広縁寺の無縁墓地に埋めてますが、焼く前に頂いたものです。これは去年亡くなった人のものですが……。不思議なもので、ここを通る人がある日は、この人形の髪の艶が増してくるんですよ。」
 老人の声は先ほどの老人と違って張りのあるものだった。話を聞いたせいか人形の目も髪も手足の指も、いっそう生々しさを増してきたように見える。
 「裏の戸は五時に閉まります。まだ大分時間がある。何もそんなに急いで通り抜けてしまうこともないでしょう。私はこれから出掛けて、五時過ぎまで戻りませんから、生身の人間はこの家であなたお一人です。表の戸は鍵を掛けておきますし、裏から入ってくることはルール違反になっています。縁あっての上のことです。十分供養していって下さい。」
 そう言うと、老人は表戸に施錠の音を立てて、出て行ってしまった。
 私は靴を脱ぎ、梯子段を踏んで、上段に登った。
 そばで見ると一層生身に近い。とりわけ背中まで垂れた黒髪の光沢は洗いたてのようなみずみずしさなのだ。
 人形のまわりを何度かめぐった後、私は精尽きたようにローソクの炎の横に崩折れてしまった。それから何を見るというのでもなく、ぼうっとしてしまったらしい。
 ふと、何か投げだされたような音を耳にして、顔を上げると、どこから現れたのか、黒一色の猫が板壁の角にうずくまって金色の目で私の方を見ている。
 「この家の猫なのかい。それとも……」
 私は猫に向かって話し出していた。我ながらあきれたが……止まらなかった。
 昔、公園のベンチなどで休んでいると、こうやって話し掛けてくる老人がいたものだ。やむなく応じていると、いつまでも続く——。猫も、若い頃の私のように閉口したのだろう、起き上がると、勢いよく三和土に飛び降りてしまった。
 私はまたぼうっとしてしまったらしい。少し前から何かひりひりするものを感じていたが、喉の渇きであることに気がついた。梯子段を降り、水道のありかを探したが、どこにも見つからない。
 あきらめて戻ると、人形の脇の床に先ほどまでなかった黒い筋ができている。よく見ると蟻の行列なのだ。山蟻ほどではないが大分大型の黒蟻が、三和土から這い上がり、人形の後へ廻って、また三和土へ下って行く。
 食糧を運んでいるというのでもなく、特に急いでいるふうにも見えない。
 しばらく見ていると、列を離れたところで左へ進んでは右へ行き、また左へ戻るといった動きを繰り返している一匹に気がついた。行列の束縛を離れ、自由を楽しんでいるというようにはとても見えない。表情など見てわかるはずもないが、その痙攣的な動きは必死になって現状から抜け出ようとしているふうにしか見えない。
 私はその蟻をつまみあげようとした。蟻が噛むのや潰れ易いのは子供の頃の経験で知っているから注意深く指で挟もうとするが、すぐ抜けてしまって簡単にはつかまらない。やっとのことで列の縁辺に置いてやると、行進してくる仲間に弾きとばされ、うろうろしていたが、やがて列に合流して見分けられなくなった。
 しばらくして見ると、蟻の列はもうなく、床の上も、壁も、三和土にも、何の形跡も残っていなかった。
 物音がして、見ると先ほどの黒猫が床の角にさっきと同じようにうずくまって、金色の目で私を見ている。私は話しかけようとして、慌ててこらえた。
 猫が起き上がった。人形の後に廻ったかと思うと、いきなり袖口を咥え引っぱり始めたではないか。首に続く白い人形の肩が現れ、するともう一方の袖口に咥えかかる。銘仙の着物が両肩からずり落ち、後に廻した手のひじのあたりまで露わになると、小ぶりの乳房が現れた。
 気がつくと猫の姿はなく、剥ぎ取られた着物が人形の足を覆っている。
 私は仰向けに横たわった。屋根裏のむき出しの梁のいたるところに巡礼札が貼り付けてある。首をめぐらすと、人形の目と会った。
 対面しているときは伏目の長い睫毛しか見えなかったが、こうやって下から見上げると、細く黒い瞳が薄い無花果色の乳輪越しに私を見つめている。
 時間の感覚が麻痺したようなままどれだけいたのか、突然裏で戸が開けられるような音がした。起き上がった私の目の前に芝居で見る黒子のような黒装束姿の男が二人現れた。私は思わず身構えたが、男たちは私の方には目もくれず、梯子段を使わず跳び上がってきて手早く剥ぎ取られた着物を人形の体に戻すと、背負いあげ、一言も発しないまま裏口へ去って行った。表口と同様の古びたガラス戸のはずなのに、まるで地下の工事現場で重機が倒れるような音が響いて、戸が閉まった。三和土に降り、行ってみると、戸には鍵が締まっていて、動かない。腕時計を見ると、五時を指している。
 と、表の戸が開いて、老人——私をこの建物の中に案内した半袖下着と前垂れ姿の老人が入ってきた。
 「時間が来て、今日の渡しは終了しました。どうされます。お帰りになろうと、ここで明日までお待ちになろうとご自由ですが。」
 「よかったら」と私は応えた、「ここで明日まで待たせてもらいたい。おいくらですか。」
 「金はいらん。フトンと夕食を運ばせましょう。」
と言って老人がブリキ皿の上のローソクの灯を吹き消したとき、後頭部に激烈な衝撃が来た。
 それからは記憶があるようなないような——私はフェンスに手を載せ、川面を見ていた。対岸に見えるのは佃島だし、すぐ右手に水門がある。すると私は上流テラスへまた戻ってきたのだ。
 すでにあたりはうす暗く、築地方面の高層ビルの窓窓が無数の光を放っている。行きそびれた下流テラスには船も人の姿もない。佃島側のテラスではバーベキューでもやっているのか、人の動く姿と火の色が見える。
 私はテラスに沿って永代橋まで戻り、通りに出た。十分も歩けば地下鉄の茅場町駅に出るだろう。地下鉄に乗れば一時間少しで家に着く。車も人もそれぞれの目的に相応した速度で走行し歩行している。私は重い足どりで歩き出した。

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