千年坂


 私は窓の前に立って、日没前の穏やかな陽の差す公団の中庭を見下ろしている。
 三輪車や小児用自転車に乗って動き廻る子供たち、スケートボードに興じる年長の子供たち、周りに無関心にベンチにじっと腰を降ろしている五十前後の男……。
 私は振り返った。テーブルの脇に立って私の方を見ていた千穂は私と顔が合うと力なく微笑んで、
 「ごめん。私、鬱なの。だから言い過ぎた。許して。」
 「気にしないさ。」
と私は答えた。ともかく今日の発端をつくったのは私の方だった。
 たまたま私が所属する派遣会社の喫煙室で某スポーツ新聞の校正を長年やっている人と雑談したのがきっかけだった。その新聞社の資料室には内外古今のデータが大量に保存されているが、最近デジタル化が進み必要なデータが簡単にレファレンスできるようになったという話なのだ。私はふと思い付き、県体程度の優勝者なんてのもわかるものですかと尋ねてみると、わかるという返事。そこで私は昭和四十四年※※県の二百メートル女子の優勝者名を検索してもらえたらと半分は会話の綾で頼んだ。その人は承諾し、後日丁寧にもわざわざ電話で教えてくれた。それは千穂から何度も聞かされていた通り彼女自身の名前だった。
 私のこの話を聞くと、千穂は不機嫌になった。
 「あなた、私の言ってること、みんな嘘だと思ってるのね。」
 私は返事せず、黙り込んでしまった。あるとき千穂の卒業した某大学のことが話題となり私が他意なく質問をしたことがあった。すると千穂はぷいと話を打ち切って、その後大学の話を持ち出さなくなった。そんなことが二、三度あり、千穂の話は聞き流すだけで深入りするのはよくないと私自身承知していたのだから、何程か悪意のようなものが私の中にあったのだろう。
 千穂はテーブルの椅子に浅く腰掛け、暗い顔をして新聞を開いていたが、その姿勢のまま私の方を見ずぷいと言い出したのだ。
 「テレビにあなたの勤めてた経済何とか研究所の香木さんていう人出てたわ。主任研究員って肩書きでね。何だかんだ言ってもそれなりのとこだったんじゃない。まあ、あなたがテレビに出ても吃ったり黙ったりなら司会者が困っちゃうでしょうけど。」


 私は大学を卒業後まともな就職は最初から諦め、最近の言葉でいうとフリーターとして五年ほど過ごしているうち、仕事先の一つのある研究所の所長に見込まれ正職員として採用された。研究所と銘打ってはいても副都心の裏通りにある古い貸しビルの一室をオフィスとしている程度のもので、所員は私を含めて二人、あとは不定期のアルバイトを使っていた。
 次第にわかるようになったのは※※省の退職役人の受け皿として某財団法人があって、そこに天下った人間が在職時息のかかったいわば子分格の者たちに貸しビル一室程度の事務所を与え利益を分け合っていた、そういった事務所の一つでそこがあったということだった。研究所の資金の殆どはその財団法人を通して国家予算で賄われ、その分については決算時までに使い切らなければならなかった。所長が金額を予め示し、その内訳を私と香木という職員の二人が辻褄が合うように作成する。その額は年々増加していった。
 次第にわかるようになったことのもう一つは、所長に見込まれたのは私の能力ではなく私の無能力だったということだ。私はそこでの十五年間、自分が責任を負い失敗もあれば成功もあるという意味での仕事は一切していない。所長に命じられたことをその通りに遂行し、それ以上にやってはいけない。所長の命令が私たちの作成した予算内訳とどう整合性をもっているのかはわからなくてよかった。
 香木から聞いた話によると、私の前任者は才走るところがあり、所長の命令で会った官庁や大学や企業の人間と必要以上に親密になり、所長の猜疑心を刺激するところとなってクビになったのだという。香木は私に言った。「※※さんはいつもニコニコとして、不必要なことは喋らないから、所長のお気に入りですよ。」
 不良債権や株価の低迷が話題になり、いわゆるバブルの崩壊がマスコミで盛んに喧伝され出してしばらく後、突然半年分の給料を渡され、翌日から来なくてよいと言われた。私は狼狽えた。四十一才、結婚していて、子供はまだ小さい。
 朝、それまで通りに家を出、電車に乗って適当な駅で降り、歩いたり、公園や映画館で時間をつぶし、遅くなって家に帰った。一年ほどそんなことをしているうち新聞の求人欄で見つけた校正者派遣会社に応募し、採用・登録された。研究所では出版も行っていたので、そこで校正を覚えたことが役立ったわけだ。
 千穂とは出張校正に行ったある出版社で知り合った。千穂はその出版社に企画の売り込みに来ていて、会議室で待たされている間、そこで仕事をしていた私と何の拍子にか口を利き合ったのだ。二日ほど後、帰る支度をして編集部のフロントに挨拶に行った私にちょうどそこに来ていた千穂が声をかけてきて、一緒にビルを出た。地下鉄の入り口で別れようとした私に、「これ」と言って、千穂は喫茶店の無料招待券を出して見せた。
 「ここから近いんだけど、行かない?お得意さんから貰ったんだけど、一枚で二人有効なの。一人じゃ勿体ないから、よかったら。」
 それまでの私だったらたとえ強く誘われたとしても一緒に行くようなことはしなかっただろう。私は変わってきていたのだ。
 店に入って間もなく、突然、「セックスレスの夫婦が多いのよ。あなたもそうみたい。顔見ればわかる。」などと言い出し、私は呆気にとられた。「何才に見える、私?」と聞かれ、私は「三十にはなっているかな、ちょうどぐらい?」と答えた。すると千穂は上目遣いに私を見てくっくっと笑った。
 実際千穂は四十才にはとても見えなかった。服装は地味で、色彩の乏しいものを無造作に着、化粧気はなく、肌の張りや小皺をそれだけ見れば年齢を隠せないものがあったはずだが、数人の仲間と企画ものを立案しそれを売り込む仕事をしているだけに相手の目を見一生懸命に話をする姿は若々しさを感じさせた。小柄な体で、髪を無造作に真ん中から分け、一見少女のような雰囲気さえ漂わせていたのだ。
 ひたむきに話を続けていたかと思うと突然投げやりな言葉を吐き、慇懃さと無遠慮さがあっという間に切り替わる口の利き方は、千穂の言うことを丸ごと信じなくても何人もの男の気を引く要因になっただろう。知り合って千穂の公団の部屋に泊まるようになるのに一年かかったが、その間私は千穂に翻弄され尽くしたといっていい。
 最初の頃会いたいと言うとまず一週間は待たされ、二時間ぐらいなら空いてるけど……そして喫茶店などで会っても実際二時間ほどで帰ってしまうのだ。一週間が次第に短くなり、二時間が次第に長くなっても、……臆面もなく露骨な話をし出したかと思うと、「私帰る」とぷいと言い捨てて振り向きもせずレジに行ってしまう。……それとなく肩に手をやると、拒まない。そのつもりになって歩いていると、私七時に人と会う約束してるから六時までなら一緒にいられるけど……半端な時間の過ごしようもなく喫茶店に入ると、頻繁に電話に立ち、七時の約束が八時、九時になったり、ごめん、留守電に七時が六時に変更になったって入ってるから私もう帰るわ……
 十九歳のとき男と同棲、それからは取っ換え引っ換え切れ目なく、一度に三人の男とつき合ってたこともあるから関係した男は五十人を下らないね。男なんてみんな同じよ。……
 今つき合ってる男がいるのよ、十歳年下なんだけど。……昔不倫した男がね、電話よこすのよ。どういうこと。未練かしら。断るのも可哀相だから会うだけは会ってやるけど……ホテルに誘う気が知れないわね、もう完全に終わってるのにね。私が一緒に行くと思ってるのかしら……部下が何人もいて有能な人なんだけど、寂しいのね……
 差し出す旅行会社のパンフレットを受取り、パラパラ捲って、「いいね、夏の北海道は本当にいいらしい。」と私が応えると、「つき合ってる男とね、二泊三日で行くのよ。ねえ、どこがいいかしら?」……
 千穂の寝顔を見るようになって一年もすると、女は男が思っているようなものではないのかもしれない、と思うようになっていた。妻と千穂の二人の女から私は結局同じ印象を受けたのだ。そして所帯じみたところの有無の違いはあるものの、四十女の顔を曝している二人と向き合っていかなければならないところに陥った自分の姿に気づいたのだ。
 そんなことを感じだした頃、私の中に変化が現れた。それは年齢的に体力のサイクルが下降に転じたからなのか、千穂と妻に変わらないものを見て、萎えてしまったのか。


 私は吃るという弱所がある。それを隠せないまでも幾分でも和らげるためには話し出す前に一呼吸置かなければならない。大抵の人はそんな私は置き去りにして話を進めてしまうし、私も利害に関わることでなければある程度まで意思を伝達できればそれでよしとしてきた。そのため言いたいことを尽くしていないという思いを幼い頃からずっともちつづけている。その弱所を人から揶揄的に指摘されるのはつらいのだ。
 千穂はそのことを十分知っていて、しかし言い出したのだ。私の中に暗い憎悪心が湧き上がってきた。それは言葉となって外へ出ないため、内に向かい、私の中で不定形のままであったものに明確な形をつける作用をし始めた。私は私の中で形づくられていくものをじっと見守りながら、黙って窓から団地の中庭を見下ろしていたのだ。
 「酒、あるかい。」と私は顔の合った千恵に言った。
 私の言葉にほっとしたように千穂は頷き、さっとテーブルを離れてキッチンに向かった。
 「日本酒にして。冷やでいいから。ここでね。」
 私は千穂の背に向かって一気に言った。
 やがて千穂は紙パック入りの酒と盃、それに私が駅前で買ってきた刺身の盛り合わせを盆に載せて運んできて、カーペット敷の上に並べた。コピー機、テレビ、ファクシミリやワープロの載った机が窓側の壁に沿って置かれ、もう片側には本棚、洋服収納ケース、書類や雑誌の束、ビデオソフトを積んだ箱が並んでいて部屋は僅かな隙間しかない。
 千穂は私の横にぴったりと座り、はしゃいだ仕種で乾杯を急かせた。
 「これ、夕食用に買ってきてもらったんだけど、食べちゃおうね。ね、ね、日本酒なんて珍しいじゃない。どうしたのよ。」
 私は黙ったまま盃を重ね、千穂にも勧めた。酔いは廻っているのに、頭の中は冴え渡っている。私は言った。
 「君は次から次と男ができていいね。嫌味じゃなく、うらやましいや。例の十歳年下の男はどうなったんだい?」
 千穂はちらっと私を見て、
 「むこうがね、結婚しようってうるさいのよ。私もまだ子供が産める体だし。」
 「どうするんだい?」
 「私、子供の頃、親にも兄弟にもいつもけなされてたのよ。」
 千穂はあらぬ返事をした。私に合わせるように盃を重ねたから、千穂も酔いは廻っているはずだ。手にした盃を揺らしながら、
 「だから」と千穂は続けた。「私のこと認めてくれる人がいると何でもやってあげたいと思っちゃうのよね。私って男の言うこと信じちゃうのよね。だって私のこと好きだって言ってくれたらそれだけで嬉しいじゃない。まさか嘘言ってるなんて思わないもの。」


 部屋の隅の飲み散らかしたままの皿や盃を避け、ダイニングから洗面所へ出て細く水を流して顔を洗い、洗濯機の中から昨日脱いで放り込んだままの靴下をまた取り出して履いた。テーブルの椅子から服を取り、千穂の方を窺った。
 私が起き出したとき千穂は毛布の下から一瞬寝惚けた声を挙げたが、カーテン越しの朝の光の下で起き出してくる気配は見せない。
 私はカバンを手にし、室を出た。重い扉のノブに手を添えてそっと閉める。外から鍵を掛け、非常用ドアから外階段へ出た。
 日曜の早朝らしく五階建ての各棟は殆どの窓がカーテンで覆われたままだ。建物の間を抜け、人気のない集会所の脇から「公団入り口」バス停の前へ出た。バスの姿が見えないから、十分以上は待つことになる。
 駅までつづく千年坂を歩くことにした。
 歩いていくにつれ、終わったという思いが次第に涌き上がってきた。
 足が軽く早くなった。
 と、どこかで人を呼ぶような声が聞こえたような気がした。一瞬足を緩めたが、カバンを持ち替えまた足早に歩き出した。
 少しして今度は女の声が後方から聞こえてきた。千穂のような声だと思って、私は確かめるように振り返った。
 朝靄のまだ残る四、五十メートル下を自転車に乗った千穂が体を左に右に大きく揺らしながら坂を登ってくる。中学の制服を着た男の子が一人、その後方で主婦らしい女性が一人、それぞれ自転車を引き摺りながら坂を登ってくるのが目に入った。歩くにはさほどのことはないが、自転車で登るのには相当きつい坂なのだということに私は初めて気づいた。
 千穂は起きたままの油っ気のない髪を振り乱して登ってくる。
 「馬鹿。恥ずかしい真似するな。」
 私は小声で言い捨て、体を戻してまた歩き出した。
 高台まで来ると、朝陽の当たる駅舎の屋根が見え、電車がゆっくりと構内を移動している音が聞こえてくる。石段を駆け下れば改札口はすぐだ。
 振り返ると、十メートルほどのところに千穂は来ていた。自転車は左に流れ右に揺れて転倒ぎりぎりの速度になっている。
 ぐらっと千穂の体が傾いた。
 「あっ。」
 私は千穂の体を目で追っていた。
 「女子二百メートルの優勝者だろう!」私は心の中で叫んでいた。
 千穂は「駅入り口」と書かれたバス停の前まで来て自転車を止め、車体を路上に投げ出すと、「あーっ」と大きく声を挙げ、膝に手をついて背を曲げたまま肩で息をついている。
 「バ、バカだな。」私は言った。
 泣いているような、笑っているような、くしゃくしゃの顔を挙げて千穂は私を見た。

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