マルクス恐慌論への序章

 クライン『ケインズ革命』の翻訳者宮沢健一氏は「一般にマルクス恐慌論には三つの思想があるといわれている。…しかしこれら三つの理論は相互に完全に融合されておらず、また時として相互に矛盾する独立の原理として扱われてきた。」と批判している。すなわち「第一は資本構成高度化による利潤率低下の理論であり、第二は生産諸部門の不比例性の理論であり、そして第三は大衆の貧困化による消費力の限界の理論である。」、と。〔文献1〕
 氏の批判を踏まえた上で、マルクスの恐慌論をどのように解釈さらには再構成すべきかを考えてみたい。


 いかなる社会もその存続・発展の基礎は生産であり、しかも年々歳々繰り返し行われる生産=再生産こそが社会の存続・発展にとって絶対的な基礎となっている。
 単純再生産の場合でも、その期の生産物を全て消費し尽すことはできない。来期においても今期と同額の生産物を生ぜしめるための資材を確保しなければならない(補填投資)。さらに拡大再生産を行うためには補填投資以上の資材を確保していかなければならないのである(純投資)。
 かくして再生産過程は蓄積過程であり、これは人間社会が存続・発展していく限りいかなる社会にあっても存在する超体制的な問題なのである。今期において生産された総額のうち如何ほどを今期に消費し、如何ほどを消費しない(貯蓄)で蓄積(新投資)に廻し将来の消費のための資材に廻すべきかという選択――この超体制的な蓄積決定の問題が資本主義体制の下でどう行われるのか。
 蓄積決定が生産参加者全員の合意に基づいてなされることは可能である。しかし生産手段所有者と非所有者とに階級分裂された社会では、蓄積決定のイニシアチブは財産所有者に独占されることになる。資本主義社会では総生産物は資本家への利潤と労働者への賃金とに分配されしかる後に一方では利潤→投資、他方では賃金→消費という形で全く資本家の一方的な決意で蓄積が決定されるのである。このように蓄積という超体制的問題は資本主義体制の下では利潤―賃金という所得分配を前提として展開されるのである。
 蓄積とは生産物を消費と投資とに分割することであり、消費の繰り延べ―今期に消費しないで将来の消費のための資材に廻す―である。従って蓄積は結局は消費のためにあり、蓄積が結局においては消費によってその大きさを制限されるということは超体制的な事実である。
 では蓄積決定が専ら資本家のイニシアチブで行われる資本主義経済では、蓄積が結局において消費によって制限されるというこの超体制的問題はどのように処理されるのか――どのようなメカニズムで蓄積は自らを貫徹していくのか、あるいは貫徹しえないのか。
 結論を先取りして言えば資本主義経済において蓄積は恐慌というメカニズムを通じて自らを貫徹していくのであり、それは確かに資本にとって自己否定であるが、その自己否定を通してしか自らを貫徹できないところに資本主義の歴史的特殊性があるのと同時に、また恐慌を通じてではあるが結局は自らを貫徹していくものとして理解しなければならないのである。


 議論の進め方として、まず蓄積がスムーズに進行していく理論上の条件を設定することが必要であろう。その上で何故に資本主義体制の下ではそのような進行が不可能なのかを論証することに努めたい。
 ここで社会全体の生産物を(1)投資財と(2)消費財に分け、社会全体の生産部門を(1)投資財生産部門=第一部門と(2)消費財生産部門=第二部門に分けることにしよう。またそれぞれの部門の生産物を、不変資本を補填すべき価値、可変資本を補填すべき価値、および剰余価値とに分割し、それぞれc、v、sと略記する。分配のタームで言えばvは賃金、sは利潤だから、v+sは国民所得である。(不変資本は固定資本と流動資本から成るが、前者は耐久期間をもち年々の減価償却金積み立てと期間後の一挙の現物購入との非対照的関係で、蓄積進行に不安定要因をもたらす。初期資本主義のいわゆる10年周期恐慌はこの要因が大きい。)
 すると、経済社会の単純再生産の正常的進行の必要十分条件は、総生産物についての供給総額と需要総額が相等しいことだけではなく、投資財の需要供給と消費財の需要供給が等しいことから導かれる二部門間の均衡条件が満たされることである。すなわち第一部門のcはその部門内での取引(需要・供給)で、第二部門のv+mはその部門内の取引(需要・供給)によって解決され、第一部門のv+mと第二部門のcは部門間の取引で解決されることである。(ここで、供給は実物タームであり、需要は貨幣タームである。市場における貨幣支出はいわゆる有効需要であるから、表式論においては有効需要不足=実現の問題は排除されている、すなわちセーの法則が満たされていることになる。ジョーン・ロビンソン〔文献3〕や宮沢氏の批判するところだが、表式論=再生産の条件の析出であると理解すれば問題にならない。またここでは理論上の単純化のため、今期の生産が終了すると、一挙に取引が行われ、来期に備えることになっている。)
 次に拡大再生産の条件について見てみよう。
 拡大再生産の前提条件は、まず余剰生産手段が存在すること、すなわち第一部門のv+mが第二部門のcより大きいことである。
 この条件のもとで、剰余価値がすべて消費されることなく、追加資本に転化されることが必要であるが、この場合の二部門間の均衡条件は、追加不変資本をMc、追加可変資本をMv、資本家の個人消費部分をMkとすると、第一部門のV+Mv+Mkが第二部門のC+Mcに等しいことである。
 ここで生産力一定(技術進歩なし)を想定し〔註〕、そして生産力一定には一定の資本構成と一定の部門構成が伴うものと想定する。すると所与の生産力水準に照応する部門構成が維持されるためには、両部門の投下資本の増加率が等しくその結果第一部門生産量と第二部門生産量が同一比率を保持しながら増加するように新投資額が両部門に配分されなければならないことになる。このことによって追加される再生産の条件は、蓄積額の両部門の配分について所与の部門構成の条件が満たされることである。
 かくして所与の生産力水準に照応する資本構成、部門構成ならびに剰余価値率、これら相連繋する諸条件によって年々一定の蓄積率をもってする加速度的蓄積の進行が規定され、一定の生産力水準に照応する一定の「均衡蓄積率」と呼ぶべきもの〔文献2〕が設定されうる。
 部門構成の観点を明確に導入した以上の論議より総有効需要の二つの構成要因たる「投資需要」と「消費需要」が所与の生産力水準の下においてはある一定の構造連関をもつべきことを推論することができ、従って貯蓄(意図される蓄積基金の積み立て)が如何ほど大であってもそれを埋め合わせるべき「新投資」さえ与えられれば何らの実現の困難もないとするケインズ理論は一般的には成立しがたいことが明らかになろう。
 さらに又このことによって、部門間の均衡条件さえ維持されれば第一部門の蓄積率は任意の大きさをとりうる、というトゥガン流の過ちを明らかにしうるし、第一部門の自立的発展の限界も想定しうることになる。
〔註 レーニンによるいわゆる不均等発展とは技術進歩によって生産力が上昇し、資本構成の高度化、それに対応して部門構成が高度化しながら発展するケースである。この場合には、第一部門の自立的発展への傾向は、技術進歩なしの場合よりさらに強力に作用する。〕


 「資本論」第一巻第七編において生産過程の基礎視点から資本制的再生産=蓄積の本質が次のように規定される。
 すなわち資本制的蓄積過程は、資本の論理からして<蓄積のための蓄積・生産のための生産>の過程に他ならず、「価値増殖が自己目的」たるその本質=顛倒性によって、一方「消費諸関係のよって立つ狭隘な基礎」を作り出しながら、他方それを無視しての「生産の無制限的発展への傾向」をもつことが根本的に規定される。
 そしてこの傾向が第三巻第三篇における資本蓄積と利潤率変動との関係として、すなわち利潤率の傾向的低落法則として、「競争の強制法則」となって現れるべきことが明らかにされる。
 もう少し説明を加えよう。資本の論理=より大なる価値増殖によって剰余価値のうちできるだけ大なる部分が蓄積に振り向けられなければならないが――これは「競争の強制法則」によって促進される――その同じ論理が他方では労働者への賃金支払い分vを相対的に低下せしめる。こうして双方から過剰蓄積への傾向が基本的に規定される。
 こうして前に措定した均衡蓄積進行―この下においては実現の問題はない―は、資本主義経済の下においては、まさに資本そのものの論理=価値増殖を本質とする顛倒性によって<生産の無制限的拡大への傾向と労働者階級の狭隘なる消費制限との間の矛盾>が不可避となり、資本制的蓄積の本質そのものによってそこからの乖離すなわち<過剰蓄積>への内的傾向が規定されることになる。
 以上をマルクスは第三巻第三篇において「恐慌の究極の根拠」をなすものと規定しているのである。しかし注意すべきはそれはあくまでも「究極の根拠」なのであって直接の原因ではないということである。
 均衡蓄積率を越える過剰蓄積傾向がこの体制のもとでは内的必然性をもっていることを今見たのであるが、しかしそのことから機械的に恐慌の発現を導きだすことはできない。現実には、ある程度までは不均衡として顕在化することなく進行する―それだけの弾力性をもっているものと見るべきであろう。
 過剰蓄積傾向が特に第一部門の自立的発展によって促進されていくことは既に見た。この自立的発展が、持続的な雇用増大を通じて(乗数効果)消費需要を増大せしめていく限り、その過程において発展の「自立性」をある程度まで可能ならしめていく側面をもち、それは好況過程を持続せしめていくと考えられる。均衡蓄積進行を越えることによって既に実現の困難の問題が発生しているのであるが、再生産の弾力性によっていまだ顕在化してこないのである。
 それでは以上のような過剰蓄積傾向は無限に進行しうるのであろうか。もしそうであるならば、過少消費説に対してもケインズ的有効需要論に対しても批判の基盤を失うことになる。
 恐慌の直接的原因として措定される「資本の絶対的過剰生産」なるものこそ、均衡蓄積進行をはずれながらも弾力性をもって進行していく蓄積経路に絶対的な制限を与えるものである。
 「資本の絶対的過剰生産」とは過剰蓄積に伴って産業予備軍が資本制的限界を越えて吸収されて、労働の需要・供給の法則がその上で運動すべき資本制的限界を越えての賃金率高騰=労働搾取度の低落が生じ、そのことによって利潤絶対量の減少を伴う利潤率の突然かつ急激な低落が生じ、蓄積速度が急激に鈍化せざるをえなくなることを意味する。
 すでに「資本論」第一巻第七編で賃金騰貴=労働搾取度の低落には剰余価値生産としての資本制生産の本性によって越えられない限界が画されていたが、第三巻第三篇では「充用資本量の増大につれて利潤量を増加させるような搾取度」が保持されえなくなることにより、資本が資本として過剰となる――この労働搾取度の低落限界において蓄積が絶対的に限界づけられることが明らかにされる。
 実現の困難=過少消費傾向を賃金上昇で解決することは、資本制の下においてはその基盤=剰余価値生産の条件を破壊することを結果し、かくてそれには資本主義的制限が画されているのである。また一定の生産力水準には一定の部門構成を伴うものとした均衡蓄積率の措定によって、有効需要の構成要素の比率も勝手に変更しえないこと、再生産過程の弾力性によるこれを越えての消費に比しての投資の増大――第一部門の自立的発展として現れる――にも資本制的限界――賃金率の上昇に対する資本の絶対的過剰生産という形での――が画されていることが明らかになったのである。


 かくして「資本論」第三巻第三篇における、一方においては「敵対的分配関係」によって規定されるところの「労働者階級の狭隘なる消費限界」が剰余価値の「実現」を究極において制限するものとし、他方においてはそれ自体としては「消費限界」を緩和する一定限を越えての雇用増大=賃金高騰が剰余価値「生産」の基礎条件の喪失として資本蓄積の絶対的限界を画するものと論じたその二つの側面――「実現の条件」と「生産の条件」――が、実は資本制生産の内的矛盾がとる二様の対極的表現であることが理解できよう。
 この二つの関係は、前者が恐慌を生ぜしめる究極の原因であり、後者は現実に恐慌に至らしめる直接の原因であって、根本的な原因は前者に帰せられるべきである。しかし後者は恐慌の必然性論定の不可欠の要因であり、有効需要増大の資本制的限界を画するものとして把握されなければならない。
 また恐慌が生じた時にはじめて「実現」の問題が発生する――あたかもそのように見えるのであるが――という解釈が誤りであることもわかろう。恐慌すなわち暴力的形態での「均衡の回復」の過程ではじめて「実現」の問題が顕在化するのであって、そのときには「実現」の問題が成熟しているのだと見なければならない。
 以上の二側面の相互の内的連繋と二律背反において恐慌の必然性が規定される。一方の解決すなわち資本の絶対的過剰による蓄積の衰退は賃金の騰貴を停止せしめるであろうが、それは直ちに実現の問題の顕在化を意味し、他方の解決を排除する。このアンティノミー!

 以上は現行「資本論」の枠内(「資本一般」の論理段階)での論考であり、その枠外に出て「競争・信用」段階での産業循環の分析、さらには今日的財政金融政策から発生するバブル化、国際投機マネーによるカジノ資本主義化、戦争常態化など、具体的な分析が必要になることは言うまでもない。

〔参考文献〕

〔文献1〕宮沢健一『巨視経済学』至誠堂、
〔文献2〕富塚良三『恐慌論研究』未来社
〔文献3〕Joan Robinson,An Essay On Marxian Economics,2nd edition,Macmillan

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