満月の渡し船

満願

  ……聞こえてるんじゃない?……
  ……今日のところは……
  ……黒石で……黒石なら……

 夕暮れ時のようだ。ひっそり閑としている。広い通りだけど人っ気がない。
 立て看板に隠れて狭い路地がある。奥の方に、白い光を発している雪洞が見える。隙間のない植え込みに沿って歩いてみると、突き当たって潜り門がある。
 抜けて、びっくり。
 剥き出しのでこぼこの地面。ところどころ無造作にばらまかれた破砕石。雑草。まるで映画撮影所のセットの表から裏側にいきなり入り込んだ感じだ。前方に昔の学校の寄宿舎のような木造の建物がある。
 そう、黒石工場の独身従業員の寮に似ている。近づいてみる。開いているガラス戸口から覗きこむと、土間の両脇にすのこ板が敷かれ、片側に大きな下駄箱がある。前に腰高の登り段。奥へ真っ直ぐの廊下。
 下駄箱の中は履物でいっぱいだ。靴を脱いで箱の上に載せ、段を登ってすぐの詰め所の中を覗いてみる。人がいて、記帳簿を出され、住所と名前を記入する。
 「黒石におられたのは何年ころで?」
と聞かれる。つづいて、
 「今日は昭和の10年代20年代30年代40年代50年代に分け、10年代と50年代の方は少ないので一緒にしてお席を用意させていただいております。八方様の場合20年か30年のどちらかを選んでいただくことになりますが。」
 「20年の方を。」
 予期していない成り行きだが、返事はすぐ口から出た。詰め所の裏の艶光りのする懐かしい階段を昇って二階に出、あっと驚いた。人、人、人、八畳の部屋を四つぶっ通しにして、並べられた膳を前にして座っている人間は一00人はいるだろう。圧倒的に年配者が多い。
 近づいてきた男に20年代と告げると、すぐの部屋の窓際の席を指示され、もう80は過ぎたかと思われる男と私と同年代かと思われる女の間の席が空いている。二人と挨拶を交わし、座ってまわりを見渡すと、咳払いとぼそぼそした声が聞こえるだけであまり話し声がない。じろじろとは見られないが、一瞬にして思い出せる人は近くにも遠くにもいないようだ。私の向いの席が30年代であることは先ほど聞いていたので気にして見るが、一見して分かるような人はいない。隣の老人に話かけようとしたとき、マイク音が響き顔を向けると一番奥の部屋の膳の並びの最前に立った男が話をはじめた。
 花園と名乗ったその男の型どおりの挨拶につづいて、元工場長、元総務課長、元原料課長……と、花園に紹介されていずれも80前後の老人たちがスピーチを始めた。
 元幹部たちの挨拶が終わり、都合で出席できないが趣旨に賛同し会員になるという手紙やら電報やらが次々に読み上げられ、乾杯が済むと、さすがにざわざわし出した。
 「失礼ですが、勤めをされていた方で」
 私の質問に、隣の男は耳が遠いらしく、二度聞き返したあとで、22年から24年まで工務の仕事をしていた、と答えた。私の誕生前後である。
 「お年からして、ご家族の方のようですが」
と、ビール壜を私に向けながら隣の女が聞いてきた。髪を染め、紅も差しているが、顔の皺は隠せない。
 「はい。23年から34年までいました。父親も母親も亡くなりましたが。」
 「私は24年から25年まで。一緒に遊んだかもしれませんね。中の社宅にいました。」
 「幹部社宅ですね。私は外の社宅で、池の前の向って右側です。」
 「池は覚えてます。でも門の外にはあまり出なかったので。」
 「普通二年くらいで転勤していきましたね。うちの父親は原料の仕事をしてましたから、その関係なんでしょう、11年もいましたよ。ですから中の社宅も外の社宅も全部知ってます。」
 「それじゃあひときわ懐かしいでしょうね。」
 私たちの膳の前に人が回ってきて、女との話は途切れた。酒を注がれ注ぎながら、何年ころいたか、と聞き合う。ああ、すれ違いですね、でも縁です、よろしく。次々に人がまわってきて、中に私の父親のことを知っている人間もいた。が、私のことを覚えている人間はいなかった。引きを切らず回ってくる人に応対しているうち酔いがまわったようだ。
 隣にいた老人はいつの間にか消えていて、その隣の先ほど料理が貧弱だと無遠慮に言い放った赤ら顔の男の声が耳に入ってくる。
 「工場の裏の水槽の横にお稲荷さんの白木の鳥居と祠があったろ。あの後ろの雑草の茂ったあたりが子供ながらの密会の場所だった。」
 「そうそう。女ってのは…」と、受けた声が急に小さくなった。
 隣の女がビールを私に勧め、
 「よく遊んだ男の子がいたけど、思い出そうとしても名前も顔も思い出せません。」
と言って笑った。
 「五歳くらいより前になると誰かと遊んだ、どこかへ行った、という記憶だけですね。だから一層懐かしいのかもしれません。」
 私はビールを受けながら、答えた。
 赤ら顔の男たちの話はところ構わずの趣きになってきた。女は私の膳越しにその方へ目を遣って、誰にともなくの口調で、
 「子供なりの愛情の表現の場合もあるでしょうに。」

  ……今日明日は……
  ……二階の部屋……
  ……いやいや……六ヶ所で……

 マイクロバスを運転しながらの花園の話に横の席に座った私は相槌を打ちながら、後ろの座席にあの女がいるのかどうか気になっている。ざわざわとした人の声の中に女の声が混じっているようでもあり、ないようでもある。
 満潮工業がね、今度のリストラで黒石の工場を閉鎖し、土地を私に返却するというのですよ。もともと土地は私の父親のもので、今は私が相続してます。昔黒石から家をたたんで東京に出てきたんです。ついでに解体作業もまかせられました。土地は黒石市が以前から欲しがっていたので、すぐ話を決め、地元の解体屋と連絡をとっているうち、夢の中に死んだ女房が出てきましてね、工場を壊さないでくれと切々と訴えるんです。女房は六ヶ所村の出でしてね、工場で十年ほど働いていました。なに商売だと割り切って話を進めるうちに、おかしなことが次々に起きるんですよ。
 解体屋の社長がね、人のいないはずの工場に入ると、ちゃんと縛って立てかけてあった材木がばらばらっと倒れてくる。かと思うと、裏手の水槽の近くへ行くと突然蛇口から水が出て溢れ出し、社長の靴がびしょ濡れになった。まだある。満潮工業の社長の息子ってのがたまたま車でその方面に遊びに出かけ、高速を突っ走っていたら荷崩れの事故にぶつかってね、回復に相当時間がかかりそうだってので高速を降り、黒石のはずれの大原温泉に一泊することにした。そこは何度も行ったことのあるとこなのに、どういうわけか道を間違えて気がつくと工場の門の前に出た。こりゃいかんと引き返すといつの間にかまた工場の前に戻る。なんと都合六回も繰り返したそうな。ご本人曰く、まるでブラックホールにでも吸い寄せられているような心地だったとね。当人にしてみれば、そんなんとは別なホールに早いとこ時化込みたかったんでしょうにね。ちょうど満月の夜で空は明るいが、工場の中は真っ暗、物音一つしない。と、門の脇の通用門が開き、その真っ暗な工場から藍色の腰巻を着けしなびたおっぱいをぶらさげて80くらいのばあさんが出てきた。息子はげっそりして温泉へ行く気分も失せ市内の旅館の場所を尋ねると、そのばあさんは、「この建物は壊さないでくれ、壊さないでくれ」と繰り返すだけなんだ、とさ。
 と、まあそんなこんなで、女房には苦労のかけっぱなしだったし、仏の頼みを無視するわけにもいくまいと、土地を売っ払った金に足してあそこにほぼ同じ広さの土地を工面しました。そしてまあ工場の建物をすっかりそのままそこに移すことにしたんです。しかし会社からは現況資産はそっくり譲るから解体費用とチャラにしてくれと言われていて、解体運送組立ての金はこっちで工面しなけりゃならない。これが結構馬鹿にならないんです。そんなこんなしているうちまた夢に女房が出てきて、60年も操業した工場だよ、従業員、家族、出入りの業者その他どれだけの数になる? 中には工場に愛着をもっている人も何十人何百人何千人といるはず。少しくらい負担しても残したいと思う人は百人を下らないだろう。一人10万でも一千万になる。二千万くらい何とかなるんじゃないか。土地は父さんが提供しなさい。新聞に広告を出してみたら。と、まあこんなことを言うのでさ。
 「私も奥さんに乗せられた口ですね。ちょっと胡散臭いと思ったが、いや失礼、いくらかは自分の自由になる金があるから、家族には何も言わず、会員になることにしたんです。」
 「ありがたいこってす。」
 黒石インターの料金所を抜けて、高速を降りる。一面、田の広がる風景。
 「六ヶ所村ですよ。」
 「え?」
 花園は間を置かず
 「八方さんにはここで降りてもらいます。」

  ……一度帰ります。……
  ……車を……
  ……満月……よろしく。……

 いや、この風景には見覚えがある。
 一面の稲田の道を降りたところから少し戻る。記憶通り細い登り坂がある。毬の膨らんだ栗畑を過ぎて、さてこの場所だったはずなのにと思うのだが、そこに人家などなく、四、五棟ほどの牛舎があるだけ。坂を登り降りしてみて、しかしこの場所に間違いはないように思える。
 入り口近くで飼料袋を小屋の中に運んでいる作業着の若い男がいる。声を掛け聞いてみた。
 「ほかの者に聞いてくる。」
 と言って男は奥へ行き、待っていると戻ってきた。
 「その家の人はもう二十年近く前に家をたたんで東京の方に引っ越したということですよ。ただ婆さんが一人残って——千乃婆さんのことだったんですね。この坂を降りるとバス停がありますけど、そのバス停から東に百メーターほど行くと神社があります。その神社の社務所に一人で住んで、境内の掃除をしたり、村の行事を手伝ったりして今もいますよ。」
 礼を言って道を戻る。
 若者が教えてくれたとおり行く手に白木の鳥居が見えてきた。道からやや引っ込んだ鳥居の奥に扉の閉まった御堂もある。その御堂の脇にトタン屋根の簡素な平屋建てがあり、若者が社務所と言ったのはそれだろう。杉や檜や楠などの高木が立ち並び、その外にはカナムグラやイヌタデの類いが繁茂していて、境内の境目を自ずから示している。
 飛び石伝いに御堂の前へ進み、脇へ廻って社務所と見当をつけた家の戸を叩いてみた。手を掛けると、鍵は掛かっていない。声をかけながら開けてみると、土間、畳敷きの台床、突き当たりの壁が目に入ったが、人の姿はない。改めて声を挙げ、家の中を見回してみた。台床の御堂側は板壁、反対側は土間を挟みガラス窓で、流し、ガスレンジ、茶碗コップ皿の並んだ小棚が据えられ、土間にはすのこ板が敷いてある。
 もう一度声を挙げ気配を窺うと、奥の一面壁と見えていた端が開き、無地のシャツにもんぺ様のズボンを穿いた八十年配の女が出てきた。千乃に間違いない。
 しかし千乃は腰を屈めたままこちらを窺っている。小児から初老男への変貌が成人の女から老婆へのそれをはるかに凌駕するだろうぐらいは理解できる。
 名前を告げる。千乃はしばらくこっちの顔を見ていたが、突然腰が抜けたようにその場に崩れ、動かなくなった。
 「元気そうだね。」
 土間に進み、声をかける。いつの間に用意したのだったか、手に提げていた土産の入った紙バッグを台床に置いて、「これ。十人ぐらい家の人いるかと思って買った。すぐには悪くならないものだから。」
 千乃は立ち上がり、何も言わずすのこに降りると、流しの前へ行き、水道の蛇口を捻って、コップに受けた水をごくごく飲みだした。それから肩で大きく息をし、こっちを見て、
 「この社務所を壊す話があってな、それで来た人かと思ったがな。さあ、上がってえな。」
と言った。
 台床に上がる。
 千乃は私の前へ来て坐った。
 「何、正座しとると。楽にせい。まあ、よう来た。立派になって。」
 型どおりの挨拶の言葉だけど、胸に詰まって
 「おばちゃん。段々言いにくくなると困るから最初に言っとく。ほんとはおばちゃんに立派になったと言われるような人間になって会いにきたかった。気がついたらもう人生の終わりになっていた。……面目ない。」
 千乃は目を細める見覚えのある仕種をした。細く切れ長だった目は、皺が重なって、もう細いとも長いとも言えない体のものになっている。その目で千乃は小刻みに頷いている。
 やがて千乃は戸の奥から布団を運んできて、部屋の隅に積み、言った。
 「私な、これから村の寄り合いの世話しに行かなきゃならん。結構遅くなりそうだで、布団ここに置いとくから。お酒飲むなら、流しの下を開けてみ。酒もあるし、焼酎もある。漬け物ぐらいしかないけど好きなだけ飲みや。電気釜の中にな、しめじの炊き込み飯があるし、お汁もある。お汁はガスであっためてな。じゃ行ってくる。」
 千乃は下駄を履き、風呂敷包みを手に外へ出た。下駄の音が止まり、
 「おお。みごとな満月や。」

  ……聞こえているのかな。……
  ……息がねえ……
  ……昔のまま……

 酒を飲むと、飯を食べるのは億劫になって、布団を敷き横になった。そしてそのまま眠ってしまったようだ。
 誰かが流しで水を飲んでいる。目は覚めたものの、酔いが回っていて、声をかけるのも億劫。横になっている。虫の鳴く声が耳に痛いほど部屋の中まで入ってくる。
 畳に上がり、戸の奥に入っていく足音が耳元でした。着替えているのだろうか、衣類の擦れるような音が聞こえる。
 千乃なら自分の寝る布団を運んでくるのだろう。しかし、何も持たずに出てきたようだ。何かの花の香が漂ってくる。枕許に来て坐ったようだ。花の香が一段と強まった。起き上がると、目の前に、藍色の地に白い縁の腰巻を着けた、皺のない女の顔。
 窓から差し込む月の光が、天井の吊り電灯の灯りを打ち消してしまうほど、部屋の隅々まで明るい。
 女は片膝を立てると、乳房を一つ手で支え、顔に近づけてきた。私は口に含む。
 女は乳を含ませたまま話しだした。「あれは直ちゃんが小学校の一年か二年やったな。一人で、まあ、よく来たな。仰天したわ。けど、わざと冷たくしたんや。八方さんとこには私も遠慮あったがな。お乳あげて、それで終わるか思ったら、直ちゃんは毎日のようにやってくる。嬉しいような、困ったような、な。ちょうど亡くなった爺ちゃんの仕事もうまくいかんで、田舎へ移ろうかいう話が出てたし、直ちゃんには悪かったけど、何も言わんと引っ越してしまったんや。」
 女はゆっくり身体を倒してきた。張りのある乳に口と鼻を塞がれ、背筋から尾てい骨へ抜けるような戦慄が走った。
 ふふっと笑って女は布団の上に肘をついた。胸が浮き、乳の下で私は呼吸を再開する。
 「一人は年が離れとったけど、あと二人は直ちゃんに近かったもんな。直ちゃんだけというわけにはいかなかった……いろんなことあったなあ。」
 女が体を揺らすたびに乳首から口が滑り出て、胸の谷間に顔が挟まる。
 女の体の揺れが止まった。体重のある身体が倒れてくる。再び背筋から尾てい骨へ抜けるような戦慄が走る。女はそのまま体を起こそうとしない。

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