青い鳥のラプソディー

 浅草は変わることの少ない場所だといえるでしょう。あのバブル期の地上げ騒ぎも何の跡形も残さず、雷門の前には、人待ち顔の男女や、順番を待つように大提灯の下で写真を撮る人の姿が昔どおりに見られます。

 門の雷神像の下で、和服地の上着を着、山吹色の巾着を手に、やや下膨れの横顔を見せている中年の女に、折りたたんだ新聞を手にブレザーを着て革靴を履いた中年男が近づいて、
「——さん、ですね。」
と声をかけました。
 女は顔をあげました。そして男と女は同時に、あっ、と声を挙げたのです。
顔を見合わせたまま立ち往生となった二人の横を人が通り抜け、門を潜っていきます。
最初に動いたのは女でした。顔を伏せて、大提灯の下を潜り、両側に土産物店がずらりと並ぶ仲見世通りの石畳をゆっくり歩いていきます。男は黙ってその後に続きました。
平日の真昼時でも、ここはお祭りのように人の行き交う賑わいです。
豆菓子屋、小間物屋、浴衣、草履、仏具、人形焼……、と回廊式の店の先を二人して眺めるともなく眺めながら歩いていますと、
「何てことなのよ、一体。」
と言って女が肉付きのよい顎を向けます。
「本当だな。」と男は答えます。
種々のキーホールダーや羽子板、招き猫、提灯などを並べた民芸品屋、靴屋、帽子屋、カバン、ハンドバッグの袋物屋……店が続きます。
「お昼、食べた?」
女が脇の店の中を覗き込む顔つきで聞きます。
「ああ。あれ、食べたかな。」
「どっちなのよ。……別にお参りはしなくていいでしょ。六区へ行って映画でも観ようか?」
「いいよ。」
新仲見世通りへ折れると、食堂、パチンコ店、本屋、総菜屋が土産物屋と混じって、高いアーケード屋根の薄明るさのせいもあり、仲見世の色彩溢れる華やかな雰囲気とはまた違った趣になります。玩具店の店先ではカワウソの玩具が毬とじゃれ合いながらくるりくるりと回転運動を続けていますし、肉屋の前ではメンチカツ三枚などという客と店員の声がしています。

 「なんだかねえ、面白いとは言えなかったねえ、重たるいって言うか。」
 「少し前に評判になった小説を映画にしたんだよ。」
 昼を回って間もない時間帯ですから、六つあるテーブルに客は二人だけ、女将が焼酎のボトルとつまみを無表情にテーブルに置いて奥へ引っ込むと、履物を脱いだ音がして、その後は気配もありません。
 男はボトルの栓を開けグラスに注ぎます。それに女はポットのお湯を注ぎながら
 「ふうん、純文学の作家ね、だからかね。」
 「若いとき特攻隊の隊長でね、ついに出発の命令がないまま戦争が終わったんだ。そしてその南の島の島長の娘と結婚して東京へ出てきて、その家庭の惨劇なんだな。」
 「特攻隊ね、かっこよかったろうね。それが単なる気弱な薄汚い中年男か。そんな男が浮気しようがなんてことないじゃないの。気が狂うなんておかしな話さ。」
 「まあ、自然そのもののような世界から東京に出てきたことも原因にはなってるんだろう。」
 「旦那がありふれた中年男になるなんて奥さんは許せなかったわけだ。……しかし、まさかねえ、あんたが来るとはねえ。……よりによってあんたがねえ。」
女は上目遣いに男を見ます。瞼から目の端にかけてうっすらと赤みが差しています。
 「あの男、映画の話さ、奥さんに頼んでるんじゃない。それが、あなたにはもっと大事なことがあるでしょ、やるべき事があるでしょ、なんてさ。すると男も確かにそうだなんて顔してひっこんでしまう。」
 「夫婦愛とか信頼とか、なんだろ。」
 「へっ」と女はむせて、「俺はお前に満足させてもらってないんだ、と一言言ってやればどうなの。二人して愛がなんだ信仰がなんだ芸術がなんだなんて言ってるから、どうにも重ったるいのよ。」
「——ちゃんは、旦那とうまくいってると思ってたよ。」
 男が話題を変えるように言います。
「ふっ。」
女はグラスを脇へのけ、テーブルに頬杖をつきました。
「馬鹿な女だと思ってんだろ。」
 「そんなのお互い様だろ。」
「ふっ。」と言って、女は横の陶器鉢の観音竹に目を遣りながら、「あんたも柿の木会で集まったときは、長屋一番の出世頭でもてもてだったのに。固い仕事に就いたおかげでいろいろ不自由なわけだ、皮肉にも。」
男は苦笑し、黙ってグラスを口に運びます。
 「人生は変わるところに意味がある。」
 「え?」
と男が聞き返そうとすると、女は体を起こし、胸の前で手を合わせました。
「ああ、観音様。」

国際通りを渡り、裏通りを少し歩くと、「青い鳥」と蛍光板の出ている古い和風のラブホテルの前に出ました。
入ってみるとラブホテルというより下宿屋とでもいった体のもので、ギイギイ音のする階段を登ると、踊り場の壁に能面が飾られています。怒った鬼面、笑ったおかめ面、泣き顔の女の面、とぼけ顔のひょっとこ面……。「お好きなものをお取りください」と添えてあります。
「どれにする?」
 男が聞きますと、女は顔を振り、
「どんな面も替り映えしないわ。」

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