目的地まで

 主(あるじ)に促され、客はソファーに腰を下ろした。主は窓際の机から椅子を引き出し、腰を下ろして客に対座した。
 「で、何か私に要求したいということでしょうか。」
 主の声の調子は硬かった。窓からの光が逆光となって顔の表情も暗い。客は悪びれず、
「電話でもお伝えしたと思いますが、私はただ先生に確認したいことがあってお伺いしたので、それ以上の何かはまったくありません。」
 「確認……」
と繰り返して、主は客の顔を窺う。
 「私が調べてみることにしたのは、先生が紹介されていた小説を読んでみようと思ったからです。するとその同人誌は実在していないらしいということだったのです。だから、だれかの小説を批評欄を借りて先生が紹介しようとしたか、あるいは先生の自作をもとにした架空の批評なのではないのかと考えました。どちらにしても、原作があるのならそれが読めればと思って、突然ながらお電話した次第です。」
 主は、二十歳ほど年下に見える客の実直そうな物言いにやや安心した様子で
 「原作を、ね。」
と言って、しばらく考え込んでいたが、
 「まあこの期に及んで言い逃れはできないでしょう。ご推察とおり私の架空批評です。編集部に知られれば始末書ものか、担当を下ろされるかもしれませんね。しかしまあ、その程度のことは覚悟の上でやったんですけどね。打ち明けた話、同人誌評など長くやっているとうんざりすることがあって、たまに遊びたくもなるのです。私は評論家というのが肩書きですが、若い頃は小説を書いて、少しは評価もされたのです。しかしそれは最初だけで、後は鳴かず飛ばず、結局は評論とか雑文で食いつないできたというのが実際です。まあ自分でまた小説を書いたらこんなものを書いてみたいなあという趣です。原作は実在しません。しかし私の架空批評を読んで、わざわざ現物を探して読んでみようと思ったというのは、あらすじにでも何か興味をもたれたのでしょうか?」
 客は答えを考えているふうだったが、
 「いえ、先生の作であるのがわかればそれで十分です。会っていただいて、ありがとうございました。これで失礼します。」
と言って、立ち上がった。
 主は不意をつかれたように椅子から立ち上がり、手を挙げて
 「ちょっと待ちたまえ。このとおりの一人世帯だから何もできないが、近くに行きつけの飲み屋があるから、ちょっと行こう。君、飲めるだろう?」
 客は後ずさりしながら
 「いえ、これで失礼します。先生、どうぞお元気でご活躍ください。私はもうお邪魔することはありません。」
と言って、ドアに手を掛けたが、振り返り
 「先生、一つだけ。主人公はボストンバッグを一つ持って村の家を出ますね。そのバッグの中にはどんなものが入っていると想定できるでしょうか。」
 「どんなものって、君。着替えの下着とか、手拭いとか、乾パンとかだろう。その時代なら。」
 客は大きく頷いて
 「私ならそういったもの以外に、何か大事なものが紛れ込んでいた、という設定にするかもしれませんね。」
 「え?」
と言って、思わず主は前へ進んだ。
 しかし客は主に構わずドアを開け、廊下へ出た。
 主は慌てて後を追い、玄関へ急いだ。
 しかし玄関の戸はすでに締められて、人の気配はなかった。三和土に目を遣ると、客を上げるために端に寄せたはずの自分の靴が寸分違わず元の位置に置かれている。行動も機敏だが、随分と礼儀の行き届いた男だなと、主は嘆息した。

 机の上に積まれた本や雑誌の間から主は当該雑誌を引き抜くと、開いてみた。主が担当する同人誌評は三段組に組まれ、創作欄より字のポイントも下げられている。そのほぼ中程に問題の箇所がある。
 「……この○○は地方史研究なども含まれていて、小説は三編だが、中では『目的地まで』百枚が力作だ。まずあらすじを紹介しよう。主人公は五歳のとき孤児になり、当地方の山上の僧院に預けられる。僧院内には学校もあり、教師というのもすべて当該宗派の者、生徒もまた僧院に身を置く少年たちであった。主人公は十六歳のとき先輩僧にしたがって村の法事に下りていき、その家に一泊する。夜眠れぬまま部屋を出、裏庭から外へ出てみると、湧き水がつくる黒い池で一人の娘が水浴をしている。主人公は行き過ぎようとするが、目が釘付けになって、動けない。娘は月の光を浴びた池の中から、主人公に笑いかける。
 十八歳になった主人公は、僧院の長老に悩みを打ち明ける。長老は自分の若いころの悩みを話した上で、それでも自ら経験してみることがよいだろうと、下界修行という名目で僧院から送り出す。世俗着姿で村の家を訪れた主人公は作男として家に入る。娘だけが男の素性に気がついている。よく働く男を親は見込んで、やがて婿に迎入れることになる。
 家は村では裕福な農家だったが、分家が三つもあり、それへの援助も少ないものではなかった。主人公は働いても見返りがないことにだんだん不満を抱くようになる。女体の魅力をはじめて教えてくれた妻も、子供が生まれ、雑事が増えてくると翌日の仕事などを口実に夫の求めを拒むことも多くなった。
 主人公は近くの後家と親しくなり、しばらくはのめり込むが、それにもいつか倦怠を感じるようになる。
 主人公はある日ボストンバッグ一つを手に、家を出東京へ行く。そして次々と女と関係をもち、十年ほど経った頃僧院の長老の言葉を思い出すようになる、というところでこの小説は終わっている。……」

 主は椅子の上に乗って書棚の上の天袋を開いた。この家に越して来て、ばたばたと荷物を押し込んで以来のことだ。干し草の臭いがする。蜘蛛の巣のかかった経典の束を取りのけると、奥にダンボール箱が見えた。小説も書かなくなったが、経典も読まなくなったと主は自嘲しながら箱を床に下ろし、蓋を開けた。黄ばんだ原稿用紙や手紙の束の脇に、件のボストンバッグが入っている。
 開けてみると、モノクロ印刷の駅弁の包装紙が一枚とグリコのキャラメルの空箱が入っている。包装紙に黒磯駅名の印刷があり、記憶があった。しかし、それで全部だ。なんだ、何もないじゃないか。

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