蓮花幻想

 案内図のとおりごくわかりやすい道順で、峰岸湾太郎の屋敷には迷わず着いた。それは白壁の蔵が塀越しに三つも四つも目につく文字どおりのお屋敷なのさ。
 湾太郎の母という婦人が玄関口に出て、黒い框に手をついて迎えてくれた。せっかくの案内に長く返事も出さずに放っておいた失礼を詫びると、婦人は屈託なく中に招き入れてくれた。
 薄暗い仏間で、磨きのかかった唐木の仏壇の前に合掌をし、振り返ると、隅から婦人は立ち上がって、扇風機の作動を止め、こちらに目礼して廊下へ出た。板目模様の美しい漆黒の廊下、厚い板戸が閉まったいくつもの部屋、ガラス窓の外に見える手入れの行き届いた植込み——しかし、髪を短く刈り、顔に化粧気のない、白地の作務着に黒い羽織を纏った、俺の前を行く婦人の姿はまるで質素なんだよ。体格の立派だった湾太郎とは反対に小柄な体つきで、顔も似ているとは思えないが、言葉の終わりに目を細めて微笑む仕種はそっくりだったよ。
 廊下が交差するところで婦人は立ち止まり、案内顔に目礼した。婦人の肩越しに廊下の突き当たりとおぼしいものは見えないほどなんだ。
 横へ折れ、高窓から午後の光が差し込む廊下を少し行って、婦人はまた立ち止まった。婦人の前方には窓のない廊下がさらに続いている。
 脇へ折れてすぐの戸の開いた部屋の前で婦人は立ち止まり、目で合図をして、中へ入った。
 緑色の大きな葉と大振りの紅色の花の群れが目に飛び込んできた。明け放たれた障子戸の向こうが中庭になっている。この屋敷の中に入ってはじめてしかも目を奪われるような光と色彩に出会って、俺はしばし立ち尽くしていた。
 促され茶卓の前に座ると、婦人は部屋の隅の冷蔵庫からビールを取り出してきた。緑の葉に載せたうどんやてんぷら、煮物、鯉濃らしい汁ものの椀といったものが茶卓の上に並んでいる。
 婦人は卓を挟み俺にビールを注いで
 「田舎で何もありませんが、どうぞ。」
 婦人にもビールを注ごうとして、コップも箸も一人分しか置かれていないことにはじめて気づいた。
 あらためて不義理を詫び頭を下げると、婦人も頭を下げ目を細めて、
 「お詫びしなければならないのはこっちです。本当に湾太郎の生前はお世話になりました。本人の遺言でしてね、ごく身内の者だけで葬儀を済ませ、何人か友人知人の方もご通知申し上げました。ご旅行かなにかで近くにおいでのときのついででもと思っていたのですが、わざわざお越しいただいて何とお礼を申し上げてよいやら。もうこんな田舎でなにもありませんが。」
 勧められて天ぷらを口に運ぶと、煮物の具と同じ蓮根だった。
 「湾太郎君から通知をと言われ来られた人は私以外にどんな方でしょう。もしさしつかえなければ。」と俺は聞いた。
 婦人は空になったビール瓶を脇に下ろし、次の瓶の栓を抜きながら
 「ええ、構いませんとも。お一人は宮木春男さん……」
 「え?」
 懐かしい名前に俺は思わず声を挙げ、婦人の顔を見たよ。婦人は茶卓の上を拭きながら
 「ご存知の方ですか?」
 「もちろんです。そのとき私の名前は出ませんでしたか?」
 「どうでしたか」と言って婦人はビールを勧める。俺は庭に目を漂わせながら記憶を辿って、
 「湾太郎君と宮木と私はよくいっしょに旅行したり、互いの下宿先を泊まり歩いたりしました。宮木は作家志望の男でよく雑誌に投稿なんかしてましたから、私などよりも湾太郎君とは親しかったかもしれませんね。私は文学部といっても受験に失敗しての選択で、宮木や湾太郎君のように志望して入ったわけではありませんので、卒業した後は普通の企業にもぐり込んで何とか二十年ほどやってきましたが、……宮木とはよく会っていたようですか?」
 「いえ、よくというほどではないと思います。湾太郎は卒業して三年ほどで帰ってきて村役場の嘱託をやってましたから、ときおり東京で宮木さんに会って支援金をお渡ししたりしていた程度のようです。」
 「そうですか。湾太郎君が故郷に帰ることにしたとは本人から聞きましたし、東京駅に宮木と二人で見送りました。しかしその後のことは知りませんでした。私も学生時代には湾太郎君に援助を仰いだ口です。そうですか。宮木は元気でしたか?」
 婦人は目を細め、頷いた。
 俺は勧められるまま飲み食いし、やがて湾太郎の思い出話も尽きたようなので、礼を言い来る途中の温泉町へ泊まるつもりだと言って暇を告げた。すると、
 「何と。ここでは何もおもてなしは適わんと思いまして、その温泉にもう部屋の用意をさせてありますから。迎えが来るまで一、二時間ほどかかりましょう。湾太郎の供養のためにも少しお時間を拝借させてください。もっとお飲みになって…」
 婦人は冷蔵庫からワイン様のボトルとグラスを取り出してきて、
 「お口に合いますかどうか。自家製の蓮ワインです。」
 「蓮?」
 よく似ていると思いながらまさかと思っていた庭一面の花の名を告げられたようで、俺は改めて庭に目を向けたよ。
 婦人も庭に顔を向け、しばらく色白な地肌の横顔を見せていたけれど、向き直って
 「お味はどうですか?」
 「何というか、若干渋みのある独特の味ですね。」
 「どうぞ十分召し上がってください。蓮はアルカロイドの一種を含んでいるのだそうで、古来薬草としても利用されてきたそうです。今日ご用意させていただいたものもみな蓮を利用したものばかりです。さ、も少しどうぞ。」
 俺はグラスを干し、婦人の注ぐのを受けながら
 「家の庭に蓮とはめずらしいですね。」
 すると婦人は微笑みながら頷いて、こんな話をするんだ。
 「湾太郎の死亡の通知を差し上げた方の一人は湾太郎の高校時代の恩師ですの。もともとあまり人づきあいのよくない湾太郎がよほど気に入った方だったんでしょう、よく遊びに行ってました。関西の方の大学で考古学を勉強されたそうですが、国語を担当されていて、湾太郎が文学方面へ進んだのもこの先生の影響だと思います。花がお好きで、庭にはいろいろと珍しい花も植えてあったそうです。県の教育委員会の委託で近くの古墳の発掘調査をされていましたが、湾太郎も何度か手伝いに行ってましたね。
 古代蓮はご存知ですか? これは湾太郎からの受け売りですが、蓮はインドとかエジプトとかが原産で、中国を経て日本に渡来したという説と、もともと日本に自生していたという説があるんだそうです。戦後まもなく、二十五、六年ごろですか、千葉県で二千年前の地層から学者の方が蓮の種子を発見し発芽させて話題になりましたでしょう。古墳を発掘しているときその先生も偶然蓮の種らしきものを発見し、発芽に成功して、学校の池で栽培していたんですよ。それを株分けしてもらったのを、庭の池に植えて、もうこんなに殖えました。昼前ですともっといっぱい花が開いていましたのに、この時間ではもうおおかた沈んでしまいましたね。」
 婦人の話を聞いていて、湾太郎自身から蓮の話を聞いたことがあったのを俺は思い出した。でも俺が興味を示さなかったからだろう、それは一度ぐらいだったように思う。
 失礼を請い縁側へ出て、台石の上の女ものの下駄を借り、庭へ降りてみた。障子戸の閉まった三つの部屋と左右の窓の高い廊下とこちら側の棟に囲まれた庭は、人が一人通れるほどの縁を残して全部が池で、その広い池の端から端まで蓮の葉と花が占めているんだ。
 紅一色に見えた花は、近くで見ると白い地に紅の縦線を描いた趣で、花弁の先がひときわ紅く、釈迦像の台座などと同じ形を俺の胸ほどの高さの細い茎の上に載せている。それら花の一段下のあたりに、花よりも大きく、円形の葉が盾状に広がっている。細いながら硬そうな茎の下を動いているものは鯉だったよ。
 「お気をつけて。滑りますから。」
 部屋から婦人が声をかけてよこした。たしかに縁には苔が生え、下駄では滑りやすい。ワインが利いたのか少し体がふらつく。部屋に戻って、
 「ふつうの蓮とどんなふうに違うんですか?」
 俺はグラスに残っていたワインを飲み干し、聞いてみた。婦人は俺が制止するのを聞き流し、ワインをさらに注ぎながら
 「私にはわかりません。いえ、湾太郎も生物学上の違いはあるけれど、外見ではわからないと言ってましたね。ただ世話は簡単で、というよりほとんど世話いらずで、ただ花の色を美しくするためにだけ肥料をやればいいと言ってました。汚い泥の中から、あんなにも清楚な美しい花を咲かせるんですものね。朝露を集めて、葉の表面に水滴が転がっているのを見ると、ああ泥のように生きてきた私たちの身でも極楽浄土に行けるかもしれないなんて勝手ながら思ってしまうほどです。」
 婦人は湾太郎そっくりの仕種で目を細めて言うんだが、泥のようにって何だか不思議な言い方だと思ったよ。
 やがて遠くでタクシーの警笛のような音がする。婦人が立ちあがり
 「お別れする前に、もう一度お線香をいただければ。」
 閉まった板戸が両側に続く廊下はうす暗く、こころもち下へ傾斜していっているような感じだったけど、酔いがはたらいているためか足もとが不確かだったので、断言はできない。空気が幾分ひんやりと感じられた。
 やがて婦人は足を止め、目礼して、目の前の板戸を引いた。
 弱い明かりがこぼれる部屋の中へ、婦人に続いて入ると、先ほどの仏間だった。いや、違う。仏壇の中央に置かれていた湾太郎の額入り写真はなく、何と観音が立っていたんだ。両脇の雪洞、蝋燭立て、壇の上の線香立て、位牌、果物皿、花立て……全く同じだ。白百合やダリヤの花など先ほどのものとどこが違うだろう。動いていない扇風機も同じもののようだ。しかし先ほどは入って左側に仏壇があったのに、ここは右側だし、だいいち廊下との配置が違う。
 それにしても両手を胸の前で合掌し、心持ち両足を開いて立っている白木の観音像……。白いうすものを肩から垂らし、腰に海老茶の細帯を巻いて、頭に蓮の花輪を形どった冠を載せた、その顔は見紛うべくもなく俺の横にいる婦人の顔なんだよ。背たけも壇の上に載って俺とほぼ同じだから婦人と等身大ではなかっただろうか。
 「私は癌とは告げませんでしたが、自分で死期を悟ったのでしょうか、隣町のお寺に行って住職にお経を習ったりし始めました。そのうち急に私をモデルにデッサンを描き始めまして。小さい頃から絵は好きでよく描いていましたが、私をモデルにとは。そのうち道具や木などを買い始めて、観音像をつくると言うのです。役場の同僚に素人彫刻家やら人形作りがいましたから、家につれてきて教わりながらつくったものです。見ておわかりになりますかどうか、私をモデルにしたデッサンが基になっています。」
 「わかります。」と俺が答えると、
 「ま。」と言って婦人は顔を染めた。婦人は観音に目を遣ったまま
 「湾太郎は私の実の子ではないのです。湾太郎が五歳のときに後添いにきたのです。十六のとき夫がなくなり、親戚会議で私がこの家を出ることになったとき、湾太郎は私の足に抱きついて行かないでくれと泣いたんです。それで親戚とは没交渉になりました。」
 はじめて聞く話だった。しかし親子の顔立ちが似ていないのは納得がいく。婦人は私に向き直り、
 「この観音を完成させて二週間後に息を引き取りました。湾太郎の執念が篭っていると言えますか。」
 婦人は観音の前に歩み寄り、手を伸ばすと、腰帯を解き、うすものを引いた。目の前に現れたのは着衣姿からは意外なほどの豊満な体だった。合掌した腕に届くほどの胸の隆起。くびれた腰の下に張り出した尻。丸みを帯びた腹部。その下には体のあまりな量感を静めるかのように細く楚々とした陰裂まで刻まれている。
 婦人はうすものを手に脇に寄ると、胸の前で合掌して、
 「この観音の体のなかに湾太郎のあなた様への遺言が入っています。ご自身で手に取ってみてください。」
 「え?」と言って、立ったままでいる俺に、
 「人生は穴ですよ、あなた様。」
 言われてはっとしたよ。それは湾太郎が酒に酔うとよく口にした言葉なのさ。
 前に進み、観音の下腹部の陰裂が両足の間に隠れようとするところに手を持っていくと、たしかに穴が穿たれてある。半信半疑のまま指を入れてみると、すぐ滑らかな板壁のようなものに当たった。左右、上下に探ったが、壁に触れるだけで何もない。
 「湾太郎今生の置き土産です。もっと奥まで入るはずです。」
 婦人の声に導かれるように、指の先に力を込め押してみると、壁の下にぐいと引き込まれ一瞬にして手首まで隠れていた。と、すぐガラス玉のような感触のものに触れた。
 指先に摘めるほどの大きさだ。しかし摘めたと思うとすぐ指先から滑り出てしまう。狭い穴の中で俺はいつか夢中になっていたんだ。

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