人生の午後三時


 「え?」
 前方から来た車を遣り過ごそうとして、端雄は正江の後に廻り込んだので、正江の言葉が聞きとれなかった。
 再び横に並んだ端雄を見上げて、正江は言った。
 「本当によく来てくれたわ。」
 「いや。」と答えて、端雄は正江の足もとに目を落とした。——黒い婦人靴。黒いストッキング。
 「本当によく来てくれたわ。」正江は繰り返して言った。
 「うん。」
 端雄は今度は頷いて、勤め帰りの人や買い物姿の主婦たちで活気づきはじめた裏通りの駅前へ通じる前方に目を向けた。化粧石舗装の道の両側に花屋、洋菓子店、果物屋、陶器屋などが不揃いな店先を並べている。
 「そこ。その角のとこよ。」
 端雄の視線を引き戻すように正江が言った。
 「ごめんね。もっと立派なホテルにしとけばよかったんだけど。」
 「ううん。ぼくが勝手に押しかけたんだから。」
 「ま。押しかけたなんて……。」
 正江は睨むように端雄を見た。眉をひそめ、尖らせた口を横に捩るその仕種は端雄の記憶にあるものだった。
 四階建ての古びたビジネスホテルの前の石段を上がり、入り口のドアの前で正江は端雄を振り返ると、
 「お母ちゃんだって八十だもの。おめでたいくらいよ。」
と明るい声で言った。
 フロントで鍵を受け取り、一つを端雄に渡して、ソファセット一組と観葉植物の鉢が置かれてあるだけのロビーに隣接したレストランを目で示しながら、正江は言った。
 「部屋に荷物を置いたら、着替えて、食事にしましょ。おなかすいたわ。駅前まで行けば結構いろんなお店があるみたいだけど、ここでもいいでしょ。」


 「端雄さんの奥さんてどんな人?」
 レモンの汁を搾った手を紙ナプキンで拭いながら、正江は聞いた。
 「ああ。」と言ったまま言葉を続けない端雄に、笑顔で催促しながら、正江は切り分けた海老フライを口に運んだ。
 「大学出てる人って聞いたわ。端坊……あら、昔の癖で……端雄さんと同じ大学なの?」
 「いや。女だけの大学を出た人だ。」
 「そう。ね、恋愛なの?どこで知り合ったの?」
 畳みかけて聞いてくる正江の顔を端雄は苦笑しながら見た。顎の下に肉がつき、目尻には大きく皺が走っているが、二重の割に細い目は記憶どおりだった。
 「結婚したのだって、端雄さん、全然教えてくれないんだもの。小母ちゃんからうちのお母ちゃんへ年賀状が来て、それで知ったのよ。」
 端雄は苦笑した顔で頷きながら、食事を続けた。
 「覚えてる?」
 食事を終え、運ばれてきたコーヒーをスプーンで掻き回しながら、正江が言った。
 「八王子のお家に私が遊びに行ったとき……。端雄さん少しも話ししてくれないんだもの。」
 「あ」と言い、言葉を続けようとした端雄に構わず正江は続けた。
 「そして少ししたら図書館へ行くとか言っていなくなっちゃって、そのまま私が帰るまで戻ってこなかった。」
 「本当に失礼したと思っています。中学生の頃対人恐怖症というか赤面恐怖症というか、ちょっと悩んだんだ。それで……」
 「うん、うん。遠い昔のことはいいわ。ね、何年生になった、端雄さんとこの女の子?」
 「小学校の六年生だ。」
 「まあ、六年生。端雄さんの子供が六年生ね。可愛いでしょ。」
 端雄はコーヒーカツプから立ち昇る湯気に目を遣りながら、言葉を選ぶようにして話し出した。
「自分に子供ができてわかったこともあるんだ。たとえば、自分に欠けていたものが何だったのか。生まれて二、三年の間、子供に付き添っていてそれがわかってきたような気がする。それから」
 端雄ははにかむような笑いを浮かべ、
 「少しずつ子供が大きくなって、子供にとって自分より年上で自分と遊んでくれる人というのがどれほど貴重なものなのか、わかるようになった。あるいはここまで生きてこれた支えだったのかもしれない。正江ちゃんや正次ちゃんにいつか言いたいと思っていたんだ。それに小母ちゃんにだってとってもお世話になったんだもの、本当は生きているうちに会っておきたかった。」
 「世話になったのは私たちの方よ。小母ちゃんには本当によくしてもらった。でもお母ちゃんも喜んでたろうな、端雄ちゃんにお線香あげてもらって。お母ちゃん、端雄ちゃんのことは自慢だったのよ。学者の卵になったって。だから端雄ちゃん、突然大学辞めたって聞いたときはがっかりしてたわ。でもあのこは頭のいい、やさしいこだから、みんなの期待は裏切らないと言ってた。本当よ。」
 端雄は目を伏せ顔を横に振った。
 「ね、どっちに似てるの、お父さんとお母さんと。」
 端雄は目を挙げ、正江の屈託のない顔を見て、微笑んだ。
 「あるとこはむこうに似てるし、あるとこはぼくにも似てるとこがある、顔も性格もね。それより、正江ちゃん、結婚はしないのかい?」
 「ふふん。逆襲だな。でもきょうは大サービスで本当のこと話しちゃおうか。一生の秘密だぞ。私、一度同棲はしたのよ、結婚を前提に。最初に勤めた会社で、事務課の人だった。私は現場だったから。大学出た人で、十二歳年上だった。頭がよくてやさしい人だったな。でも暮らしてみるとうまくいかなかったの。私の方にも問題がいっぱいあったんだと思ってる。別れて後すぐ会社変わったの。」
 正江が話し終え、しばらく二人とも黙っているところへ、ウエイターが近づいてきて正江の名前を確かめ、フロントに電話が入っていることを伝えた。
 戻ってきた正江は椅子の背に手を置いたまま、
 「お兄ちゃんからだった。春江たち、帰ったって、車で。正次兄ちゃんも、もう一泊するって言ってたけど、帰るって。みんな、端雄ちゃんによろしくって。来てもらって本当に嬉しかったって。」
 正江はカウンターで端雄を制し、勘定を済ませた。
 係員のいないフロントの脇のエレベーターに乗り込むと、正江は「三、四」と声を出して停止ボタンの三階と四階を押し、閉まるドアの音に負けまいとするような声で言った。
 「でも、よかった。端雄ちゃん、幸せそうで。それが一番。」


 「驚いた。部屋で、一人で、お酒飲んでるなんて。端雄ちゃん、お酒好きなんだ。」
 「好きというか、飲むようになった。若い頃は飲まなかったけど。時間が欲しかったし。」
 「電話してみてよかった。遠慮する、って言われるかなと思ったけど。何と、一人でやってるとは。」
 食事のとき数組いた客も今はカウンターに並んで座った端雄と正江の二人だけだ。八つほどテーブルの並ぶフロアは、照明が絞られ、若いウエイターが一人テーブルの端に坐り、頬杖をついて音量を絞ったテレビの画面に目を遣っている。
 「あのね」と言って、端雄は横の正江を見た。「ぼく、掛尾に行ったんだよ。二十九のときだった。急に行きたくなって。……やっぱり田舎町なんだね。駅前が変わったぐらいで、町は殆どそのまま。ぼくらの住んでた十軒長屋もそのままだった。十七年もたって、行ったら、あったんだ。駅前通りのつきあたりの病院、そこを左に折れて工場。その前の池はなくなってた、コンクリートで埋められて。長屋ね、板塀はブロック塀になっていたし、正江ちゃんの家の前の無花果の木ね、あれはなくなっていた。でもあったんだ、四畳半の部屋、ガラス窓から子供部屋らしい様子が覗けた。ぼく、歩いてみた。石橋を渡って中学校まで、それから小学校も。意外なほど近いんだ、思ってたよりはるかに。町が小さく縮まったような感じ。昼前に着いて、暗くなるまで歩いたよ、町の端から端まで。横瀬川も斎川もお城山も、行った。」
 「そう。」正江は端雄の前のグラスを引き寄せて、ウイスキーとウォーターを注いで掻き混ぜ、前に置きながら、
 「私が中学終えて東京へ出てすぐよね、端雄ちゃんたち八王子の工場に転勤で引っ越したのは。うちもその後土浦に転勤になって……私は掛尾には一度も帰らなかった……そう、あの池なくなった。水干しするときがあって、よく小魚がとれたじゃない。運のいいこなんか鰻とか鯉を捕まえたのもいた。」
 「正次ちゃんにとってもらったな。ぼくは泥鰌しかとれなかったけど。考えてみると、正次ちゃんと正江ちゃんにはよく遊んでもらったんだ。」
 「端坊、端雄ちゃん、私の一つ隣で生まれたんだもの。弟みたいなものよ。私の家に来てる方が多かったくらい。」
 「うん、本当だ。」
 「小母ちゃん、元気なんでしょ。足が少し悪いって聞いたけど。」
 「膝が少しね。歩けるけど、億劫がってあまり外に出ない。」
 「いいお嫁さん、いいお孫さん、小母ちゃんも幸せね。うちのお母ちゃんにもお嫁さんのこと誉めてたみたいよ。よかったな。あとは長生きすることね、小父ちゃんの分もね。苦労したんだもん。工場が次々と閉鎖になって、転勤、転勤で。」
 正江は振り返り、ウエイターを呼んで、つまみと氷のおかわりを注文した。テーブルの上に体を投げ出してテレビを観ていたウエイターはさっと立ち上がると、注文されたものを素早く運んできて、戻っていった。
 「奥さんと、いつもどんな話するの?」
 「どんなって……話すこともないよ。」
 「そんなことないでしょ。共通の話題というか、どんなこと話すの?」
 「何も。むこうは忙しい人なんだ。子供が幼稚園に通ってた頃は父兄会の役員を引き受けて殆ど朝から晩まで家を出ていたし、小学校に入っても同様。そういう人の繋がりが拡がって、それに子供がピアノを始めればそっちの関係も重なる。バレエを始めれば、それも。月曜から日曜まで、日曜はとくに家にいるのは何時間もないんじゃないのかな。」
 「活動的な人なのね。」
 「目が外に向いてるっていうのかな。キリスト教系の大学を出て、幼稚園もその系統なんだ。日曜学校、聖書の勉強会、バザー、音楽会、外国から来ている人のための日本語学校、その他その他……。」
 「端雄ちゃんは?」
 「ぼくは教会に行ったことはない。人が行くのに反対はしないけど。」
 「家の人を誘ったりしないの?」
 「それはないね。子供と二人で動き廻ってるよ。」
 「小母ちゃん、いい嫁だって本当に思ってるようよ。いいじゃない。」
 「いい嫁で、いい母親で、いい娘で……むこうは両親とも生きてるからね。ぼく、無意識のうちに親に気に入られるような女を選んだのかもしれない。……いや、何もかもそうだったのかもしれない。おやじが死んだとき、少し時間を置いてだけど、解放感のようなもの、感じた。無言の期待のようなものを感じながら、それに沿うよう、どこかで気にしながら生きてきたような気がする。……おふくろが死んだら、もっと自由になれるかもしれない。」
 「馬鹿なこと言わないで。端雄ちゃんも小母ちゃんも、世間から見れば本当に羨ましいくらい幸せなのよ。大事にしてよ。……食事のとき、私のことちょっと話したでしょ、同棲したこと。頭がよくて、やさくて、……ただ背が低くて、顔立ちはよくなかったの。私、そんなの気にしなかったんだけど、意外と本人は気にしてたのね。私は私で学歴のこととか、引け目があったし、そんなこともあって最後は罵り合いのようなこと、何度もあった。……端雄ちゃんたち、二人ともちゃんと学問もあるんだもの、もし不満があったら話し合えばいいじゃない。」
 「何度もした。……わかった、と言うんだ。直しますからって。でも何も変わらない。」
 「ちゃんと言わないと駄目よ。遠慮したり遠回しに言ったんじゃ、女はわからないわよ。いくら頭のいい人だって。」
 「ぼくにも問題があるよ。結婚したのは大学を辞めた後にボランティア活動で知り合ってなんだけど、ぼくのことはよく理解してくれているのかと思ってた。ぼくはまだ学問に未練はあったんだ。関心の対象が変わったのと、もう少し気儘にやりたいと思ったこととか、神経的に追い詰められた状態から抜け出したいと思ったこととか……まあ、一人でもやっていけるかなという自惚れはあった。だから自分の時間がとても欲しくて、本を読んだり、とにかくあまり相手になってやらなかったんだと思う。仕事も不安定なものだったし、自分としてはそれに時間をとられたくなかったわけで、むこうがパートで仕事に出て最初の頃はむこうの収入の方が多いぐらいだった。ぼくにもっと仕事を、もっと収入を、もっと安定した生活をと要求してくるのは、考えてみれば当然すぎるくらい当然なことだったんだ。そして子供、会社勤め、マイホーム、親戚づきあい、子供の学校の役員、家のリフォーム……とむこうに要求されることになんとか応えてきた。そしてそれに応えているうち少しずつぼくは変わってきた。いや本来そうだった自分に段々近づいていったというのが本当かもしれない。とにかく普通の、ありふれた、中年男になっていったんだ。だけどそこのところがむこうにはわからない。普通の男が普通に要求することを求めようとすると、それは受け付けないんだ。
 むこうは変わらない。変わらないことが立派だと、ついこの間までぼくも思ってた。いや今だってそう思っているのかもしれない。でも変わってしまう人間もいる。……お互い同じ方向に変わっていくのなら問題ないけど、一方だけが変わるとか、悪い場合には二人が反対方向に変わっていってしまうということもあるんだろうな。」
 ウエイターがラストオーダーを聞きにきた。壁に掛かった時計は十時十分前を示していた。
 「これ、あけたら、出ましょ。」と正江は言って、促すように端雄を見た。
 「毎日毎日離婚を考えてきた。でも、もう離婚しても何も変わらないような気がする。いや、できない。おふくろがいるし、子供がいる。」
 端雄の肩を正江は後に廻した手で軽く叩いた。
 「もちろんよ。離婚は絶対だめ。」
 端雄は力なく首を垂れた。
 「若い頃あんなに自分の時間が欲しかったのに、もう時間が少し余分にできても何をするということもない。……仕事はこれまでやってきたものでどうにか間に合うし、まあ時々は新しいものも吸収しなければならないことがあるけれど、その程度。仕事の帰りに本屋に寄ることはあっても専門書のコーナーは素通りで、背表紙を見て懐かしいと思う程度、何か夢の名残りのような。こんなふうに自分がなるなんて、想像もしなかった。……電車に乗って、窓にね、途方に暮れた、うす汚い中年男の顔が映っていて、それが自分のすぐ前にいるようなずっと遠くにいるような、何か距離が確定できないような感じなんだ。」
 「私ね」と言って、正江は氷がかち合う音を立ててグラスを乾した。「端雄ちゃんに会えてよかった。うす汚い中年男でも、会社の社長さんでも、仕事にあぶれてる人でも、何でも、とにかく生きていて、元気でいてくれれば、それでいいのよ。」


 「まだ起きてるとは思わなかった。」
 正江の声の後でドアの閉まる重い音が響いた。
 正江はベッドの横まで来て立ち止まり、室内をぐるっと見回して、「コールして三回鳴ったら切ろうと思ったんだけど。」と言いながら、ベッドの上に脱ぎ捨てられたままの端雄の服を見つけて手に取り、ドア際の壁のハンガーに掛けた。
 「机の中も、部屋も、よく正江ちゃんに整理してもらったな。」
 ベッドの端に腰を降ろした正江に、備えの白地の浴衣をだらしなく着て椅子に腰掛けている端雄がとろんとした目を向けて言った。
 「ぼくは何もしなくてよかった。店へ入っても注文もお金の払いも、みんなやってもらって……。」
 「私が端雄ちゃんを駄目にしたのかもしれないか。」
 ナイトテーブルの小さい灯りと、背後の入口からの弱い光に照らされ、薄地のくすんだ色合いのブラウスを着、背筋を真っ直ぐにして端雄に対している正江が、酔いの回った端雄の目にはひどく遠くに見えた。
 どこかでドアの閉まる重い音が小さく聞こえる。
 「端坊。私ね、さっき話したことで本当でないことがあるのよ。」
正江はベッドから立ち上がり、椅子の前に立った。目蓋を挙げると、放心したような正江の顔が端雄の前にあった。
 「ううん。全部、本当じゃないのよ。」

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