目的地まで(改稿)

第一話 所沢まで

 顔を挙げると、日差しが変わっていた。目の前の線路、柵の向こうの空地、そして足元のホームに差している陽光は、つい先ほどまで生気を含んで硬質に輝いていたのとは違って、今はさらさらとして、西に傾き始めているのがわかる。
 本を閉じ、腕時計を見るとまだ三時前。あんなによく晴れて汗ばむほどだったのに、と思いながら私はベンチから立ち上がった。そしてふと、所沢まで歩いて帰ってみようかと思った。一時間ぐらいなものだろう。
 そう思うと、私はホームの階段を上り、橋上駅舎の改札を出た。
 東口へ降りてみると、噴水池と植え込み壇を中心に設えた広場には、人の姿はなく周りに店も少ない。線路の柵際にぽつんと派出所がある。私は広場を横切り、車の通る道へ出た。駅の案内図によると、この道を行けば所沢に出られるはずだ。
 拘束の少ない仕事を所沢に見つけ移り住んで二年になる。私は論文を纏めなければならなかった。しかし家や図書館では本が読めなくなっていた。電車に乗り、適当な駅で降りてそのホームのベンチで読むことを始めてから二か月になる。今日は所沢からひとつ隣の東村山駅に降りたのだった。
 ——斜面一面に濃緑の茶畑が拡がる緩やかな丘や落葉したクヌギ林の続く小道を歩きながら、町らしい佇まいはいつになっても見えてこない。歩き始めて一時間は過ぎていた。トラックやダンプカーの通行を嫌って脇道へ逸れてはまた戻るということを繰り返しているうち次第にただ足の向くままに歩きはじめていたのだった。
 下校する小学生が二人、三人と画板を手にしたりして歩いてくるのんびりした田舎道の道端に、〈散歩道 所沢観光協会〉と書かれた道標を見つけたとき、私はほっとし、〈所沢〉の二字に引かれるようにして矢印の方向へ折れた。
 しばらく畑の中の道を行くと、奥まったところに似たような洋風の新しい家が四、五軒かたまっていて、そこを通り抜けると、突然私は山裾に立っていた。
 ほうっという気持ちで私は見まわした。私の前に左右に拡がっているのは丘というよりやはり山だ。
 尾根には林が連なっているが、斜面はいたるところ切り崩され、左手の一帯は殆ど平らな台地に作り変えられてしまっている。むこうにヘルメット姿の男が四人見えるが、ブルドーザーはシャベルを土中に埋めたまま止まっている。静かだ。
 使用済みの枕木を柵にした急な坂道を登り尾根に出ると、林の中の小径に先ほどと同じ仕様の道標が立っている。登ってくるとき見え隠れしていた親子連れらしい姿は林の中に消えていて、女の子の高い声だけが間欠的に聞こえてくる。
 尾根の反対側へ、枯葉が散り積もった坂を足を踏みしめるようにして降り始めてすぐ、木の間越しに屋根のようなものが見えたと思った。すると窓が見え、若草色のペンキを塗った細長い板壁の平屋が見えてきた。学校かな、と一瞬思った。
 しかし違っていた。少し下ると、低い土手の切れ目に、〈関係者以外の人は無断で立ち入ることを禁じます 院長〉と書かれた小さな標識が立っていた。病院か、と思い、私は急ぎ足になっていた。
 似たような造りの平屋の病棟が段々となって斜面に続いている。病棟の狭い前庭の花壇には菊やその他の花が植えられ、テラスの軒下に洗濯物が干されている。どこかで人の声がしている。
 坂を降りたところに簡素な門があり、脇の大きな看板に〈H病院〉と書かれてある。
 平坦になった細い道の左手に刈り入れの済んだ田んぼが広がり、右手に続いていた丈高い生け垣が切れると、広い門の前に出た。中を覗いてみると、ここも病院である。
 広い庭の中央を花壇が奥まで続いていて、その花壇の上に左右の病棟をつなぐ通路が架かっている。きびきびした動作で行き交う看護婦の白衣姿や移動ベッド車がガラス窓を通して見える。左手の高台の上にも大きな建物があり、その後ろは山の斜面になっている。
 門柱に目を遣ると、その横の看板に〈F園〉と書かれてある。私の脇を見舞いに来たらしい二人が入っていった。
 私は歩き出した。病院正門を背に真っ直ぐに延びた道はアスファルト舗装が粗雑で、ところどころ土肌が露出している。
 何ともなく振り返ると、門の入り際からパジャマ姿の男が後ろ姿を見せて歩いているところだった。静かな足取りでその後ろ姿は遠ざかっていった。
 体を戻し、歩き出したとき、今その男の後ろ姿との距離が一足毎に広がっていくという意識が私を不意打ちした。

 その女の人は三十を少し過ぎたぐらい、痩せぎみの、話すときに金歯の覗く、地味な和服を着て幾分暗い感じのする人だった。私が入院した日、「まあ電気も点けないで」とベッドに一人で腰を下ろしていた私に声をかけ、個室の電灯を点けてくれた人である。
 その病院の表側は駅からそれほど遠くない通りに面していたが、焼却炉などがある裏手はひっそりとして、高い塀の外は城山の林につづいていた。私たちはその林を窓からしか見ることができない隔離病棟にいた。
 私が三度の検査にパスして退院できることになったとき、その人はまだだめであった。
 その日、私は病棟裏口脇の退院者だけが使う浴室で入院以来の垢を落とし、控えの部屋で母と寿司を食べた。そのとき醤油がなかったのか、足りなかったのか、※さんのとこで借りてこようと母が言った。※さんが「看護婦さんには内緒ね」と言って卓上瓶を差し出したときは、私も使わないわけにはいかなかった。
 ※さんはしばらくその部屋に一緒にいた。さてそろそろ病棟を出ようというときになって、私は「おばさん、俺遊びに来るよ。そこの塀の外から声をかけるよ。」と言った。すると「本当?」と※さんは私の顔を覗き込んだ。その表情の意外さに私は戸惑った。
 通行禁止だった本棟へ通じる重いドアを母について抜け、小児科の※※先生に挨拶して、正門玄関を出た。
 外はくすぐったいほど光が眩しかった。車廻しの花壇に菊の花がいっぱいに咲いていて、脇を通ると強く匂った。門を出、風呂敷包みを手にした母と家に向かって歩き出すと、私の足はふわっと宙に浮いているようだった。

 小川の石橋の手前に通知板が立っていて、何か書かれた紙が鋲で留められている。近づいて見ると、〈H病院教養文化講座十月予定表〉とタイプ印刷され、日の順に手品、漫談、俳句の実作教室などと並んでいる。一つを残すだけになっていた。
 石橋を渡ると舗装の行き届いた広い道になり、左へ大きく折れると緩い登り坂の両側に家や店が並び始めた。自転車に乗った子供たちや買い物袋を手にした主婦たちの姿は町の近いことを予感させた。
 ふと周りが広がったように感じ顔を挙げると、すぐ目の前が広い踏切だった。線路が六、七本ほども並んでいる。踏切のむこうの、道が二つに分かれる角に二階建てのコーヒー店が見えた。窓の内側からカーテンを引いているが、天井から吊られた橙色の灯が見え、人の動く姿もわかる。そこから何気なく目を右の方へ移したとき、ああっと思った。
 三列のコンクリートのホームが端を見せてむこうへ長く延び、その上に橋上駅舎があるのだ。そのガラス窓に日没間近の赤みを帯びきらきらとした陽光が乱反射している。
 そこが東村山駅であるのはすぐわかった。ホームの上や看板の立ち並んだ柵のむこうの東口広場に制服姿の男女高校生が二人、三人と群れ立っている。
 線路に沿ってこちら側の道を行けば西口へ出られ、その方が近そうだった。しかし私は踏切を渡り、コーヒー店の前で右へ折れた。この道が東口広場に通じていることは間違いなかった。

第二話 熊谷まで

 特別川が好きというのではなかったと思うが、いつごろからか歩いていて川にぶつかると自然に川辺に沿って歩き出しているようになった。
 今日も家を出て、足の向くままに市野川橋の前まで来て、そのまま土手に沿って歩き出していた。
 黒い水に暗い樹影が映っているのや、遠くの水面が銀色に光っているのを目にしながら歩くのは何ということもなく楽しい。護岸工事の終了したところは葦などの茂みが消え、土手の裾まで水の流れの幅が拡がっている。眺めとしては悪くないが、生態系の破壊という問題はどうなのだろうか。東松山に住み始めて二十年近くになるが、私が川歩きで発見したねこやなぎの自生はただの一本にすぎないし、白鷺の姿も段々見ることが少なくなった。
 橋の手前で土手の右側へ折れたので、市野川の下流に向かって歩いていることになる。いつもはそのまま進むのだが、今日は途中の慈雲寺橋を渡って左岸を下ってみることにした。この橋のあたりは新江川や小さな用水が流れ込むところで、長く工事をしていた。何十人という人と機械が干された川底で、ビル工事でもしているように鉄骨組みにコンクリートを流し込んでいるのを目にしたが、今はメルヘン調の水門と管理塔が完成している。
 しばらく水の流れも対岸も見えていたが、潅木に遮られ始めて途切れ途切れに見える程度になり、川原がゴルフ場になっているあたりからまったく見えなくなった。川原そのものが広がったようで、架けられた橋の向こう端が見えない。土手道は太くなったり細くなったりして、やがて荒川と合流すると思しきあたりでうねったように大きく左へカーブしている。
 草や破砕石で歩きにくかったが、しばらく行くと舗装されたサイクリング道になって歩きやすくなった。しかしその土手沿いの標識で見る番地はいつまで行っても吉見町である。市野川は東松山市と吉見町の境を流れるが、すぐ川島町に入り荒川に合流してからもしばらくは川島町のはずである。荒川の標識になってから吉見町とはたとえ対岸を歩いているにしてもおかしい。
 もしかして上流に向かっているのでは……。それならばずっと吉見町でおかしくない。まさかと思いながら、地図の描かれた標識の前まで来て、納得せざるをえなかった。まさに私は荒川を上流へ歩いてきたのである。唖然としたが、しかし地理関係を考えれば、市野川の左岸を下って荒川に合流したらそれより先は川を渡らない限り下流に行けないことは自明なのだ。
 このまま前進すれば熊谷に向かうことになる。熊谷は私が高校を卒業するまで暮らした町だが、その後一度も行っていない。行くか戻るか、決断できないまま足が動いていた。土手の外側のすぐ下を用水が流れ、民家や田畑、電柱、木立、道が遠くの低い山並みまでつづいている。作業場や溜め池などもある。土手の内側は広い川原で、丈高く芦の茂みが広がっているところもあり、あるいは道があり電柱が立ち畑が広がって川原とは思えないようなところもある。
 額に手をやると汗がすごい。足を止めて、あらためて空を見上げると、白い雲がわずかに浮かんでいるだけの一面の青空で、ぎらぎら初夏の陽が輝いている。帽子をかぶる習慣はもともとないが、これまで日差しにやられたなんてことはない。しかし年齢と、このところの体調を考え、大事をとって休憩することにした。
 土手の下に一叢の木立が見える。トウモロコシや刈り込まれた桑の畑の脇を伝って木立の下まで行くと、半枯れの細い枝がそこここに散らばり、何に使うのか墓石ぐらいの形と大きさをした荒削りの石がいくつも捨てるように置かれている。私はそのひとつに腰をおろした。
 五、六本の木立は樫の木だろうか、よく茂った枝葉が日差しをさえぎってくれる。手にしていたコンビニの袋に気がつき、中を探った。途中で昼食をとったときまだひんやりしていたペットボトルは熱いぐらいで、飲み残しのなまぬるいお茶は三口ほどでなくなったが、ほっとため息が出た。どこかでブオーッ、ブオーッとウシガエルの鳴き声がする。
 ——私が好んで川を歩くようになった最初は、隅田川だろうか。まだ五十代のはじめだった。川の流れは鈍くて、どちらからどちらへ流れているか地理的に理解できても目では確かめにくかった。
 隅田川が荒川の下流と知って不思議な縁を感じた。中学校は荒川の土手の下にあったし、二十代半ば、秩父の下宿先から少し歩くと荒川の川原に出た。三十代後半は川越にいて、何度かは町のはずれを流れる新河岸川の川縁を歩いたが、狭い川原にアヒルや鶏などが見られた新河岸川が、荒川本流とは合流しないまま最後は隅田川に流れ込むことなどずっと後に知ったことである。
 夜の隅田川。灯りのついた永代橋を右手に見る越中島の川岸で、満ち潮で逆流する黒い水が海の波のように音をたてて階段状になった岸に激しく打ち寄せ、テラスの上に白い泡を広げる様を長い時間見ていたとき、先のことは何も考えられなかった。
 土手の上に戻ったとき私は一つの決断をしていたようだ。
 長くつづいていた川原のゴルフ場が尽きると、荒川大芦橋という標識があり、たしかに川原には芦の茂みが目立つ。橋を越えると、土手のすぐ下を小さな川が流れていて、土手はだんだん狭く貧弱になってくる。やがて右手にドーム状の冠を戴いた三本のコンクリートの柱が見えてきた。どこかアラビア風の趣だが、水門だった。水の流れの規模には不釣合いに大きく、三本の管理塔の間は広く分厚い壁で塞がれていて、近寄ってみると、冠は正確には多面体で、玉作水門、と表示がある。
 そこの標識に和田吉野川とあり、私は面食らった。川の対岸の向こうには民家や田が見られ、たしかに川原とは言えそうもない。私はいつのまにか本流からはずれた方へ来てしまったようだ。とすればこの土手を上っていっても荒川には出ないことになる。
 私は水門の少し上流の橋を渡り、荒川本流と見定めた方角へ歩き出した。三、四十分も歩いた頃、大きな橋が見えてきた。袂まで来て、久下橋と知る。久下はもう熊谷である。橋はまだ新しい。そう言えば少し前、新聞に橋の完成の記事が載っていた。
 ——久下には、中学のとき来たことがある。戦後まもない昭和22年台風で荒川の堤防が決壊し大洪水になった、そのことを記念して立てられた石碑を見に来たのだ。そのとき引率の教師が、江戸期にこの久下において改修工事がなされ、もと利根川に合流していた荒川は入間川に合流することになった、と説明したのを覚えている。しかしそのとき、昭和20年夏最後の空襲で生き地獄の様相を呈した星川が、星渓園から流れ出て熊谷の町を流れ、最後は利根川に入ると言ったのだったか、荒川に入ると言ったのだったか、思い出せない。私は新しい橋を渡らず、こちら側の土手をさらに上流に向かって歩き出した。
 野アザミや野ゲシの花のまわりに付かず離れず、紋白蝶の群れが羽を動かしている。黄蝶の姿も少し見える。
 私は足を止めた。足が疲れたというより、首や手や背中といった上半身を含めて全身が疲れた感じで、胸も苦しい。歩き出してから六時間は経っている。
 土手のすぐ下に数本の木がわずかな日陰をつくっているのに目を留め、あかつめ草や葛の葉を踏んで斜面を降りみると、褐色の実の残骸に混じってへた付きの青い実がぱらぱらと下に落ちていて柿の木と知れた。木立の前は刈り取られた後の麦畑で、麦藁が一面に撒かれている。土が湿っているので、近くの藁を掻き集め下に敷いて、柿の木に背をもたせ腰をおろした。尻の下の藁は柔らかく、背に当たる木の幹も硬い感じがなくて、疲れた体を支えてもらっている感触だ。畑のむこうは芦の茂みで、その一画が墓地になっている。狭いところにひどく墓石が立てこんでいる。
 さてと立ちあがって歩こうとしたが、不安があり、また同じところに腰をおろした。
 畑や芦原や空の遠近がぼんやりしてきた。
 突然、頭のすぐ上で蝉が鳴き出した。
 ——赤城神社の蝉の声はすごかった。……星渓園にも蝉がいたなあ。暑いのに懸命に鳴いていたなあ。……利根川だったか、荒川だったか。……どこへ流れるんだ。

第三話 川越まで

 帰り際になって、妻が用事とも言えない用事を何やかにや言い出したので、ナースステイションに面会許可証を返し、病院正門前の市内循環バス乗り場に着いたときは10分近く過ぎていた。時刻表にかなり正確に運行しているバスで、五分遅れることもまずない。何よりそこに一人もバスを待つ者の姿がないことが如実に事態を明示していた。
 一旦病室へ戻ろうかとも思ったが、歩いて川越駅に出ようと思い直した。以前16号国道を歩いたことがあるが、今日は循環バスの通る裏道を行ってみることにした。国道の五分の一ほどの道幅で、「入間川街道」という道端の標識になるほどと思えるような昔ながらの姿を曝している道だ。バス停を二つ過ぎ、さらに行くと三叉路に出た。そこはバスが左手から出てくるところだが、曲がらずまっすぐに歩いて行ってみると今度はバスが左手へ折れていくところに出て、さらには右手から出てくるところも通り、結局バスはこの道を出たり入ったりして運行していることがわかった。
 これは、と目をとめたのは道を横切っているレールである。コンクリート舗装の道の表面をくり抜いて埋めてあるから車の通行には支障がなく、バスに乗っているときは気がつかなかったのだ。見回すと、道の両端に柵がつけられ、どちらの柵の向こうも砂利を盛った上に枕木が敷かれその上にレールが延びている。レールの両側は軌道三つ並べたくらいの敷地が木の柵で仕切られている。そのレールは使っていないのが歴然で、発砲スチロールやらプランタやら素焼きの鉢やら蜜柑箱やらが積まれ、背の高い立ち葵が鮮紅色、うす紅、白といった色の花をつけて群生していて、レールがどこまで続いているのかは見通せない。バスの窓から立ち葵の群れは目にしていたが、そこに線路があるとは今まで気がつかなかった。敷地の柵際には紫陽花と山吹が色鮮やかに乱れ咲いている。
 昔はここに踏み切りがあったのかもしれない、と思いながら二本のレールを跨いだ。
 広くなったり狭くなったり曲がったりと、まるで幾何学に反発したようなあまり行儀良いとは言えない道に沿って歩いていると、どこからか時代が逆廻りしたような音楽が聞こえてくる。安スピーカーで垂れ流したような甲高い伴奏が耳についていたが、やがて男の歌手のしゃがれ声が聞こえてきて、昔流行った流行歌だと分かった。女房に逃げられた不甲斐なさを忍んで男が子守唄を歌うという歌詞で、その歌はよく覚えている。
 道端の太い桜の木のごつごつした幹に隠れるように人造石の鳥居があり、歌はその奥から流れてきているらしい。木の枝が張り出していて奥は見えない。私はちょっと確かめてみたくなった。鳥居を潜り、飛び石伝いに進んでいくと、急に視界が展け、広い庭に出た。前方に本殿があり、その昇り段の上で踊りを踊っている男がいる。段の端にラジオカセットが置かれている。
 場所も場所、踊りも踊りだが、なにより男のその出で立ちが意表をついている。三度笠、合羽、脇差、足袋、草履ときている。段の脇にダンボール箱を荷台に載せた自転車が停めてあるから、それに道具類を入れて運んできたのだろう。
 幼い子供が一人段の斜め前で見上げているだけで、庭でボール蹴りに興じている子供達も、境内を囲むように据えられたベンチに座り動くこともなく時間をつぶしているような老人達も全く関心を示さない。近くに人のいないベンチがあるので私はそこに腰をおろした。
 男の踊りはともかく、その曲は妙に身に沁みた。見るともなく目に入ってくる老人たちの姿も他人事のようではない。病室でのことなども思い出されぼんやりしていると、ふと思い出したことがある。東松山に住み始めた頃だ。仕事を終え、地下鉄新橋駅のホームに降り立ったとき、遅い時間でホームに乗客の姿もまばらだったが、突然私の目の前を、開いた本を手にして男が横切っていった。しばらくしてその姿勢のまままた戻ってきたので少し注意して見ると、手にしている本はハードカバーの分厚い洋書で横文字が並んでいるのが見えた。
見えたというより見せるようにしていたと言った方が正確だろう。五十歳ぐらい、開襟シャツに幾分皺の寄った背広を着、うっすらと髭を生やした顔に黒縁の眼鏡をかけ、一心に読んでいるような素振りで、ゆっくりと歩いていく。ホームの縁に近いところを足もとに注意を払う様子もなく歩いて、端まで行くと身を返し、戻ってくる。ホームでは誰もその男に注目してはいないようだった。
 足音がして、伝票入れのようなバッグを手に帽子を被った男が私の横に坐った。ポケットから煙草を取り出し許しを乞う様に会釈をしたので、私もうなずいた。五十歳ぐらいの外回りの仕事の途中といったふうのその男は、ふうーっと煙を吐き出すと、「今年の梅雨はゆっくりかな」と中空を見るような目をして言った。
 つられて私も空を見上げ、それから本殿の方に目を遣った。男の独り言は会話を誘っているようにも思えたので、私は
 「どういった男なのかな。」
と聞いてみた。
 男は「えっ?」と問い返し、私の視線を辿ってから、なあんだという語調で、
 「ああ、あれね。私より中学の二級下で、まあ可哀相と言やあ可哀相な奴なんです。」
と言って、しばらく本殿の方に目を遣っていたが、やがて私の方に少し顔を向け、
 「群馬の方から仕事を探しにきて、そのままこの町内に住み着いたんだが、その男親が死ぬと女親は子供を二人置いてどっかへ逃げちゃってね。姉さんがあいつを育てたんです。頭は悪かったけど高校は一応出て、東京でいろんな仕事についたけど長続きしなくてね。浅草あたりの料理屋に勤めて、そのとき店によく来るお師匠さんについて踊りを習ったと人は言うんですがね。自己流の勝手なものだと言う人もいます。」
 「お金はとらないようですね。」
と私が言うと、男はふっと笑って、
 「あれじゃあ金はとれないでしょう。姉さんがちゃんとしたところへ嫁に行ってるんで食う心配はないんですよ。まあ何をやってもだめだった男があれだけは続けられたんだな。」
 曲が終わり男は踊りを止めて、ゆっくりと境内を見回している。チョビ髭を生やし、痩せて小さな顔は無表情で、観客に何かを期待しているというふうには見えず、むしろ誰にも関心はないと言っているようだった。少しして次の曲が始まると男はおもむろに踊り始めた。別な歌手の曲で、私の知らない曲だった。
 私の横に坐った男は立て続けに二本吸い終わると、靴で踏み消し、私に会釈して立ち上がった。
 道へ戻って歩き出すと、少し休んだせいで足が軽くなっている。まだ俺は書割のように動きのない境内の老人たちの中には入れない、と自分に言い聞かせながら歩く。
 市街に入ると、道は入り組んできたけれど、もうこのへんの大体の地理は頭に残っている。やがて見覚えのある不規則な形の六叉路に出た。まっすぐ進めば「川越駅」の西口駅前に出る。
 その一つ左の道に入れば昔二年ほど住んだ家のあたりを通って「川越市駅」へ出る。その方が遠い。その借家は大家が建て替えて自分たちの住まいにしたと聞いている。今までその跡を見てみようとは思ったこともないのに、突然の心の揺らぎが不思議だった。
 道を間違えたはずはないのだが、両側につづく家々の佇まいといい、商店の店先の気配といい、どうも見慣れない感じだ。大きな石柱の門の前に出て、表札を見ると「N株式会社」とある。N社の名前は懐かしい。しかしどうにも昔の面影ではない。高い塀があって中は見えなかったはずなのに、今は低い植え込み越しに学校の校舎のような建物が覗け、それは工場の施設のようにはとても見えない。しかしこのN社の門が昔と同じ位置のままとすれば、道を挟んで斜め前に借家へ入る私道があるはずだ。
 道の左手に見覚えのある庇門がある。子供が幼稚園で一緒だったYさんの家だ、と思い出した。昔は門の前に植え込みがあったはずだが、今は道に面してカーポートがつくられている。
 それで私道の位置がわかった。入って、その右手二軒目。左はアパートの裏塀。私道に沿って、門と明灰色に塗った低い塀が新たに作られている。借家のときは家の奥は私道のつきあたりまで空き地だったが、今は土地をいっぱいに使って塀と同系統の色塗りをした家が建てられている。もういいだろう、と私は思った。もし大家が住んでいるのなら、私の顔を覚えているかもしれないし、そうすれば挨拶で済ますわけにはいかず、少しは現在のことも話さなければならなくなるかもしれない。それは今の私には煩わしい。
 戻ろうとしたとき、門の奥に、二階の窓に届くほど枝を張った枇杷の木に鈴なりに実がなっているのが見えた。幹の近くの葉は黒ずんで生気がないが、枝の先の方には明るい灰緑色の若々しい葉がたわわに実った果実と競い合っている。
 Yさんのカーポートの前を過ぎようとして、思い出した。子供が幼稚園児のころだ。親子三人で買ってきた枇杷を食べ、その種を庭に蒔いたことがあった。そのうち一本か二本芽を出し、やがてうす緑の葉を出し、葉は成長して黒変し、また次々にうす緑の葉を出し、幹は硬くなり子供の背丈くらいになったのだ。そのときの枇杷の木の一本に違いない。
 思わず振り返ると、枇杷の木は家々の陰に隠れて見えなかったが、明るい人肌のような果実の充溢が見えてくるようだった。

第四話 目的地まで

 主(あるじ)に促され、客はソファーに腰を下ろした。主は窓際の机から椅子を引き出し、腰を下ろして客に対座した。
 「で、何か私に要求したいということでしょうか。」
 主の声の調子は硬かった。窓からの光が逆光となって顔の表情も暗い。客は悪びれず、
「電話でもお伝えしたと思いますが、私はただ先生に確認したいことがあってお伺いしたので、それ以上の何かはまったくありません。」
 「確認……」
と繰り返して、主は客の顔を窺う。
 「私が調べてみることにしたのは、先生が紹介されていた小説を読んでみようと思ったからです。するとその同人誌は実在していないらしいということだったのです。だから、だれかの小説を批評欄を借りて先生が紹介しようとしたか、あるいは先生の自作をもとにした架空の批評なのではないのかと考えました。どちらにしても、原作があるのならそれが読めればと思って、突然ながらお電話した次第です。」
 主は、二十歳ほど年下に見える客の実直そうな物言いにやや安心した様子で
 「原作を、ね。」
と言って、しばらく考え込んでいたが、
 「まあこの期に及んで言い逃れはできないでしょう。ご推察とおり私の架空批評です。編集部に知られれば始末書ものか、担当を下ろされるかもしれませんね。しかしまあ、その程度のことは覚悟の上でやったんですけどね。打ち明けた話、同人誌評など長くやっているとうんざりすることがあって、たまに遊びたくもなるのです。私は評論家というのが肩書きですが、若い頃は小説を書いて、少しは評価もされたのです。しかしそれは最初だけで、後は鳴かず飛ばず、結局は評論とか雑文で食いつないできたというのが実際です。まあ自分でまた小説を書いたらこんなものを書いてみたいなあという趣です。原作は実在しません。しかし私の架空批評を読んで、わざわざ現物を探して読んでみようと思ったというのは、あらすじにでも何か興味をもたれたのでしょうか?」
 客は答えを考えているふうだったが、
 「いえ、先生の作であるのがわかればそれで十分です。会っていただいて、ありがとうございました。これで失礼します。」
と言って、立ち上がった。
 主は不意をつかれたように椅子から立ち上がり、手を挙げて
 「ちょっと待ちたまえ。このとおりの一人世帯だから何もできないが、近くに行きつけの飲み屋があるから、ちょっと行こう。君、飲めるだろう?」
 客は後ずさりしながら
 「いえ、本当にこれで失礼します。先生、どうぞお元気でご活躍ください。私はもうお邪魔することはありません。」
と言って、ドアに手を掛けたが、振り返り
 「先生、一つだけ。主人公はボストンバッグを一つ持って村の家を出ますね。そのバッグの中にはどんなものが入っていると想定できるでしょうか。」
 「どんなものって、君。着替えの下着とか、手拭いとか、乾パンとかだろう。その時代なら。」
 客は大きく頷いて
 「私ならそういったもの以外に、何か大事なものが紛れ込んでいた、という設定にするかもしれませんね。」
 「え?」
と言って、思わず主は前へ進んだ。
 しかし客はもう主に構わずドアを開け、廊下へ出た。
 主は慌てて後を追い、玄関へ急いだ。
 しかし玄関の戸はすでに締められて、人の気配はなかった。三和土に目を遣ると、客を上げるために端に寄せたはずの自分の靴が寸分違わず元の位置に置かれている。行動も機敏だが、随分と礼儀の行き届いた男だなと、主は嘆息した。

 机の上に積まれた本や雑誌の間から主は当該雑誌を引き抜くと、開いてみた。主が担当する同人誌評は三段組に組まれ、一段組の創作欄より字のポイントが下げられている。そのほぼ中程に問題の箇所がある。
 「……この○○は地方史研究なども含まれていて、小説は三編だが、中では『目的地まで』百枚が力作だ。まずあらすじを紹介しよう。主人公は五歳のとき孤児になり、当地方の山上の僧院に預けられる。僧院内には学校もあり、教師というのもすべて当該宗派の者、生徒もまた僧院に身を置く少年たちであった。主人公は十六歳のとき先輩僧にしたがって村の法事に下りていき、その家に一泊する。夜眠れぬまま部屋を出、裏庭から外へ出てみると、湧き水がつくる黒い池で一人の娘が水浴をしている。主人公は行き過ぎようとするが、目が釘付けになって、動けない。娘は月の光を浴びた池の中から、主人公に笑いかける。
 十八歳になった主人公は、僧院の長老に悩みを打ち明ける。長老は自分の若いころの悩みを話した上で、それでも自ら経験してみることがよいだろうと、下界修行という名目で僧院から送り出す。世俗着姿で村の家を訪れた主人公は作男として家に入る。娘だけが男の素性に気がついている。よく働く男を親は見込んで、やがて婿に迎入れることになる。
 家は村では裕福な農家だったが、分家が三つもあり、それへの援助も少ないものではなかった。主人公は働いても見返りがないことにだんだん不満を抱くようになる。女体の魅力をはじめて教えてくれた妻も、子供が生まれ、雑事が増えてくると翌日の仕事などを口実に夫の求めを拒むことも多くなった。
 主人公は近くの後家と親しくなり、しばらくはのめり込むが、それにもいつか倦怠を感じるようになる。
 主人公はある日ボストンバッグ一つを手に、家を出東京へ行く。そして次々と女と関係をもち、十年ほど経った頃僧院の長老の言葉を思い出すようになる、というところでこの小説は終わっている。……」

 主は椅子の上に乗って書棚の上の天袋を開いた。この家に越して来て、ばたばたと荷物を押し込んで以来のことだ。干し草の臭いがする。蜘蛛の巣のかかった経典の束を取りのけると、奥にダンボール箱が見えた。小説も書かなくなったが、経典も読まなくなったと主は自嘲しながら箱を床に下ろし、蓋を開けた。黄ばんだ原稿用紙や手紙の束の脇に、件のボストンバッグが入っている。
 開けてみると、モノクロ印刷の駅弁の包装紙が一枚とグリコのキャラメルの空箱が入っている。包装紙に黒磯駅名の印刷があり、記憶があった。しかし、それで全部だ。
 なんだ、何もないじゃないか。

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