神田神保町

   1
木の戸を押して中に入ると、すぐ目の前に紺色のお仕着せの店員が立っていて、私を見て目礼をしたが、すぐ、横の短髪の少年の方に目を戻した。
「できるかどうか、ちょっと聞いてみましょう。」
そう少年に言うと店員は奥の帳場へ行き、年配の店主らしい男と小声で話を交わし始めた。少年は小柄で、ウール地の上着を着、編み上げ靴を履いた、中学生とも高校生ともつかない年格好で、A4判ほどの本を手にしている。黒い蒸気機関車の前面が大写しになっているカバーが覗ける。
店員はまもなく戻ってくると、少年に、
「一割、お引きしましょう。特別ですよ。」
と言った。終わりの方はそばにいる私にも聞かせるような語調だった。
「一割って、600円……ちょっと、電車賃が……。」
少年は一人言のようにつぶやきながら、前の棚に目を遣ったり、手にしている本を眺めたりしていたが、やがてあきらめたように本を棚に戻した。そこには山岳とか祭りとか町並みといった類いの写真集が並んでいる。店員は少年から離れ、帳場の方へ戻っていった。
私は両側の棚の本をざっと眺めながら、通路を進んだ。帳場の脇に店員が手を前に合わせ外を見るように立っていて、帳場には古い肘掛け椅子が底を見せたまま横を向いている。
 反対側の通路には文学書が並んでいて、カラフルな装丁のもののなかに渋茶色の箱に入った春陽堂版「明治大正文学全集」や薄茶色の箱で大判の改造社版「現代日本文学全集」の半端物が十冊ほど混じっているのに驚いた。
店を出ようとすると、戸口の手前に栗色の髪をした若い白人の男がしゃがみこんで、設計図が覗く建築書らしい本を開いて熱心に眺めている。声を掛けるのがためらわれ、戻って帳場を廻ると、少年がまだいる。やや小太りで、頬の上気した、どことなく田舎から出てきたという感じだ。
ふと私は、高校に入ってまもない頃、二時間ほど電車に乗りこの神田神保町の古本屋街に一人でやってきて、欲しかった本をやっと見つけたとき、すでになけなしの小遣いを使い果たしてしまっていたことがあったのを思い出した。そのとき私は棚の最上段にあったその本の値段を店員に聞き、あきらめるしかなかったのだった。私には値切るなどということは考えもつかなかった。二週間後の日曜日、再び電車に乗って来てみると、もう本は売れてしまっていた。
少年は私がすぐ横に立ち止まっても気に留めず、一心に先ほどの本のページを繰っている。どのページも黒い蒸気機関車が単体であるいは列車を従えて様々な風景の中を走っている。
「君。」
私は声をかけていた。声をかけてから、私は自分が何をしようとしているのかがわかった。
少年は顔を上げ、口を少し開いた顔で私を見たが、すぐ、山腹のトンネル口から体半分抜け出し、白い煙を吐いている蒸気機関車に戻っていった。私はもう一度声をかけ、
「いくら足りないんだい、お金?」
少年は虚を衝かれたような顔で私を見ていたが、
「970円。」
と困惑した顔で言った。
私はポケットから財布を取り出し、千円札を一枚摘んで、少年の前に差し出した。
「あげよう。」
「え?」
「これで本買って、電車に乗って帰れるんだろう?」
少年は黙ったままだったが、やがて、
「でも。」
「大丈夫だよ。変なおじさんじゃないから。じゃあな。」
私は金色のC11何々というナンバーをやはり金色の横長の囲み罫の中に収めた黒い機関車の上に札を置いて、戸を引き、店を出た。
二十年ぶりに戻った東京は、バブル期の地上げで相当様変わりしているところもあったが、この神田古書店街はよく昔の姿を守った場所といえるだろう。先ほどの書店も何を探すという目的があったわけではなく、昔どおりの戸口の姿に引かれて入っただけなのだ。
私がはじめて風呂敷をもって本を買いに出て来たとき、この靖国通りには都電が走っていて、小説の中にもよく出てきたから乗ってみたいと思いながら躊躇しているうち廃線になってしまった。いま中央分離帯になって植え込みのあるところは当時乗り場だったはずだ。そこへ行くのに信号などなかったはずだから、車の通行もよほど少なかったのだろう。
「おじさん。」
という声に引き戻され、振り向くと、先ほどの少年が近づいてきた。
「おじさんの住所教えてよ。お金送るから。」
「何だ。」と私は言って、歩道端のトウカエデの木を背に少年に向き直った。
「いいんだ。人の好意を素直に受け取ることも必要だよ。」
少年は少し考えるような顔をしたが、すぐふっきれたように笑顔を見せた。
「どうもありがとう。じゃ、ぼく帰ります。」
歩道を戻ろうとした少年に私は声をかけた。
「どこまで帰るんだい、君は。」
するとまるで声をかけられるのを待っていたように少年の歩行がぴたっと止み、返事が返ってきた。
「熊谷です。」
「熊谷……。」
「知ってるんですか?」
 私は声を抑え、
 「いや。……君は高校生なのかい?」
「高一です。」
「そう……。じゃ、上野駅へ出るんだろう。」
私は神田神保町という名前をあてに神田駅で降りて相当迷ったことを思い出した。
「ここからなら御茶ノ水駅が一番いい。行き方はわかるね?」
少年は微笑んだ。
私はふと思いついて、少年に言った。
「君は昼メシは食べたのかい。電車賃に困っているぐらいじゃ食べてないんじゃないのか?」
「二時間もあれば帰れるから平気です。」
「安いものでいいんならご馳走しよう。ぼくもまだだから。」

「高校生がいいのかい、こんなとこで古本探しなんかしてて。」
「まわりは予備校へ行ったりして結構勉強してるみたいだけど、ぼくはのんびりしてるんです。手遅れになってもいいんです。」
少年は店内の梁の露出した天井やひどく凸凹のあるレンガ壁に興味ありげに目を遣りながら答えた。普段着の六十年配の女がコーヒーを運んできて、食べ終わっているカレーライスの皿を下げた。
 書店街の裏路地に二十年前そのままに喫茶店やビアレストランが残っているのには驚いた。黒ずんだり灰色がかったりしているレンガはいったい何十年経っているのだろう。四十年前には一人で喫茶店に入ることなど考えもしなかったが、その頃にもこの店はあったはずだ。店のすべてが黒みを帯びている。床、テーブル、板壁、スポットライト、窓枠、レンガ組みの暖炉——この少年でなくても十分驚嘆に値する趣だ。
コーヒーを飲み終え、落ち着いたような少年に私は聞いた。
「しかし蒸気機関車なんて、君の年代で何で興味をもったんだい?」
少年はにこっとして、
「熊谷に秩父線という私鉄があるんですよ。そこで土・日と祝日C58が走っていて、中二のとき友達と乗ったんです。」
「それは新聞か何かで見たことあるな。長瀞まで行くんだっけ?」
「おじさん、長瀞知ってるの?」
「いや。……名前だけね。」
「長瀞から秩父を通って三峰口というとこまで行くんだよ。パレオエクスプレスっていう名前はね、秩父で発見された二千年前の恐竜パレオパラドキシアからとったんだ。おじさん、興味あるんなら、ぼくお礼に切符を送るから、来てみない?」
少年は本気で誘っているように見える。私は言った。
「ありがたいけど、ぼくは今ちょっとそういう状態じゃないから……君の買った本、随分写真の多いもののようだったけど、自分で写真を撮ったりもするのかい?」
少年は顔を振って、
「ぼくは写真集を眺めたり、取材記事を読んで満足しちゃう方。この本は県立図書館で見て、欲しかったんだよ。佐古満という写真家が昭和三十年代から四十年代に全国をまわって写したものなんだ。一万円以下で買えるとは思わなかった。三万円ぐらい持ってきたんだけど、他にも買ってしまったから。」
少年の脇の紙バッグには五、六冊の本が入っているようだ。私は聞いた。
「君の趣味にご両親は何か言うことはあるのかい?」
「何も。父は公務員のような仕事をしてるんだけど、いつも外に出ているし、家にいるときはいつも客がいて、たまに顔を合わせても、勉強してるか、しか言わない。母は父の言いなりだし。」
「うーん。ぼくにも子供がいるけど、やっぱり勉強してるかぐらいしか言えなかったな。親子の会話ってそんなものなんじゃないのかな。」
少年は少し考えるような顔をしていたが、
「子供、大きいの?」
「一人は社会人。もう一人もまもなく社会人になる。」
「男の子?」
「いや。二人とも女だ。男の子だと、キャッチボールをするとか、あるんだろうけど。」
「ぼくは父とキャッチボールしたことないよ。」
床を踏む音をたてて大学生風の男が二人入ってきた。わずかに路地の光が入る窓際に席をとり、注文をした後、二言三言言葉を交わしただけで、雑誌やファイルブックを取り出し互いに黙ったまま見入っている。
「例えばの話だよ。」私は少年に目を戻し、言った。「サッカーでもいいし、将棋だっていいんだよ。」
 少年はそれには応えず、
「おじさんは子供の頃SL列車に乗ったの?」
「SL?蒸気機関車か。」
突然の問に、私は記憶を探ってみた。
「うーん。駅ではよく目にしたけど、貨物車だったね。ちょうど蒸気機関車から電気機関車とかディーゼルに転換する時期だったのかな。田舎——ぼくの生まれたのも田舎だったけど、もっとずっと田舎へ行ったときに乗った記憶がある。家によく来て遊んでくれたおじさんがいて、うん、おじさんといっても今のぼくよりずっと若くて、ぼくは君よりずっと年下の頃だったよ、その人の実家に連れてってもらったんだけど、駅にホームがないんだよ。降りて、線路を何本か越えたらもう畑の中でね、切符買ったんだったろうか。帰りもね、止まってる貨車を乗り越えて、平らなところで汽車を待ってるんだ。それは蒸気機関車、SLだったな。うん、ボーッという音で……」
少年は私の言葉の続きを待つような顔で私を見ている。
……就職して三年目、名古屋支社に配属になって一年経った頃だった。
会社の上司が去った後、両親は病室のベッドに腰掛けている私の前に立ったまま、しばらく何も言わなかった。母は目を伏せ、オロオロしている。やがて父は口を開くと、
「おまえのような無能がだれの力で大学へ入れ、だれの力で会社に入れたと思うんだ。恩知らずが。お世話になった方にどう申し開きし詫びるつもりなんだ。」
私は何も言えず黙っていた。やがて父はカバンから紙片を取り出し、窓際のテーブルの上に投げ出して
「家の敷居を二度と跨げると思うな。」
そう言うと、ハンカチで目のあたりを拭っている母を強引に促し、病室を出ていった。テーブルの上に置かれていたのは小切手だった。
入院して何週目か、夕食後、椅子に座って鉄柵のついた窓ガラスに写る自分を眺めていると、
「※※県※町※※※※さんが録音して送ってくれたものです。お聞きください。」
明るい男のアナウンサーの声がテーブルの上のラジオから聞こえてきた。続いてボーッと音が鳴り、シュッシュッシュッシュッという音が始まって、次第に大きく早くなったとき、ひときわ大きく再びボーッという汽笛が個室に鳴り渡ったのだ。
気がつくと、少年は写真集を開いて見ている。窓際の二人の大学生の姿はない。
「さて、出ようか。」
私が言うと、少年は頷いて、本をバッグに戻し、立ち上がった。

通りへ出ると、信号がちょうど青になっている。
「ぼくは後楽園の方に用がある。君はこっちを歩いていって、三省堂の前で坂を登るんだ。じゃ、さよなら。」
横断歩道を渡り、専大通りへ歩き出そうとして、ふと何気なく横を見ると、地下鉄神保町駅の入り口の前にボールが転がっている。使い古しの小サイズのソフトボールのようだ。何だこんなところに、と思いながら歩み寄って拾い上げたとき、通りの向こう側をゆっくり歩いている今別れた少年の姿が目に入った。
「おーい。」
私の挙げた声は車の通行音に呑みこまれ、こちら側を通る人の耳にも届かないようだった。しかし少年は私の声が聞こえたかのように振り返った。私は手を挙げ、ボールを示した。
少年は紙バッグを下に下ろすと、こちらに向かって促すように両手を上げた。私はうまく届くかどうか自信がなかったが、狙いを定め少年めがけてボールを放った。すると思ったよりよく飛び、少年は三、四歩横に走った位置で、ボールをキャッチした。
それを見て、私は思わず顔を崩して嘆声を挙げた。そして手からずり落ちそうになっている革カバンを抱え直し、歩き出そうとした。すると少年は、受けたボールを前後に振って、投げるぞという仕種をしている。
私は頷き、カバンを足もとに置いた。
少年は私のまわりの通行者が途切れるのを待つようにしてから、こちらに向かってボールを投げてよこした。ボールはほとんど私の立ったままのところに届いた。
「うまいじゃないか。」
声に出して私は言った。通りの向こうで少年はさらにボールを待つ仕種をする。
私はまた狙いを定め人の途切れるのを待ってボールを放った。今度は少し距離が足りなく、少年は前に走り出てきて、歩道端の山茶花の枝に触れながらかろうじてボールを受けた。
「すまん、すまん。」
私が声に出して言ったそのとき、少年の手からボールが零れ、コロコロと車道に転がり出てしまった。少年は幼児のようなにこにこした顔で道にとびだした。危ない、と私が叫んだ瞬間、横から中型の運送車が走ってきた。
 車が通り過ぎ、なにごともなかったように人が通行している。
 無事だった……。しかし少年はどこへ行ったのだろう。
 三車線の道の上を次々と通り過ぎる車の間からは、 中央分離帯の植え込みと、歩道端の山茶花の木と、書店のガラス窓が目に入るだけなのだ。

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