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変わらない面影と忘れられない言葉

こんばんは。

唐突だが、わたしは過去を振り返るのが好きである。
noteの記事だけでも(数えてはいないが)大半は過去のことについて投稿している。

しかし、勘違いしてほしくないのは、
過去に囚われているのではなく、ノスタルジーを感じることが好きなのだということ。
もっと詳しくいうと、もう戻ることのできない時間に刻まれている記憶や思い出を、その回想を通して“再度体験している”ような気がするその行為が好きなのだと思う。

とはいえ、経過している年月が昔なら昔なだけ良い、というわけでもない。
そこに自分が深く強く気持ちが動かされないと、よりよいノスタルジーを感じることはできないのである。


先日、父親とお昼ご飯を食べに出かけた時のこと。
いつも食べる店はわたしが決めているのだが、その日は2択で迷っていた。
正直どちらも同じくらい食べたかったので特に決め手のないまま、まぁ近いから、という理由でつけ麺屋さんに行くことになった。
わたしは物事のほとんどが即決で、その上食べる店ごとに食べるメニューが決まっている。
初めて行く店以外は飽きるまで同じメニューを食べ続ける、食の冒険をしない女だ。

もちろん今回も食べるメニューはつけ麺だと決まっているため、慣れた手つきで券売機のいつもの場所を押す。
あれ、値上げしてる。わたしとお昼に行くと物価高は大痛手だねって話すと、父親になんで?という顔をされた。
あまり痛手じゃないのかな。それともわたしとお昼に行くのを楽しみにしてくれているのかな。
それ以上は想像で完結したため聞かなかった。

店の中に入るとわたしたち以外お客さんはいなかった。
いつも昼時は混んでるのに珍しい。
そう思いながら頼んだメニューが目の前に届けられた時、1人のおじいさんが店に入って来てカウンターに座った。
その店の味付けは濃く、2つしかメニューが無い(つけ麺orラーメン。セットメニューもある)ため、どちらを選んでいてもおじいさんは胃が強い人なんだなと思った。

普段わたしはおしゃべりで、誰といても基本的に会話が尽きることがないし無言の時間はほとんどないと言っても過言ではない。
人によってはうるさがられるかもしれないが、自称口から生まれてきているのでこれは性格なのだ。仕方がない。
そんなわたしだが、考えている時だけは口を閉じている。ついでに耳もシャットダウンしているため、話しかけられても上の空状態。
何を言われても返答ができない。
その時のわたしはそのおじいさんのことを考えていた。
どこかでみたことがあるような顔。どこだったかな。
過去をかなり遡り、同じような顔の人を探してみた。
……いるわ、1人。
「あのカウンターに座ってる人、中学時代の担任っぽい」
父親はこの店の社員見習いみたいな人が最近厨房に昇格してるみたいだと話をしていたらしいが、それを遮りわたしは言った。
「中3の時の担任だ。絶対そうだ!どこかで見たことある顔だなって思ってたんだよね」
興奮してそう話すと、わたしはまた過去の思い出に気持ちを馳せた。


当時中学3年生だったわたしのクラスは学年一騒がしかった。
ヤンチャな人も多く、それ以外のクラスメイトを思い返してみても、すべての人たちが個性的だった。
もちろんわたしもその中の1人だったように思う。
帰りのホームルームはうるさくてなかなか終わらないし、授業中には居眠り、携帯、手紙回し、おしゃべり、遅刻、そんなことザラだった。
大人になった今の立場から考えると、本当に話の聞けないガキたちだなと、間違いなくわたしは顔に出てしまうに違いない。
だが、その時の担任は違った。
毎日笑顔だった。が、時には厳しかった。
けれども声を荒げるような怒鳴り声を聞いたことはない。
いつでも生徒の話をちゃんと聞き、その上で現状と改善を自分の頭で考えさせるような先生だった。
当時の想定年齢は50代前後ではなかろうか、という見た目でまさにベテランのおじいちゃん先生。
おじいちゃんという歳ではないが、その担任の名前が◯井だったため、おじいちゃん先生とあだ名がついた。
先生は、おじいちゃんじゃないわい!と毎回言っていた。

クラスは毎日騒がしかったが、決して仲の悪いクラスではなかった。
特に運動会はかなり真剣に燃えていた。
準備も、出場種目の配役も、練習も。
しかしながら、今振り返ってみても優勝できたかどうかまでは思い出せない。
わたしの中で結果より、クラスが一丸となることが嬉しかったし楽しかったのだなと思う。
先生がみんなにお疲れ様!と笑顔で言っていたことやその後クラス全員で打ち上げに行ったことも覚えている。
なので、勝手に優勝したんだろうなと思うことにする。

そんなクラスではあったが、徐々におしゃべりでのうるささではなく笑い声が溢れるうるさいクラスへと変わっていった。
(帰りのホームルームは学年のクラス全て同じ時間から始まるので、廊下に他クラスの笑い声が響くのだ)
これは先生の努力である。
みんなを笑わせようと果敢に毎日何かに挑戦していた。
時にはウケを狙ったギャグで大スベりすることもあったが、手品を見せてくれることもあった。
とにかくもう、面白かったのだ。
先生は、スベった時は頭をぽりぽりと掻きながら「あれ?面白くなかった?」と言い、ウケた時は誰よりも少年のような笑顔で笑っていた。

中学3年生、卒業式。
先生は最後のホームルームで未来に向けた話をしてくれた。
「今からより広い社会に出るキミたちは、その時大きな悩みを抱えることが必ず来る。どうしても気持ちが塞ぎ込んでしまうかもしれないが、“一日一笑”という言葉を思い出してほしい。悲しいことや嫌なことがあった一日の中でも、一回笑うということで気持ちが少し晴れると思うから」

“一日一笑”

それは先生が考えた造語で、4月にわたしたちのクラスに掲げられた目標でもあった。
先生が、達筆とは言えない字で(当時わたしは習字を習っていたためそう思っていた)、でも先生の思いが込められているその字で書かれ、クラスの後方に貼られており、わたしたちは毎日毎日見ていた。
先生も教壇に立つ時、その目標を毎回見ていたことだろう。
自分自身を使って笑ってもらおうとしていたのかもしれない。
今ならこう思うことができる。すごい大人だな、と。


そんな先生との思い出を振り返った後、
父親に「話しかけに行ったら?」と言われた。
始めはわたしもそうしようと思った。
しかし、自分の顔はさほど変わってないにしろ、わたしは先生が教えてきた何百もの生徒の内の1人。
覚えていなくても話しかけられたら嬉しいだろうなと思いながらも、そうすることはしなかった。
自分の格好が適当だったのもあるが、先生との当時の思い出は当時のままでいい、と思ったからだ。

先生に担任をしてもらってからもう10年以上の年月が経過している。
ちゃんと時間が流れているということを意識させるように、シワや苦労も見てとれた。
しかし、変わらないものもあった。
先生は毎日スーツの上に作業着を着ていたが、そのおじいさんもスーツの上に作業着を着ていた。
間違いなく、わたしの担任の先生だった人だろう。

先生は何歳になったのか。まだ先生をやっているのか。
気になることがたくさんある。
わたしももういい歳をした大人である。
大人対大人で話してもみたかったが、そうすることをやめたのだ。

「ごちそうさまでした!」

そう言い、父親とわたしは席を立った。
「ありがとうございましたー」という店員をよそに、わたしは先生の背中を横目で見ながら店を出た。

もう今回のように奇跡的には会うことはないであろう先生が、どうか健康でいられますようにと願いながら。


(イラストは先生の後ろ姿。作業着は当時の色より少し褪せていたように感じた)

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