25歳、息するように感じる不安と焦り
20歳を超えてから、希望や期待よりも、不安や焦りの占める割合が年々高くなってきている感覚がある。
何もしない時間を過ごせば焦燥感に駆られ、だらだら眺める画面の先の他人の人生に「自分はどうなんだ」と不安を感じる。
昔は、何も考えずただただ直感で生きていた。
もちろん、当時は当時の自分なりに考えてはいた。
けれど、年齢を重ねるにつれ、築き上げてきたものや得たものも、少しずつではあるがそれなりに増えてきて、徐々に“手放す”ハードルが上がってきている。
「やっちゃいますか!」
迷った時、いつも頼りにしていたもう一人の自分の、鶴の一声。
そんな直感に素直に従える軽やかさも、冒険心のようなものも、すっかり無くなりつつある。「自分らしさ」とか「これまでの努力」とか、そういうものが重い足枷になっている。
25歳は、中途半端だ。
24歳の時も、同じことを思っていた。
「中途半端ではない年齢なんてあるのか」
「そもそも中途半端ではないって、どういうことだ。25ってキリの良い数字だと思うけど」
今ではすっかり現実的な判断をするようになった、もう一人の自分が冷静に問う。
決して25歳が中途半端なのではなく、僕らは、中途半端だと思いたいのだ。
そういう、迷いや苛立ちやモヤモヤを全て詰め込んだ、「まだ自分は終わっていない」という気持ち、それを“中途半端”ということにしておきたいのだ。
「自分の人生こんなもんでいいや」
と割り切るにはまだ早い気がしてしまうのだ。
「自分には何か才能があるんじゃないか」
「自分の人生、ここからとんでもない展開が待っているんじゃ」
そう思わずにはいられないのだ。
僕らは、日々ネガティブな気持ちになりながら、「自分が分からない」と言っておきながら、本当は誰よりも自分の可能性を信じようとしている。
だから、漠然とした中途半端感、不完全燃焼感を必死に消そうとしている。「自分は何者だ?」という問いの答え合わせをするために、必死にもがいている。
そうこうしているうちに、気づけば24歳の1年間も終わってしまったけれど、僕らは往生際が悪い。
だから、25歳ももがかせていただくつもりだ。
完全な人間、完全な人生なんてないのだから、中途半端を脱しようと突き詰めていった先も、きっとまた中途半端なのかもしれない。
それに、中途半端でも別に良いのかもしれない。尖っている必要なんてないのかもしれない。
それでも、僕らはもがき続ける。
何者かになれるその日まで。「もう中途半端で良いや」と思えるその日までは。
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