100のスキより、たった一人の、生の「好きです」が嬉しい
たとえリアクションがなくても、誰か一人に届くと信じて書いているけれど、「誰かに届け」と願うより「この人に届いたのか」と分かる方が嬉しい。
自分の言葉なんて、自分の伝えたいメッセージなんて、自分が言葉に乗せた思いなんて、きっと十分には届かない、そんな気がしていた。
Web上だけで発信していると、これといった手触りや実感がない。
フォローバック目的のフォローも、自分の記事へ誘導するための下心の見えるスキも、本当にスキを伝えたくて押されたスキも、どれも無感情に「通知」として流れてくる。
自分に対してのリアクション全てを、疑いの念を持って受け止めているわけではないけれど、「100%素直な気持ちで受け止めている」とは決して言い切れない。
今目の前に存在するこの人に、アイコンじゃなくてリアルな存在としての輪郭を持ったこの人に、「あの文章、好きです」とか「すごく共感しました」とか言われたい。その時の嬉しさや喜びは、やっぱり大きい。
「noteで文章を書いている」と言うことはあっても、実際に自分の文章を読んでくれている人から、生の声や感想を聞いた経験はほとんどなかった。
偶然にも、2日前にそんな機会があって。
月並みな表現だけれど、すごく嬉しかった。
自分の文章が褒められたことや認められたこと、そんなことよりも、自分が文章に込めた想いが伝わっていたり、自分の文章や言葉によって、ほんの少しでも心の温度を上げられたことが何よりも嬉しかった。
最近、「書くこと」に対して、純粋な気持ちで取り組めなかったりモヤモヤしていた状況も重なって、励みになった。
思い返せば、昔にも同じような出来事があったっけな。
仕事が全然うまくいっていなくて、けれどそんな素振りは周りの人に決して見せられなくて、そんな決壊寸前だった時、一人のクライアントさんがかけてくれた言葉に救われた経験がある。
どんなインフルエンサーの言葉よりも、顔の見えない励ましのメッセージよりも、深く沁みた。
いつだって、自分の背中を押してくれたり、心をあたたかくしてくれたのは、しっかりとした手触りのある生の言葉や声だった。
決して多くはなかったとしても、たった一人、たった一つで、何百、何千それ以上の手軽なリアクションに匹敵する。
noteでリアクションをもらえることも、もちろん嬉しい。それが当たり前じゃないことも、ちゃんと分かっているつもりだ。
けれど、生の声で、自分の文章に対して「スキ」と言われる場面はもっと貴重だ。ここ2年間は特にそうだったかもしれない。
だから、そんな機会を愛おしく思わずにはいられない。
100のスキより、たった一人の、生の「好きです」が聞きたい。
次それを聞けるのはいつか分からないけれど、そのいつかまでは文章を書き続けようと、密かに決意した。ほのかに残る、2日前の温もりを感じながら。