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押井守の悪意炸裂!「イノセンス」

今回は、映画「イノセンス」について書きたい。
これは言わずと知れた「GHOST IN THE SHELL」の続編であり、2004年の押井守監督作品。
総じて、「映像は凄いけど面白くない」と評されてる映画である。
うん、そこは概ね同意する。
ただ映像の美しさについては、前作以上だったかもしれん。
この映画制作の目的は、半分ぐらいは押井さんが日本アニメの技術水準上限を記録として残すことに意味があったんじゃないだろうか。
制作費20億円に対し、興行収入は10億。
大赤字である。
ほぼ同じスケールの投資作品としては、「もののけ姫」が制作費21億で、興行収入202億。
比較にならん格差だ。
ちなみに、前作「GHOST IN THE SHELL」の制作費は6億だったらしい。

こういうところに、めっちゃおカネかけたんだろうなぁ・・

先日、たまたま「GHOST IN THE SHELL」「イノセンス」を2本続けて見てみたのよ。
すると、以前単品で見た時はさほど面白いと感じなかった「イノセンス」が、妙に刺さるものがあってね。
そう、「イノセンス」は「GHOST IN THE SHELL」と併せたパッケージ視聴をしない限り、その面白さは半減なのさ。

じゃ、まずは「GHOST IN THE SHELL」におけるバトーの草薙への想いについて。
彼は、草薙を自分の同類と感じてたはずだ。
お互い、脳を除けばあとは全て機械の全身義体。
その脳も電脳化されていて、もはや自分は人間かアンドロイドか、自分でもよく分からないところまできてたと思う。
しかし、この曖昧なアイデンティティこそ、バトーにとっては少佐との大切な絆だったんだよ。
一方、草薙は作中でバトーにこう語っている。

「人間が人間である為の部品は決して少なくないように、自分が自分であるためには、驚くほど多くのものが必要なの。
他人をへだてるための顔、それと意識しない声、目覚めの時に見つめる手、幼かった頃の記憶、未来の予感。
それだけじゃないわ。
私の電脳がアクセスできる膨大な情報やネットの広がり、それら全てが私の一部であり、私という意識そのものを生み出し、そして同時に私をある限界に制約し続ける・・」

実は、この時の彼女の言葉こそが後々の重要な伏線であり、物語終盤で彼女はある限界を突破する為に「人形使い」と融合し、制約から自由の身になったわけさ。
つまり、あっち側の世界へと行っちゃったんだよね。
ひとり、バトーは取り残された・・。
そう、ふたりは分かり合えてるようで、実は根っこで分かり合えてなかったということ。
かたや肉弾の戦闘特化型、かたやネットに繋がるハッカー型。
おそらく、そこにふたりの差が出たんだろう。

「GHOST IN THE SHELL」のラストシーン

「GHOST IN THE SHELL」のラスト、草薙は上の絵のような姿になっている。
まるで、お人形さんだ。
これは「人形使い」と融合した草薙のアイロニーであると同時に、また本作の続編「イノセンス」へと繋がる重要な伏線である。
なんせ「イノセンス」では、「人形」こそが最重要のキーワードだから。

これが、「イノセンス」の終盤で出てきた草薙の姿↑↑
一方、これは草薙とバトーが闘った敵の姿↓↓

つまり敵は人形であり、それと闘う草薙もまた人形。
普通、草薙と敵の区別がつくわけないよね。
というか、草薙は電脳ハックして敵の個体をひとつ借りただけだから区別がつかなくても当然なんだけど、なぜかバトーはすぐにこれの中身が草薙だと気付くんだから不思議。
なぜ気付けたのか、正直よく分からん・・。
で、ふたりは別れ際、こういう会話をしていた。

バトー「ひとつ聞かせてくれ。今の自分を幸福だと感じるか?」
草薙「懐かしい価値観ね。
少なくとも今の私に葛藤は存在しないわ。
・・孤独に歩め。悪をなさず、求めるところは少なく」
バトー「林の中の象のように・・」
草薙「バトー、忘れないで。
あなたがネットにアクセスする時、私は必ずそばにいる」

「GHOST IN THE SHELL」は草薙の葛藤を描いた物語だったというのに、「イノセンス」の彼女は「今の私に葛藤は存在しない」とはっきり断言している。
仏教でいうところの解脱、悟りの境地といったところか。
敢えて、彼女は会話の中で仏教の一説を引用している。
孤独に歩め。悪をなさず、求めるところは少なく、林の中の象のように。
これは、孤独であることを肯定したブッダの言葉だという。
「林の中の象」は、バトーがよく「ジャングルにいた頃」というフレーズで傭兵時代の話をする癖にかけてると思われ、つまり草薙が言わんとしたことは、今のふたりの距離感の肯定、お互いの孤独の肯定。
しかしその一方「あなたがネットにアクセスする時、私は必ずそばにいる」とも言ってるわけで、これは「お互い孤独でも、ちゃんとふたりは繋がってるのよ」という彼女なりの慰めの言葉である。
悟りを開いた草薙だからこそ、バトーが抱える葛藤に気付いたんだと思う。

これは、「イノセンス」ラストシーン。
犬を抱いたバトー、娘を抱いたトグサ、人形を抱いた娘。
この奇妙なトライアングルの映像でラストが締めくくられる。
何だか、バトーの神妙な表情が面白い。
ここでもまた人形・・。
バトーは人形を抱く人間の姿を見て、「自分はどっちだ?」と思ったに違いない。
バトーとトグサの娘との間に、一種の隔絶感が見える。
そういや、「攻殻機動隊SAC」でのバトーは、機械のタチコマに天然オイルを与えるなどして生き物扱いをしてたっけ・・。
「イノセンス」でも犬の餌に対しては妙なコダワリを発揮したりして、このへんは彼の考え方が少し伺える部分だ。
ひとつ、物語冒頭にあった警察の検視官とのやり取りを思い出してみてほしい。

検視官「人間は、なぜこうまでして人間の似姿を作りたがるのかしらね。
・・あなた、子供は?」
トグサ「娘がひとり」
検視官「子供は常に人間という規範から外れてきた。
つまり確立した自我を持ち、自らの意思に従って行動をするものを人間と呼ぶならばね。
では、人間の前段階としてカオスの中に生きる子供とは何者なのか。
明らかに中身が人間とは異なるが、人間の形はしている。
女の子が子育てごっこに使う人形は、実際の赤ん坊の代理や練習台ではない。
女の子は決して育児の練習をしているのではなく、むしろ実際の育児と人形遊びは似たようなものなのかもしれない」
トグサ「一体、何の話をしているんです・・?」
検視官「つまり子育ては、人造人間を作るという古来の夢を、一番手っ取り早く実現する方法だった、そういうことにならないかと言ってるのよ」
トグサ「子供は、人形じゃない!」
バトー「人間と機械、生物界と無生物界を区別しなかったデカルトは、5歳の齢に死んだ愛娘にそっくりな人形をフランシーヌと名付けて溺愛した。
そんな話もあったな・・」

この検視官、あまりにも意味あり気な人物だったので「あ、こいつが事件の黒幕?」と最初疑ったが、実は出番がこれだけだった(笑)。
大御所・榊原良子さん(「パトレイバー」の南雲隊長の人)せっかくの起用だったのに・・。
さて、この「子供キモい」という検視官と「子供カワイイ」というトグサの間に挟まれたバトーは、なぜか検視官寄りの発言をしてこの場をおさめたんだ。
どっちかというと、バトーは「子供キモい」派なんだろう。
犬やタチコマの方がいい、と。
そして人形の方がいい(草薙や自分を含む)、と。
それを踏まえて、もう一度トグサの娘を見てくれ。

やっぱ、この娘キモいっす。
というか、敢えてキモく見えるようにしてる押井守の悪意を感じる。
そして例の検視官の
「子供は常に人間という規範から外れてきた」
「人間の前段階としてカオスの中に生きる子供とは何者なのか。
明らかに中身が人間とは異なるが、人間の形はしている」
という言葉をまさしく裏付けるようにして、連続殺人の実質的な犯人は結局こいつだったわけよ↓↓

拉致監禁の被害者だった彼女だが、この子は自身のSOSメッセージとして、人形による殺人騒動を起こしたという。
バトーは、ぺらぺらとそれを語る彼女を一喝する。
ただ、その一喝もなんかズレてるんだよね。
「犠牲者が出ることは考えなかったのか?
人間のことじゃねぇ。
魂を吹き込まれた人形がどうなるかは考えなかったのか!」

はい、バトーさんのスタンスはあくまで人形寄りです(笑)。
そして、怒られた少女は
「だって、人形になりたくなかったんだもの~!」
と大声で叫ぶんだけど、その時の顔がまた何ともキモくて・・。

ここまでやるのは、明らかに押井守の確信犯的な悪意じゃん。
そして、キモい少女とは対照的に美しく描写されたのが人形の方である。

物語の冒頭、警察の鑑識室にあった人形

人間の子供が醜く描かれ、人形が美しく描かれるのは、きっとバトーの主観という設定だろう。
ちなみに、こういう設定を抜きにした神山版「攻殻機動隊」では、押井さんが過剰にキモく描いてしまったトグサの娘をちゃんとフォローしている。

上が押井版、下が神山版

ここまで美しく変貌したトグサの娘は、まさか、顔に義体手術を施したのか・・?
いやいや、そうじゃなくて、ただ単純に弟子の神山健治が師匠の尻を拭いたんでしょ。


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